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キラとニクラの大冒険 I  作者: 雨宮 つむり
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序章

キラとニクラは2人で海に潜る計画を立てていた。

2人は大人たちから絶対に海へ行ってはいけないといつも言われていた。

とりわけキラの親は厳しく、キラは事あるごとに激しく反抗していた。

ニクラに親はおらず、叔父と暮らしていた。

叔父はニクラを邪魔者だと思っており、いつもうとましく思っていた。しかし、子どもがいると県からの補助金がでるため、叔父はろくに働きもしないで補助金をあてにして生きていた。

彼はどうしようもない怠けもので、また途方もない阿呆だった。まだ12歳のニクラは彼よりもはるかに賢かった。しかし、ニクラは普段その賢さを見せることはしなかった。

なぜなら、その賢さは叔父の理解を超えており、叔父は自分の理解できないことを話すニクラを恐れて、鞭で打つことは目に見えていたからだ。


叔父はわずかな学費と給食費を惜しんでニクラを学校に通わせなかった。

叔父が家にいない日に、ニクラは叔父の目を盗んで、ワイン売りのアルバイトをしていた。

そのお金で本を買って文字を覚え、あらゆる知識を得た。

本はいつも森の大きな木の根っこの穴ぐらに隠した。


ニクラはキラと一緒にいるときだけ本当の自分になることができた。

キラの学校が終わる夕方、2人はいつも森で会った。

キラはニクラの話を理解し、またそれを楽しんだ。

キラはニクラを好きだったし、ニクラもキラが好きだった。

しかし、キラの親はキラがニクラと一緒にいることを嫌った。

ニクラは他の子どもたちと違い、学校にも通わず、いつもボサボサのカラスの巣のようなとっちらかった黒い髪の毛の下でクルミのように大きな目玉をギョロギョロさせて、小汚い格好をしていたし、大人からも子どもからも敬遠されていた。


キラとニクラの住んでいる町は周りを山や森に囲まれていた。馬に乗って北へ2週間ほど行くと、多くの鯨がいる湾岸へ出る。歩いて行くなら大人の足でも1ヶ月半はかかる。

海ではとてもきれいな宝物や森や湖では取れない美味しいものが取れると大人たちは噂していた。しかし、海には邪悪な化け物がいて、あまりに危険なため、実際に海で宝物や美味しいものを取ってきた者は大人でもほとんどいなかった。

もちろん、キラとニクラも行ったことがなかった。


ある日、ニクラの叔父がいつものように酔っ払って帰って来ると、その日は特に機嫌が悪いらしくニクラを意味無くぶった。

叔父は千鳥足でフラフラになりながらも、ニクラを殴り続けた。

泥酔しているのでさほど痛くはなかったけど、めったやたらに腕を振り回すので叔父は窓ガラスを破った。

拳が切れて血が滴っていた。

叔父はわけのわからないことを叫びながら足をもつらせて床にひっくり返って、ぐうぐうをイビキをかき出した。


ニクラは叔父の手に刺さったガラスを全部残らず、ひとつひとつ丁寧に取り除き、シーツを破って細い包帯をこしらえて、叔父の手にきつく巻きつけて血を止めようとした。

しかし、酔っ払って血の巡りがよくなっているのでなかなか血は止まらず、ニクラの手や腕やひざは血まみれになっていった。

蒔きストーブの上に魚を燻製にするための針金がぶら下がっており、そこにシーツを巻きつけて叔父の手首を吊るし上げた。するとようやく血が止まった。

叔父はイビキをかいたまま、そのまま寝ていた。

ニクラは床に散らばったガラスの破片を片付けた。血のついた服を脱いで洗い、身体を濡らしたタオルで拭いた。

疲れ切ったニクラはそれから朝までぐっすり眠った。


海にはエスパーというこの地方にしかいない海鳥が住んでいて、彼らは朝になると、ときどき町のほうまで飛んでくる。

エスパーの怪鳥のような甲高い鳴き声でニクラ目を覚ました。

土間を見ると、叔父はまだ昨日と同じ姿勢で眠りこけていた。

ニクラは顔を洗い、ペリオをいう植物の茎で歯を磨いた。

それから、叔父を見ると、もう出血は止まっていたが、一晩中吊り下げられていた手首は血の気を無くして作り物のような色になっていた。

針金から手首を下ろしてやろうと手を伸ばした時、叔父はなにか寝言を言いながもぞもぞと身体を動かした。


。。。たから。。。ぐゔ~。。。すばるからくり。。。。


叔父はいつも町の飲み屋に入り浸り、金儲けの噂話をしていた。

とりわけ海の宝物についての噂が多く、酔って帰ってくるたびに、どこの誰がどんな方法で宝を手に入れた。なんてまるでインチキくさい話を自分が成し遂げた自慢話のように言ったり、おれも宝を手に入れてこんなしみったれた暮らしも、お前とも、すぐにおさらばだ!とわめいたりした。

