中編
振り返ると、そこには『彼女』がいた。
輝かしい縦ロールの金髪に、血を思わせる赤の瞳の少女。
色白の肌にはどこか生気がないからこその人間離れした美しさが宿り、赤いドレスはまるで炎の如くゆらめいて見えた。
ドッティルはこの少女の名前を知っている。
彼女はルーシー・テレーズ。
ドッティルのかつての婚約者であり、そしてこの世を去ったはずの女だった。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
ルーシー・テレーズ侯爵令嬢との婚約が決まったのは、ドッティルがまだ五つの頃だったと思う。
どこか儚い美貌を持った彼女に対して幼い王子がどれほど憧れを抱いたか。彼女を一目見た瞬間、衝撃に心を鷲掴みにされたのを覚えている。
ルーシーはドッティルと同い歳であったから、当然のように幼馴染になって親しく遊ぶようになった。
しかしそんな彼女と距離ができてしまったのは、ドッティルがルーシーに劣等感を抱き始めてからのことである。
勉学も作法も何もかも、ルーシーは優れ過ぎていた。
ドッティルが努力に努力を重ねてもどうしようもないほどに高い壁。そのうちにドッティルはそれをストレスに感じるようになる。
そうして心の距離ができ始めた頃、ドッティルはまたしても衝撃的な出会いを果たす。
それは、侯爵夫人が亡くなり新しく迎えられた後妻――元は妾だった女の娘、ナンシーだ。
彼女はルーシーの鋭利な美貌とは違い、誰もを癒すような愛らしさを持っていた。
すぐにドッティルはナンシーにうつつを抜かすようになる。
そしてちょうどその頃だった。ルーシーが病に倒れたのは。
そしてドッティルは、ルーシーを。
「余命少ないお前には王妃という地位はふさわしくない。よって婚約を――」
……見捨てた。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「ど、どうしてお前がっ!」
悲鳴まじりの声でドッティルは、『彼女』へ問いを投げかける。
足は恐怖で震え、すっかり固まってしまっていた。今すぐ逃げなくてはと本能が叫んでいるのに一歩も動くことができない。
ナンシーは「義姉さん」と息を呑み、他二人の男子はキョトンとしている。
そして視線が集まる人物――『彼女』は生前のように淑女の微笑みを浮かべると、言った。
「あら? わたくしがいることがそんなに不思議? もしかして皆さんはご存知なかったのですかしら? 『療養』するために侯爵家を追い出され、ここで命を落とした少女のことを」
……やばい。
やばいやばいやばいやばいやばい。
いたのだ。本当に幽霊はいたのだ。亡霊はドッティルたちを待ち構えていた。
そう、その亡霊の正体はドッティルの元婚約者ルーシーだった。
「殿下。あなたとはずっとお会いしたいと思っていましたの……。何しろわたくし、殿下のことを心からお慕いいたしておりましたから」
金髪を揺らしながら、赤いドレスの少女が一歩、また一歩とこちらに近づいてくる。
別に『彼女』が何をしているわけではない。うっすらと透き通る体をしていること以外は生前となんら変わりないのだから。
でも、それが何よりも恐ろしかった。
「来るな。来るな来るな来るな来るな来るなぁ!」
叫び、腰を抜かしたドッティル。
しかし『彼女』は足を止めない。
「彷徨える御霊よ。ここに魂を捧げよ。さすれば救いは……」
「救い? 救いなんて、あるわけないではありませんの」
そう言いながら『彼女』は、何やら呪文を唱えようとするサネールを嘲笑う。
その笑みは血の色に染まって見えた。
「さあ。あなたたち罪人どもに教えてやりますわ。この世に幸せなどない。あるのは地獄の苦しみだけという事実を」
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
どうして、婚約破棄などしてしまったのか。