実際には、叔父に海を探検する勇気も知恵も無く、口ばかりだった。

そんな話を叔父から毎日のように聞かされていたので、ニクラも海の宝物の噂をよく知っていた。

叔父はいつも不明瞭な大声でインチキくさいことばかりを言っていたから、ニクラはあまり叔父の言葉を信じていなかった。

しかし、このとき聞いた叔父の寝言には、ニクラは鋭く反応した。

「すばるからくり」という言葉がニクラの直感にひっかかったのだ。


ニクラは叔父の手首を下ろすことも忘れて、つむじ風のように家から飛び出した。



昨夜、ニクラが叔父に殴られていた頃、キラは2階のベランダから月を見ていた。


キラの両親は二人とも教師だった。父親はキラの通う学校の校長で、県の教育委員会の委員長も務めていた。

この国では学校教師というのは医者や政治家のような高い階級で、よほどの成績で高級大学を卒業した者しかなれない職業だった。

高度な教育こそ強大な国を作る礎になると信じられていたからだった。

学校教師は町の人たちから聖職者として崇められ尊敬された。

ましてや、教育委員会委員長である父親には町のルールを変えるほどの権力を持っていた。

母親は目鼻立ちの整った美人で、すらっとした鼻や柔らかな笑顔は人に慎ましく美しい印象を与えた。また、彼女は人に好印象を与える術を心得ていた。

町の高官たちが集まるパーティーではいつも人目を惹いた。

母親もまたキラの通う学校の国語の教師で、町の人たちはキラの家族を、非の打ち所がない理想的な家族だ。と噂した。

母親は家をいつも清潔に保つために掃除婦を雇い、庭をいつも素敵に保つために庭師を雇った。

おしゃれで高価な家具を集め、しかし嫌味に見えないように気を遣っていた。

キラにも常に学年で一番の成績を求めて、家庭教師をつけていた。もっとも、学校教師の家で家庭教師を雇うのだから、表向きは掃除婦の一人ということにしていた。

全ては世間体のためだった。


彼女は教育委員長の奥さんで自分も優れた教師であるその立場が気に入っていた。

彼女にとって、それは何よりも大事だった。

そして、自分も自分の家族も全ては完璧であると信じていた。

だから、キラも完璧であることを当然のこととして求めていた。


その日の夕食で、母親はキラに、またニクラのことを言った。


あなたは将来、教師になるのよ。そのためにもっと賢い子たちと付き合いなさい。あんな汚らしい子と会うのはやめて、サーシャやオリビアたちと付き合うのよ。


サーシャとオリビアは町の議員や医者の子供たちだった。2人は優等生で学校や町の大人たちからちやほやされていたし、子供たちからも人気のあるリーダーだった。

でも、キラはサーシャやオリビアといった子供たちに馴染もうとはしなかった。

キラは、彼女たちはグループを作って他の子供たちを見下しているように感じていたし、好きじゃなかった。

キラはそのままの気持ちを母親に言った。


わたし、あの子たち好きじゃないわ。それにニクラが汚らしいなんて思わない。あの子と一緒にいると楽しいわ。


しかし、母親はそれを認めなかった。母親はフォークとナイフを使う手を止めて言った。


いいこと?あんな子と一緒にいたらあなたまでバカになるの。あなたは美しくて優れた子供なの。他の子と違う特別な人間なのよ。それがわからない?

あなたの将来のために言ってるの。それともあなたはあの子のようなうす汚いバカな人間になりたいの?だいたいあの子は学校へも行かず、いつもぶらぶら森で遊んでるらしいじゃない。まるでチンピラだわ。

いいこと、あなたはもっと賢い子供たちと、、


キラはそこまで聞いて、もう我慢できなかった。


ニクラはバカじゃない!!

それがわからないお母様のほうがよっぽどバカだわ!!!


母親は、かっとなって立ち上がりキラをぶった。


親に対してバカとはなんですか!

わかってないのは、あなたのほうです!


キラははじめて母親にぶたれて、もう気持ちを抑えることが出来なかった。

テーブルクロスを無理やりにひっぱった。

テーブルの上の食べ物はひっくり返り、グラスは床に落ちて割れた。


キラは泣きながら、2階へ駆け上がって自分の部屋へ閉じこもった。


母親は、待ちなさい!とさけんでいたが、キラにはもう聞こえてなかった。


キラは布団にもぐって泣いた。

ニクラのことをあんなふうに言われたことが悔しかった。

ぶたれた頬がじんじんと痛くて、頭のどこかでぶたれるとこんなふうにほっぺたがしびれるんだ。って思っていた。


母親は階段の下から何度も、降りてきなさい!と、キラを呼んだ。

しかし、キラは布団から出なかったし、母親も2階のキラの部屋へ上がろうとはしなかった。



キラは泣き止むとベランダに出て月を眺めた。

キラは嫌なことがあるとよくベランダから月を眺めた。

月を見ていると、自分の心の中から嫌なことがきれいにぬぐわれていくように感じた。

夜はまだ寒かったけど、キラはしばらくベランダで月を見ていた。

ニクラに会いたかった。

月は静かに張り詰めた夜空にくっきりと白く浮かんでいた。


翌朝、キラは朝ごはんも食べないで、両親が起きるより早く家を出た。学校へ行くつもりは無かった。


森へ行くと、ニクラがいつもの大木の下に座って、熱心に本をめくっていた。

キラは嬉しくなってニクラに駆け寄った。


ニクラ!


ニクラは本から顔を上げると、キラがいることに驚いた。


キラ、こんな朝早くにどうしたんだい?


キラは母親にぶたれたことを話し、それから、月を眺めたことを話した。

母親がニクラをバカな汚らしいチンピラと言ったことは言わなかった。


それから、月を見ていたら、なんだかもう学校なんて行きたくなくなっちゃったの。


キラは今まで一度も学校を無断で休んだことなんて無かった。

親に反抗はしていたけど、それでもやっぱり学校をさぼるなんてとんでもないことだ。って思っていた。

でも、昨日の夜、月を見ていたら、なぜだかいつのまに、そのこだわりが無くなって、今まで大事だと教え込まれてきたものたちがつまらなく思えていた。


ニクラはそんなキラの様子に少し戸惑ったけれど、彼女のすっきりとした目を見たら、なんとなくキラの胸の内がわかった。


うん、ぼくは学校に行ったことがないけど、キラが行きたくないならきっとそれでいいんじゃないかな。


キラはニクラに話して、やっとホッとした。

やっぱり学校をさぼるなんて大それたことをしようとしてるのが怖かったし、両親に強く反抗したことの不安もあった。


ニクラに話してよかったわ!

だって学校をさぼるなんて不良だもの!


キラは笑って言った。

ニクラも笑いながら、言った。


そうさ、キラもぼくとおんなじチンピラだ!


ニクラが自分のことを昨日の母親と同じように言ったので、キラは思わず笑ってしまった。


ニクラ、お母様と同じこと言ってる!


ニクラはきょとんとした。


お母さんと同じってなんのことだい?


キラは、言った。


いいの、そんなこと。

それよりニクラこそ、こんな早くにどうしたの?


ニクラは今朝聞いた叔父の寝言のことを話した。


すばるからくりってさ、何か引っかかる言葉なんだ。

今まで噂で聞いたでたらめな話とは違う感じなんだ。

もしかしたら、本に書かれているかと思ってさ、今、調べているところなんだ。


キラも海の宝物の噂は聞いたことがあった。


それで、そのすばるからくりは何なのかわかったの?


ニクラはにっこりと笑って言った。


うん、ちょうどキラが来るちょっと前にこの本の中に見つけたよ。

まだ全部読んでないけどさ。


見ると、それは大人でも読むのが難しそうな立派で分厚いこの国の古い歴史書だった。


キラは驚いて、言った。


ニクラはこんな難しい本まで読むのね。


ううん、そんなに難しくないんだ。ゆっくり読めば誰にだってわかるさ。それに、ぼくたちが知らない面白いことがたくさんかいてあるんだよ。


ニクラは本をキラに見せた。

そのページはこの地方についての記述で、町の成り立ちや宗教や自然、そしてその中に海のことも書かれていた。


二人はそのページをゆっくりと読んだ。


昔はこの町で、海での漁は盛んに行われていたようだった。

しかし、ある事故をきっかけに人々は海へ行くことを恐れ、やがて漁は衰退し、代わりに林業や農業、また湖や川での漁業が栄えた。


今からおよそ100年前、海で漁をしていた漁船が突如、行方不明になった。その日から漁船が行方不明になる事故が増え、ある日、いっぺんに9隻の船が行方不明になった。

そのとき近くで漁をしていた他の漁船の乗組員たちの話によると、7つの頭を持つ巨大な蛇が突然海面に現れて怒り狂ったように次々と辺りの船を沈めたという。

行方不明になった船と乗組員たちは誰一人戻ってくることは無かった。

船の残骸も乗組員たちの死体も見つからず、全ては謎に包まれた。


それから50年経ち、一人の町の若者がその事故に興味を持った。

若者は、行方不明になった船を探索するために道具を作った。

それがすばるからくりだった。


すばるからくりの詳しい仕組みについては記述されていなかった。


説明によると、若者はすばるからくりにつかまって海中深くまで潜り、沈没船を探索したらしい。

若者は、それ一つで国をひとつ買えるほどの大変な価値のあるイランと呼ばれる宝石を沈没船から引き上げて、大金持ちになったそうだ。

イランは黄色く輝く透明の大きな石で月から来たという伝説の宝石だった。


100年前の事故で行方不明になったのは漁船だけではなかったのだ。近海を航海する運搬船や商船、海賊船などのいくつもの船もまた100年前に沈没していた。


若者はその後も探索を続けたが、ある日、突然、気が狂って自殺した。

多くの町の男たちもまた、こぞってすばるからくりを作り、宝探しに海へ潜ったが、彼らも気が狂って自殺するか、海で行方不明になった。

そして、発見されたイランは若者が最初に見つけた一つだけで、他に発見した者はいなかった。

その宝石は話を聞きつけた他国の王様が買っていったという。

どこの国の王様か、また、今現在、イランがどこにあるか、という記述は無かった。


100年前から続いたの一連の出来事は、全て7つの頭を持つ蛇の呪いと恐れられた。


その後はもう誰も海へ探索に出かける者はいなくなった。


それが、海の宝物について書かれた全てだった。


キラとニクラは、わくわくしていた。こんなふうな気持ちになるのは、2人ともはじめてだった。


7つの頭を持つ巨大な蛇、月からやってきた宝石、呪い、海賊船、すばるからくり。


全ての言葉がふたりを夢中にさせた。

ふたりの頭の中には、素晴らしくて危険な大冒険の想像が広がっていた。

その想像はふたりを自由な気持ちにさせた。


ふたりはもう一度そのページを読み返した。そして、他のページも探してみたが、それ以上のことはどこにも書かれていなかった。


夢中になって本を何度も読んでいたら、キラのおなかが、ぐう、と鳴った。

いつのまにかもうお昼になっていた。


キラは笑いながら言った。


お腹へっちゃった。朝から何も食べてないんだもん。


ニクラも朝から何も食べていなかったのでぺこぺこだった。


ふたりは町へ戻って、お昼ごはんを食べに行くことにした。

キラは親からお小遣いをもらっていなかったから、(必要なものは全て私が用意するから、あなたが買う必要は無いの。と、母親は言った。) お金など持っていなかった。

だから、わたしお金持ってないわ。と正直にニクラに言った。

ニクラは、にっこり笑いながら、大丈夫さ。とだけ言った。


実際、ニクラはアルバイトで稼いだお金は本を買う以外、ほとんど貯めていたので、大人が一人2~3ヶ月は暮らせるほどの蓄えがあった。

だけど、今からお昼を食べに行くところではお金がかからないことをニクラはわかっていた。


キラは町へ戻ると誰かに会いそうで、少し怖かったけど、ニクラに着いて行った。


町に着くと、ニクラはレストランの並ぶ人通りの多い大通りには行かず、狭い路地を曲がった。


ニクラ、どこへ行くの?


キラが心配になって聞くと、ニクラは言った。


ぼくのお気に入りのお昼ごはんを食べさせてあげるよ。レストランなんかより、とても美味しいんだよ。


ニクラは狭い路地をどんどん進んでいく。キラはそのあとをついて行った。

何度か角を曲がり、塀と塀の間にうっそうと生い茂ったつる草のトンネルをくぐり、しばらく歩いて、まだ着かないの?とニクラに聞こうとしたとき、唐突に路地は終わり、開けた場所へ出た。

そこは町の裏側にある湖のほとりで、湖で魚を獲る漁師以外は誰も来ないようなところだった。

正面に湖が広がり、左手には小さな小屋があった。


ほら、見てごらん。あそこに工場が見えるだろ?


ニクラは湖の右岸を指差して言った。

見ると、湖の岸辺のぎりぎりのところに工場があった。


あれは何の工場なの?


キラが聞くと、


湖の漁のための船を作ったり、修理する工場なんだ。ぼくもたまにあそこで働くんだよ。ワイン売りよりお金がいいんだ。

いつもは、工場からカンカン、ギコギコって船を作る音が聞こえるんだけど、今日は休みなんだ。

親方連中が隣町に行ってるんだって。


ぼくらがお昼ごはん食べるのは、あの小屋さ。


ニクラは左手のすぐ近くにある小さな小屋を指差した。


その小屋は今にも倒れてしまいそうに傾いていて、どう見てもレストランに見えなかった。


ニクラはキラがいぶかしく思ってる様子なんてお構いなしに小屋へ入っていった。

小屋の中は、薄暗く小さな窓から薄く明かりが差し込んでいた。

汚ない木のテーブルと2脚の椅子、古ぼけた暖炉や、花の形をしたランプ、本がぎっしりと詰まった埃をかぶった本棚、油で固まったライフル、くたびれたブーツ、赤く錆び付いた工具などがあって、床には曲がった釘やら古いコインやらがいくつか散らばっていた。

奥にもうひとつ部屋があるらしく、ニクラは奥に向かって声をかけた。


セイゲンさん!

お邪魔します!いますか?


ニクラが何度か声をかけると奥の部屋からごそごそと音がして、老人が出てきた。

キラはその老人を見て少しひるんだ。

老人の身体は極端に小さく、キラとニクラよりも背が低かった。

背中がへんなふうに折れ曲がり、顔をほとんど下に向けてゆっくりと歩いて来た。

頭はほとんど大人の握り拳くらいの大きさしか無く、少しだけ見えている顔はシワだらけで目もシワの中に埋まっているように見えた。中でも特に目立つのが鼻だった。そのシワだらけの小さな顔面のど真ん中に不自然なほど大きくそびえ立つ山のような鷲鼻は山の頂上辺りでぐにゃりと曲がって、更にそのすぐ下の位置で元に戻るかのようにもう一度ぐにゃりと曲がっていた。

その鼻はくんくんと常に動いていた。それはまるで、目が退化した動物が嗅覚を頼りに生きているようだった。そして、実際に彼の目はとても悪かったし、彼の嗅覚はとても優れていて、匂いで誰がいるか見分けることが出来た。


老人は、


ひるめしかゃ。


と、聞いてきた。


ニクラは、


はい、今日はともだちを連れてきたので、2人前!


と答えた。


キラは少し怖かったけど、


はじめまして、キラと言います。お邪魔します。。


と、礼儀正しく自己紹介をした。


しかし、老人はキラのほうに顔も向けずに奥の部屋に戻ってしまった。


ニクラは奥の部屋に向かって言った。


セイゲンさん、裏庭のテラス、使わせてもらいますね!