それはきっとルーシーを妬ましく思っていたからだと思う。常に自分が見下されている気がして不快だった。
だからルーシーが重い病にかかったと聞いて、嬉々として婚約を破棄してしまったのだ。
そして新たに迎え入れたナンシーという代替品に満足するふりをしていた。
ルーシーという憧れだった存在を無碍にしておきながら、それでもいいと思い込み続けて。
だからその罰が下ったのかも知れなかった。
「覚えていらっしゃいますか? サネール様は、わたくしを陥れましたわよね。妹のように可愛がっていたナンシーを王妃にするために、わたくしに毒薬を飲ませたんですわね?」
「……!」
「少しずつ命を蝕まれていくのがどれほど恐ろしかったか。あなた様にはわからないことでしょうね。それで神の使いをなさるとは、神も腐ったものですわ」
そしてサネールへ向けられていた『彼女』の視線が次に向いたのは、ナンシーを背に庇って立つダミである。
「ダミ様。あなたはわたくしの名誉を汚したんでしたわよね? わたくしが複数の殿方と交際していたと嘘を吐いた。これもやはりナンシーのためだったのですわよね? いずれあなたは国を滅ぼそうと計画していた。その時に奪うつもりで、あらかじめナンシーを王妃に据えておこうと考えていらっしゃったのでしょう? それではあまりにもナンシーが可哀想ですわね。
わたくしを『悪役』に仕立て上げれば何もかもがうまくいく。そして実際、あなたの筋書き通りに進みましたこと、さすがですと申しておきますわ。……ただし、その努力も水の泡になってしまいましたけれど」
「おらあぁぁぁ!」
言葉の途中、ダミが雄叫びを上げて『彼女』に突撃する。
手には短剣を握っており、殺す気なのは明らかだった。しかし――。
「そんな物、効くわけがないでしょう?」
剣先が『彼女』の胸をすり抜け、あらぬ方向へと突き刺さる。
『彼女』は間違いなく人ならざる何かになってしまったのだ。
ダミはショックに耐え切れずに気絶したようだった。
「こんな怨霊一人に負けていては、とてもとてもクーデターなど起こせませんことよ。覚えておいてくださいまし」
ドッティルの頭の中はめちゃくちゃになってしまっている。
『彼女』の言った言葉が本当であれば、サネールもダミも……。
「嘘だ」
「嘘ではありませんわ、殿下」
「嘘だ。嘘だ嘘だ、嘘だぁ……!」
頭を抱える。
これは全て幻だと思いたかった。何もかもがただの夢だ。悪夢だ。覚めろ覚めろ覚めろ。
「――殿下。あなたは、自分の劣等感を払拭するためだけに、わたくしに婚約破棄をした。幼い頃はあれほど『愛してる』と言ってくださったくせに」
――やめろ。
「わたくしが死んだと聞いた時、きっと眉一つ動かさなかったのですわよね。むしろせいせいしたとそうお思いでしょう?
わたくしの思いは届かなかったのですわね」
――やめてくれ。
「わたくしは、この世の全てを呪っておりますわ。わたくしを蔑ろにした者たち。父も、継母も、そこの男たちも、そして殿下も……。わたくしを貶めながら平穏を生きるあなた方をわたくしは恨み続けます。わたくしの存在をあなたがたが忘れぬよう、ずっとずっと」
助けてくれ。
ドッティルは心で叫んだ。もう糞尿も漏らしてしまい、鼻水すら垂らした彼は、ただ一心に願う。
「ナンシー……、ナンシー……!」
彼が救いを求めたのは黒髪の少女ナンシーだった。
彼女ならなんとかしてくれる。「大丈夫よ」と笑い飛ばしてくれる。
そう、思ったのに。
背中に衝撃が走り、王太子の体が宙を舞う。
何が起こったのか? 理解が追いつかない彼に、ナンシーは言った。
「まだわからないの? あなたが犯した大罪を。あなたたちに救いは訪れないことを」
「ナン、シー?」
……そういう、ことだったのか。
ようやく全てのことが腑に落ちる。それと同時に、ドッティルが視線を上げるとそこには『彼女』――ルーシーの顔があった。
「……今でも愛していますわ、殿下」
幽霊との口づけは、凍るような死の感触がした。