奥の部屋からは何の返事も無かったけど、ニクラは奥の部屋の横にある短い通路を通り過ぎて突き当たりのドアをあけて裏庭に出た。

キラもそのあとをついて行った。奥の部屋のドアは閉められていて、セイゲンさんが何をしているのかわからなかった。


裏庭に出ると埃っぽくて薄暗い小屋の中とはうって変わって、明るく華やいだ庭があった。

裏庭には、大きくて立派な樫の木のテーブルがあり、その周辺には様々な花や植物が色とりどりに咲き、すぐそばに小さな畑もあって、少しづつだが、たくさんの種類の野菜が育てられていた。

モンシロチョウが飛んで、ハチドリが花の蜜を吸っていた。

畑の横には、古い井戸と、白や青、赤や黄色や緑のタイルで装飾された焼きがまもあった。

その後ろに厩舎があり、厩舎の横で小さな馬が一頭、草をはんでいた。


あんまり素敵な庭なので、キラは思わず、わぁ、と声をあげた。


2人はテーブルについて、ニクラはキラににっこりと笑って言った。


セイゲンさん、何も言わないけど、大丈夫さ。今、ぼくたちのお昼を作ってくれてるよ。


キラはよくわからなくて聞いた。


ここはあのおじいさんのレストランなの?


ううん、ここはレストランじゃなくて、セイゲンさんの家さ。

セイゲンさんはもともと海の船乗りだったんだ。外国まで行くでっかい商船で料理長だったらしいよ。でも、海での仕事が無くなってから、船の整備士さんと2人で湖の船を作る工場を作ったんだ。その整備士さんはすごい船作りの名人で、セイゲンさんはその人から船作りの技術を教わって、職人になったんだ。

今はもう引退して、ここで一人で暮らしてるんだ。

引退してから、工場の職人たちにお昼ごはんをふるまうようになったんだって。

わざわざ町のレストランまで行くより、ここのほうが近いし、美味しいから、みんなここでお昼を食べるんだよ。

セイゲンさんは無口だけど、あの工場と職人たちのことが今でも大好きでさ、いつもとっても美味しい料理を用意してくれてるんだ。

セイゲンさんは職人たちに、工場が休みの日も食べにきていい。って言ってくれて、ぼくも工場が休みでもよくここでお昼ごはんを食べるんだ。

たまにセイゲンさんがいないときもあるからさ、今日はいてよかったよ。


キラは聞いた。


みんなお金は払わないの?


うん、船乗りってさ、仲間からお金を取らないんだ。それにセイゲンさんはこの生活が気に入ってるみたいだよ。

あと、海の船乗りだったとき、すっごい稼いで、セイゲンさんは大金持ちなんだって。って、みんなが言ってた。


おしゃべりしていると、裏庭に出るドアがぎいっと開いて、セイゲンさんが出てきて、ニクラを呼んだ。


できたぞぃ。


ニクラは立ち上がって、


うん!


と、元気よく小屋の中へ入って行き、すぐに両手にとても大きなお皿を抱えて戻ってきた。

お皿からはもうもうと湯気がたち、庭に一気に美味しそうな匂いが広がった。


キラも立ち上がって、ニクラの持っているお皿をひとつ受け取ろうとした。

するとニクラは、


大丈夫、それより中からパンのバケットを持ってきてよ。


と言った。


キラは恐る恐る小屋の奥の部屋に入るとそこはキッチンだった。

昔ながらの鉄火を使ったコンロが2台あって、大きな鍋がその上に置かれていた。まだ火を消したばっかりのようで、部屋の中はすごい熱気だった。

壁に付いた折りたたみ式の棚の上にパンのバケットがあった。

キラがそれを持ってキッチンから出ようとするときに、またニクラが入って来た。


セイゲンさん、ミルクももらうよ!と言って、冷蔵庫から大降りの牛乳瓶を出した。


庭のテーブルには、大きな身体の大人の男が食べるようなとても大きな皿のシチューがふたつ、バケットに入ったパンとふたつのグラスに入った牛乳が並んだ。


セイゲンさんはまた小屋の中で何かしているようだった。


このパンもセイゲンさんが焼いたんだよ!


そういいながら、ニクラはもうパンをちぎってシチューにひたしていた。


キラも食べなよ!


ニクラはキラにもパンをちぎってよこした。


キラは大盛りの料理に戸惑って、ニクラに小声で言った。


わたし、こんなに食べきれないわ。残したら、セイゲンさんが気を悪くするんじゃないかしら?


ニクラはたくさんのシチューを口にほうばったままで言った。


だいじょぶ。ぼく食べるから。もぐもぐ。


キラは、ニクラが全然マナー知らずで、お母様が見たらきっとまた顔をしかめてチンピラって言うわ。って、思いながら、くすりと笑った。


キラは、パンをシチューにひたして一口食べた。

シチューの透明なスープには野菜やお肉のいい出汁がふんだんに出ていて、濃くて優しい味だった。本当にいつも両親と行く高級レストランのスープよりもずっと美味しかった。


透明なスープにひたって湯気を立てているお肉はとろとろに柔らかく、煮込まれた大きなじゃがいもはほろほろと口の中でほぐれて甘かった。玉ねぎやにんじんやそら豆も裏庭で栽培しているらしく、太陽みたいな味がした。

とても美味しくて、キラは大きなお皿のシチューを全部平らげてしまった。


ああ、おなかいっぱい!

こんなに食べたの、生まれてはじめて!


キラとニクラはとても満足して、しあわせな気持ちだった。


このシチューはさ、職人のみんなにも大人気でいっつも大きなお鍋ふたつぶんも空っぽになるんだよ。


ニクラは思い出して言った。


そうだ、ぼく、セイゲンさんにすばるからくりのこと、聞いてみたいんだ。

セイゲンさんは海の船乗りだったから、なにか知ってるかも知れない。


ニクラとキラは裏庭の井戸でお皿を洗って、キッチンの戸棚に片付けた。井戸の水はきりりと冷たくて気持ちよかった。


ふたりは小屋の入り口の部屋へ行ってみると、セイゲンさんは椅子に座って机にうずくまるように何かをしていた。

机の上のランプには火が灯してあり、薄暗かった部屋の中は柔らかくオレンジ色に明るくなっていた。見ると、セイゲンさんは大きな望遠鏡のような眼鏡をかけて、小さな部品をピンセットでつまんで海中時計を修理していた。


セイゲンさん、ごちそうさま!

とっても美味しかったよ!


ニクラが言うと、キラも言った。


セイゲンさん、ごちそうさまでした!わたし、あんなに美味しいシチュー食べたことないわ!

ありがとう!


セイゲンさんは、時計から顔を上げないままで言った。


いつでも、食べにおいでゃ。


キラはセイゲンさんが答えてくれたので、ホッとした。


うん、必ずまた来るわ!

今度はわたしも手伝わせて!

あんなに美味しいシチュー、作り方をおぼえたい!


キラが言うと、セイゲンさんはまた顔を上げないままで言った。


げんきなこだゃ。またおいでゃ。


キラは嬉しくなって言った。


セイゲンさんって、すごい!

だって、お料理もとても上手だし、あんなに素敵なお庭だって作っちゃうんだもの!


今度はニクラが言った。


そうさ!だってセイゲンさんは大料理長だったし、一流の船職人だったんだもの!

そういえば、セイゲンさん!ぼく、セイゲンさんが海の船乗りだったときのことを聞きたいんだ。

セイゲンさんは、すばるからくりって知ってる?


セイゲンさんはまだ顔を上げないで、作業しながら答えた。


知ってるぞぃ。あれは50年も前におりゃのともだちが作ったもんだゃ。


ニクラは続けた。


やっぱりセイゲンさんなら知ってると思った!

すばるからくりってどんなものなの?


セイゲンは言った。


そうだなゃ、あれは、すばるって木で作った潜水艇みたいなもんだゃ。


ニクラは、うん、とうなずいて、キラも黙って聞いていた。


セイゲンさんは、口をもぐもぐさせて、それから、鼻をひくひく動かした。


それから時計をいじる手を止めて、やっと顔を上げて望遠鏡みたいな眼鏡を外した。

しわにうもれて小さくなった目は、ふたりを見たが、ほんとうに見えているのかわからなかった。


セイゲンさんは、にまっ、と口をあけて笑った。

前歯が一本しか無かった。


そりゃは(そいつは)おりゃよりずっと若い職人でな、腕のいいやつだったゃ。

昔起きた海の事故のことゃ知りたがってゃ、すばるで潜水艇作ったんだゃ。

すばるは空気出すんだゃ。

その空気が海んなかでまあるくなるんだゃ。

だがら潜れるんだゃ。


なんだ、おみゃ(おまえ)、宝さがしに行くのかゃ。


ニクラは素直に答えた。


うん、ぼく、海に宝物を取りに行きたいんだ。

セイゲンさん、すばるからくりの作り方を教えてくれますか?


セイゲンさんは、また口をもぐもぐさせて、鼻をひくひく動かした。


ずなもし、おみゃ死ぬぞぃ。


ニクラは言った。


大丈夫さ、ぼくは死なないよ。

それにぼくは宝物を手にいれて自由になりたいんだ。


ニクラは本当は少し怖くなってきていたけど、でもやっぱり、冒険に出かけたかった。

生まれてはじめて自分の行き先に希望を持てたからだった。

今のニクラには、その希望がなによりも大切だった。


すると今度はキラも言った。


わたしも行く!

わたしも海に行くわ。

だから、セイゲンさん、すばるからくりの作り方を教えてください!


ニクラは驚いた。キラも本を読んで興味を持っていたのはわかってたけど、本当に行くなんて言うとは思っていなかったのだ。

ニクラは自分一人で行くつもりだった。自分ひとりならたとえ死んだって悲しむ家族などいないからだ。


ニクラはキラに言った。


キラはダメだよ。とっても危ない冒険なんだ。女の子を連れてなんていけないよ。ぼくひとりで行くよ。


キラはニクラの目をまっすぐに見て言った。


そんなことない!わたしだって死なない。ニクラみたいにいろんなことを知らないけど、でもわたしだってなにかの役に立つわ。

邪魔になんてならない。約束する。だから、わたしも行く!


でもニクラはキラを危険な目に合わせたくなかった。


キラが邪魔だなんて思ってないよ。

でも、本で読んだだろ。昔、男たちが大勢、海で死んだんだ。本当に危険だし、ぼくだって死ぬかも知れないんだ。

だから、キラを連れて行けないよ。


すると、キラは目に涙をいっぱいにためて、ニクラをにらんだ。


さっき死なないって言ったじゃない。

なによ、女だっていいわ。。

私だって自由になりたい!あの家に戻りたくない!わたしも行く!

それにわたしがいなかったらきっとニクラは死ぬわ!だって、ニクラったら、バカなチンピラなんですから!!


すると黙ってふたりの様子を見ていたセイゲンさんが突然大声で笑った。


ひゃーひゃっひゃっひゃ!!

そのとおりだゃ!!

おみゃ、バカなチンピラだゃ!!


キラもニクラも驚いてセイゲンさんを見た。


セイゲンさんはおかしくてたまらないといった様子で、まだ笑いながら、ニクラに言った。


わかったゃ。

おみゃひとりで行くなら教えんつもりだったゃ。もし、この子もつれてくなら、教えてやるゃ。


ニクラは戸惑って、言った。


セイゲンさん!キラは学校に通う普通の女の子なんだ。家族だっている。キラを危ない海に連れて行くなんて出来ないよ!


セイゲンさんは笑いながら言った。


そりゃ、おみゃもおんなじだ。

おみゃも子どもだ。


ニクラは言った。


そうだけど。。


キラが嬉しそうに、言った。


セイゲンさんにはわかってるのよ!ニクラひとりじゃ危ないってこと!わたしが一緒のほうがいいってこと!


セイゲンさんは笑ってうなずいた。


うにゃ、その通りだゃ。


キラはさっきまで泣いてたくせに顔を輝かせて誇らしげに言った。


ほらね!!

ニクラの尊敬するセイゲンさんがこう言ってるわ!!

わたしの言った通りだって!!


ニクラは少し考えてから、笑って言った。


わかった。キラがそんなに行きたいなら、一緒に行こう。


キラは嬉しくってニクラに抱きついた。

ニクラはキラに抱きつかれたので、照れて顔が赤くなってしまった。

それを見て、セイゲンさんはまた笑った。



それから、セイゲンさんはすばるからくりについて教えてくれた。


すばるという木はこの町の森の奥にある山に生えているらしい。

すばるは普通の木の何百万倍もの濃い酸素を大量に出す木だ。

すばるを海中に入れると、ぶっくりとした巨大な気泡がすばるの周りにできて、とても強い空気の膜を作る。すばるからくりはその特性を利用したものだった。


セイゲンさんは言った。


山にゃ行ってゃ、すばるを持ってこいゃ。

生えてるやわこいすばるだなくてゃ、地面に倒れて朽ち固くなってる木だゃ。

作り方教えてやっからなゃ。



ふたりは夕方になるとセイゲンさんに礼を言って、家に帰った。ふたりとも帰りたくはなかったけれど、今すぐは探検に行けなかった。

まず山へ行ってすばるを調達しなくてはいけないし、他にもいろんな準備が必要だった。



キラは家に帰ると、珍しく父親が玄関で出迎えた。


キラ、居間に来なさい。


父親は厳しい顔でそう言った。


キラは、はい、と言って、素直に居間へ入った。


母親は固い表情でソファーに座りキラを待っていた。

キラが居間に入ると母親はため息をついた。

父親はその隣に座り、キラに、座りなさい。と、正面のソファーに座らせた。


父親が言った。


今日、何をしていたか、言いなさい。


キラは、森でニクラと一緒にいたと答えた。セイゲンさんの家に行ったことは話さなかった。


ニクラの名前を聞くと、母親はもう一度ため息をついた。


父親は厳しい口調で言った。


お前、どれだけ大変なことをしたのか、わかっているのか。

いずれ教師になるお前が、学校をさぼってニクラなんかと遊んでるところを町の人たちが見たらどう思う?

お前だけではなく、私たちの信用まで失うことになるんだぞ。


今度は、母親が柔らかい笑顔をキラに向けて言った。


お父様もお母様も、あなたの気持ちはわかるのよ、キラ。

たまに羽目を外したくなっちゃうのよね。

でも、あなたはまだ子どもだから、わからないのよ、キラ。

とっても大事なことなの。

みんな、あなたに期待しているの。私たちも町の人たちもよ。

教師というのは、正しい姿をみなに見せるお手本なのよ。

あなたはそれを裏切ったの。


はい、お母様、わかります。


キラは素直にうなずいて答えた。


母親はキラが素直に認めたことに少し驚きながら言った。


もう二度としないと約束してくれるわね?


わかったわ。お父様、お母様。

ごめんなさい。もう2度とこんなことしません。


母親はキラが素直に答えたことに満足して言った。


偉いわ、キラ。

やっぱりあなたはそんな子じゃないものね。賢くて優秀なわたしの子よね。

いいこと、キラ、もう森に行くこともやめてちょうだい。それから、あの子と会うのも禁じるわ。

約束できるわね?キラ。


あの子というのは、もちろんニクラのことだった。母親はいつもニクラの名前を言わずに、あの子と言った。


はい、約束するわ。お母様。


キラはまっすぐに母親の目を見て言った。


母親は、キラのあまりの変わり様に感動していた。


ああ、キラ、あなたはやっとお父様とお母様の気持ちをわかってくれたのね。嬉しいわ、キラ。


母親は涙ぐんでいた。


明日から、また学校に行くのよ。

そうだわ!

明日は、サーシャの誕生日パーティーがあるのよ!

あなた、プレゼントを持って行きなさい。学校が終わったら、ドレスに着替えてパーティーに行きましょう!


キラは、うなずいて言った。


お母様、わたし、少し疲れてしまったの。お部屋に戻っていい?


母親はもっと話したい様子だったが、父親が言った。


夕ごはんは食べないのか?

何も食べていないだろう?


うん、大丈夫。

ニクラがパンをくれたわ。

それにとても疲れたの。


母親が何か言いかけた。


あの子がくれたパンなんて、、


しかし、父親がそれを手で制して言った。


わかった。部屋に戻りなさい。


キラは、おやすみなさい。と言って2階へ上がっていった。


はじめて嘘をついた。

でも、キラは何も後ろめたく思わなかったし、何かすっきりした気持ちだった。


次の日、ちゃんと学校へ行き、勉強をした。

たった一日行かなかっただけで、学校の風景はいつもと変わらなかった。でも、おとといと今日ではキラにとって何かが大きく変わっていた。


夕方、家に帰って、服を着替えて両親とサーシャの誕生日パーティーへ行った。母親に言われた通り、キラはサーシャにプレゼントをあげた。

出かける前に母親から渡されたものだ。キラは中身を知らなかったけど、とてもきれいな包装紙に包まれた箱だった。

サーシャは普段自分に接しようとしないし、媚びてもこないキラからプレゼントをもらって、戸惑っていたけど、包みを開けて声をあげた。


これ、わたしが欲しかった時計だわ!キラ、ありがとう!!


見ると、文字盤に小さなダイヤモンドがあしらわれた子供用の高級時計だった。


キラは、はしゃぐことは無かったけど、パーティーの最後までサーシャやオリビアたちのおしゃべりに参加した。キラの両親もサーシャやオリビアの両親たちとおしゃべりをして、終始楽しそうに過ごした。


それから毎日、キラは学校へ行き、ちゃんと勉強をした。放課後は家庭教師の来る日は家で真面目に勉強をして、その他の日はたまにサーシャやオリビアたちと、遊びに行くようにした。

母親との約束通り、森に行かなかったし、ニクラとも会わなかった。

サーシャとオリビアも、口数は少ないけれど、成績もよく、顔立ちも良く、家柄も上等なキラを自分たちのグループの一員としてふさわしいと認め始めていた。

とくにサーシャはプレゼントの効果が大きかったようで、キラを気にかけた。


セイゲンさんの家に行ってから、1週間がすぎた頃の夜、ベランダから、こつん、、、こつん、、と、物音が聞こえた。

キラは急いで窓を開けてベランダに出た。

ベランダには細い木を簡単に組み合わせて作った飛行機が落ちていた。

飛行機には手紙がくくりつけられていた。


家の前の通りを見ると、夜の影の中に、ニクラがいて、にこにこと笑いながら、ベランダのキラに向かって大きく手を振っていた。

キラも大きく手を振り返した。


ニクラはキラが手を降ってるのを見てから、すぐに身を翻して暗闇の中へ走っていった。



セイゲンさんの家からの帰り道、キラはニクラに言った。


わたし、家に帰ったら、きっとお母様に怒られるわ。そしてもう、森に行くこともニクラと会うことも禁じられると思うの。


もしそれでも、ニクラに会ったり、お母様に反抗し続けたら、お母様はどんなことをするか、わからない。

きっと私が本当に二度とニクラに会えないように何かするわ。

だから、わたしは冒険に行くまで、お母様の言うとおりにしようと思うの。


そしてふたりはいくつかの決まりごとを作った。


海へ冒険へ行く十分な準備ができるまで、会わないこと。


すばるからくりはニクラがひとりでセイゲンさんの家で作ること。


連絡方法はニクラが夜、ベランダに飛行機を投げること。


もし、キラがニクラに連絡する必要があるときは、ニクラがいつも通るセイゲンさんの家に続く路地の入り口にあるレンガの壁の隙間に手紙をはさんでおくこと。


だった。


キラはニクラからのはじめての手紙が嬉しくて、わくわくしながら開いた。

そこには、キラが自分で準備しなくてはならないことが書かれていた。


キラへ、


元気かい?


着替え、帽子、雨合羽、食べ物、薬、をゆっくりでいいから準備してほしいんだ。

キラの自分のぶんだけでいいよ。

普通の旅行に行く用意でいいんだ。

それをバックパックに詰めておいてほしい。

それから、ひとつだけ大事なものがあるんだ。

あめしらずを捕まえて、飼っておいてほしいんだ。

これはキラが自分で捕まえないといけないんだ。あめしらずを捕まえるときは、手袋をして優しく布の袋に入れればいいよ。

餌はいちにち一回、木の葉か虫をあげてれば大丈夫。

ときどき、きりふきで身体を濡らしてあげて。

他に必要なものはぼくが用意するし、セイゲンさんも貸してくれるって言ってるから、大丈夫。

すばるからくりは少しづつできてきたよ。

あと、2週間もあれば、出発できると思う。


また手紙を書くよ。

元気で。


ニクラ


短い手紙だったけど、キラは嬉しかった。

この1週間、ずっと好きでもない他の国で生きているような気持ちだった。それに、合わせ続けることにとても疲れていた。

ニクラはもう2週間かかると言ってるけど、本当はもっと早くに出発したかった。

でも、すばるからくりをふたつ作るのはきっと簡単では無いのだろうし、キラ自身の用意もすぐには出来ないものだった。

キラは自分の部屋で食べ物を食べることは許されていなかったから、食べ物を台所から少しづつ盗まなくてはいけないし、薬だって用意しなければいけない。

幸い、服や帽子、雨合羽やバックパックは部屋のクローゼットにあった。

慎重にやらなければ、両親にばれてしまう恐れがあった。


そして、もうひとつ。

あめしらずも捕まえなければいけない。

なぜ、あめしらずを飼わなければいけないのか、わからないけど、とにかく用意しなくちゃ。と、キラは思った。


あめしらずは、この地方にしかいない生き物であった。

湖に生息していて、たまに町の公園や家の庭でも見かけた。

大きさは大きめのカタツムリくらいで、体の色は半透明、目や口が無く、頭もしっぽも無いなめくじのようだった。

見るときによってその形は変わり、ときに丸いもちのようであったり、ときに雪の結晶のように美しい形のときもあった。

その様子が面白いので捕まえたがる子どももいたが、あめしらずは身を守るための微量の毒を身体から分泌するため、人に触れると触れた箇所がかぶれた。

主に植物の葉や茎を食べたが、まれに突然身体を素早く袋状に変幻させて、バッタやクモ、ときには小鳥やねずみも飲み込んでしまうことがあった。


キラはさっそく次の日に学校へ行く途中の公園であめしらずをハンカチでそっと捕まえて、袋のなかに木の葉も入れておいた。

家に帰ると、台所からチーズを削るためのカンナの木箱を持ってきて、そこであめしらずを飼うことにした。

ちょうど木箱の上にあいてる穴が空気穴になると思ったのだ。



セイゲンさんの家から帰っきた夜、ニクラは家に入った途端、待ち構えていた叔父にいきなり拳で顔を殴られた。

叔父はそのとき酒を飲んでいたが、昨日ほど泥酔してはいなかったので、思い切り殴られたニクラは吹っ飛んで、壁にぶつかった。

叔父は、手のケガも、手が吊るされていたことも、全てニクラの悪ふざけだと決めつけていた。

昨夜のことなど、なにひとつ覚えていなかった。


大人の男に力いっぱい顔を殴られたのに、ニクラの顔は口や鼻が切れて血が出ていたけれど、骨折はしていなかった。

ニクラは長年叔父に殴られてきて、本能的に防御する術を身につけていたのだ。

拳が当たる瞬間に、とっさに力を抜いて、身体を柔らかくし、顔を逆向きに反転させ、自分から後ろに吹っ飛ぶのだ。

そうすると、一見派手に殴られて吹っ飛んだように見えるけれど、その衝撃は半減されて、口や鼻が切れる程度の外傷ですんだ。

そして、叔父もニクラが派手に吹っ飛ぶことで、満足を覚えていた。

しかし、その日の叔父はいつも以上に怒り狂い、目を赤く充血させ常軌を逸していた。

口のはしから泡をふきながら、さらに床に倒れている ニクラを腹を蹴ろうとした。

思い切り力を込めた蹴り方だった。

ニクラはとっさに身をひるがえして、その蹴りをかわした。

ものすごい音がして、叔父の足は壁を蹴破り、足が一瞬抜けなくなった。

その隙をついて、ニクラは叔父のもう片方の足首を両手で掴み、思い切り抱え上げた。

叔父の気違いじみた狂気を感じて怖くて、必死だった。

叔父はひっくり返り、床で腰を打ち、壁で頭を強く打ちつけた。

叔父は獣のような咆哮を上げた。

ニクラはすぐに家から出て、逃げ去った。

本当は、家にある自分の持ち物を冒険のために準備したかったのだが、それどころではなかった。


ニクラは恐怖を振り払うようにとにかく必死で走った。

走りながら、涙があふれ出た。


いつの間にか、湖のほとりにいた。何も考えずに夢中で走ってきたのだが、いつも通い慣れた道を無意識に走ってきたようだ。


セイゲンさんの家の窓からオレンジ色の明かりがもれていた。

まだ海中時計の修理をしているのだろう。

ニクラはセイゲンさんの家の前でしばらく迷ってから、涙を拭いてドアをノックした。


がたごとと音がして、誰だゃ。と言いながら、セイゲンさんがドアを開けた。

セイゲンさんは、ニクラの血だらけの顔を見ると、入れゃ。と言って、家に入れた。

ニクラは何を言えばいいのかわからずに戸口でうつむいて突っ立っていた。

恥ずかしかったし、セイゲンさんに迷惑をかけていると思った。

セイゲンさんは何も言わずに奥の部屋へ行った。

しばらくするとセイゲンさんが大きなお皿を持って、戻ってきた。

お昼に食べたシチューを温め直してくれたのだ。

突っ立っているニクラに、食えゃ。と言って、テーブルに皿を置いた。

ニクラは椅子に腰かけて、小さな震える声で、ありがとう。と言って、シチューを食べた。

シチューを口に入れた途端、涙が出た。

抑えられなかった。


セイゲンさんが言った。


おみゃ、もう家に戻るなゃ。


セイゲンさんはニクラが家で叔父に殴られていることを知っていた。工場の職人たちもニクラが顔にあざを作ってることがあったので、ニクラが家で叔父に殴られていることを勘付いていた。

職人たちは、いつもニクラを気にかけて、何かあったのか?と心配した。

でも、ニクラは今まで誰にも叔父に殴られていることを話さなかった。

セイゲンさんにも、キラにも話したことは無かった。


ニクラははじめて人の前で声を出して泣いた。

あたたかいシチューはニクラを安心させた。


その日から、ニクラはもう叔父の家に戻らなかった。

職人のみんなもニクラがセイゲンさんの家に住んでることを誰も何も聞かないで、そのことが当然のようにふるまった。


ニクラは次の日、セイゲンさんの料理や庭の手入れ、家の修理など、いろんなことを手伝った。

それから、すばるを拾いに山へも行った。

工場の親方が荷車を貸してくれた。

朽ちて固くなったすばるはニクラの背丈よりも大きいので、運ぶのは大変だった。



2日に分けてふたつのすばるを運んだ。

ニクラはセイゲンさんに教わりながら、すばるからくりを毎日作った。


すばるからくり作りは、まずその幹を彫るところから始まる。

朽ちた幹は固くなっているため、子どもの力では本当に大変な作業だった。

手の平に豆が出来て、何度か潰れたが、セイゲンさんがニクラの手に合う船作り用の革手袋をこしらえてくれて、それからは作業がもっとはかどった。

すばるの幹を彫るときは、自分の好きな形に彫るのではなく、それぞれのすばるの木の持つくせに沿って彫り進めることが大切だった。

ひとつひとつのすばるでそのくせは違うので、それを見極めることが難しかったが、ニクラは徐々にそのコツを飲み込んだ。

木のくせにぴったりと合う角度でノミを入れられた時は大きな木片が塊で取れることもあった。

彫り進めていくと、幹の芯が出てくる。

そこからは、とりわけ慎重に芯を傷つけないように丁寧に彫る必要があった。

やがて、幹の芯がむき出しになれば、彫る作業を終える。

ひとつひとつのすばるはその芯の形が違っていた。

最初に彫ったすばるはイルカのような形になり、次に彫ったすばるは三日月のような形になった。

それぞれ、彫るのに1週間づつかかった。

イルカとツキと呼ぶことにした。


通常の船作りのように、イルカとツキにニスを塗るのは禁物だった。

彫り終えたら、次にやすりがけをしてなるべく芯以外の木片を取り除き、それから古くて柔らかくなったボロ布で丁寧に磨くことが大事な作業だった。

磨けば磨くほど、すばるの持つ力が引き出される。と、セイゲンさんが教えてくれた。

すばるの持つ力は、空気の膜を作ることと、もうひとつあった。

海に入れると少しづつ「動き」を取り戻し、そして、いずれは自ら泳ぎ始めるのだ。

そして、磨くことでその人間に慣れるという。

慣れれば慣れるほど、すばるはその動きを取り戻し、人間や他の生き物たちの意識を読み取るまでになるという。

本当は、ひとつはキラが磨くのが一番良いのだが、きっとキラならすぐにすばるが慣れてくれるだろう。と、セイゲンさんが言った。

そのためにも、ニクラはたくさんイルカとツキを磨かなくてはならなかった。


ずっと遠い昔、すばるはもともと海に住む生き物だった。

自由で気ままな生き物で、闘うということを知らなかったために次々と他の肉食生物や魔物たちの餌食となって、その数を減らした。絶滅に追い込まれそうになったすばるたちは、その姿を変えて地上で生きることを選んだ。

生き残ったすばるたちは、急速に他の種へと変化していった。

あるものたちは鳥へ、またあるものたちは竜へ、そして、あるものたちは木へなった。

しかし、鳥や竜へ進化したものたちは、まもなく滅びてしまい、山で木に進化したものたちだけが生き延びた。


すばるからくりを海へ戻すことは、すばるたちの古代の記憶を蘇らせることだった。


ニクラはあせっていた。

自分はもう家へ戻るつもりはなかったけど、きっとキラは家でつらい思いをして待っていると思ったからだった。

だから、ニクラは朝早くから夜遅くまで毎日休みなくイルカとツキを磨き続けた。


彫り終えてから7日後、すばるからくりはようやくニクラの満足がいくまでの出来栄えになった。

セイゲンさんはお世辞じゃなく言った。


これほど見事なすばるからくりは見たことねえ。

おみゃたいしたもんだゃ。


イルカとツキはつるりとピカピカに光っていた。

今にも動き出しそうな生命を感じられる力強く美しいしなやかさがあった。


ニクラはやっとすばるからくりを完成させて、ホッと安心した。

すると、がっくりと力尽きて倒れてしまった。

次の日、ニクラは夕方まで寝た。

彼には十分な休息が必要だった。

夕方、目が覚めると、セイゲンさんがたくさんの料理を用意して待っていてくれた。

職人たちもたくさん来ていて料理を手伝ってくれたようだった。

職人たちは料理をどんどん運びながら、起きてきたニクラに次々と声をかけて、労をねぎらってくれた。


おい!ニクラ!おまえ、やったな!!


ニクラ、うまいもんがたくさんあるぞ!!食え!


ニクラ、すごいもんを作ったな!今度はおれたちの分も作れ!!


彼らはみんな荒々しくニクラの背中をバンバン叩いたり、アタマをぐしゃぐしゃにしたりしながら、みんな嬉しそうだった。

ニクラもとても嬉しくて、その都度、ありがとう!と礼を言った。


夕食はみんなで裏庭で食べた。

裏庭の大きなテーブルには所狭しと料理が並んだ。

どでかい豚肉のハチミツ付け、バリ(この湖で取れる太っちょの魚)の焼いたもの、ケチャ(この地方の紫芋)のマッシュポテト、60cmもある巨大なアスパラガスのゆでたもの、チーズとトマトのサラダ、プカ(飛べない鳥)の丸焼き、この地方の特産のベーコン、20個の目玉焼き、それから、パンにワイン、アイスクリームまであった。


ニクラは生まれてはじめて、ワインを一杯だけ飲んだ。

それから、もう食べれないというほどたくさんの料理を食べた。

もちろん、職人たちも腹一杯食べて、あれだけたくさんあった料理をすべて平らげた。


みんなが酔っ払ってゲラゲラ笑っている横で、ニクラはまた眠ってしまっていた。


気がつくともう朝で、裏庭のテーブルではなく、自分のベッドで目が覚めた。

きっと誰かが運んでくれたのだ。


起きるとニクラは自分の身体に力がよみがえってることがわかった。

ニクラの身体は昨日の夕食のエネルギーをもう十分に吸収していたのだ。


裏庭へ行くと、セイゲンさんが窯でパンを焼いていた。

ニクラは、セイゲンさんに、おはよう!と、声をかけて、朝食の準備を手伝った。


ふたりで朝食を食べながら、ニクラはあと何を準備すればよいか聞いた。


もう準備できたゃ。あとは出発するだけだゃ。


朝食を食べ終えると、セイゲンさんはニクラに用意してくれた荷物を見せた。


ゼッコという山羊に似た動物の皮をなめして、特別な塗料で防水された子供用の潜水服が2着。

鍛錬され、鋭く磨き上げられた金属のモリがふたつ。

火を付けるための火箱がひとつ。


みんなニクラがすばるからくりを作ってる間にセイゲンさんと職人たちが作ってくれたものだった。

バックパックにはパンやベーコン、卵、魚の干物、薬、それとニクラの着替えまで入っていた。

ニクラは驚いて、なんでぼくの服があるの?と、セイゲンさんに聞いた。

工場の親方がニクラの家に行って取ってきてくれたのだった。


それから、これは、ニクラも知らないことだけど、親方がニクラの家に服を取りに行ったとき、ニクラの叔父は家にいた。

親方はニクラの叔父に、これから先、二度とニクラに近づかないこと、町でニクラを見かけたら自分からその場を離れることを約束させた。

親方はもちろん殴ったりなんかせずに、落ち着いて話をしただけだった。

しかし、親方の静かな迫力に叔父はすっかり怯え切っていた。


これで海へ行く用意は全て出来た。
















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