前編
「幽霊が出るという噂の館に行ってみない?」
ある日、そう言い出したのは婚約者であるナンシーだった。
漆黒の髪を揺らし、可愛らしく微笑む少女。その笑みに、隣の少年――ドッティルは心を奪われる。
「館?」しばらく見惚れた後、やっと我を取り戻したドッティルは首を傾げた。
「そう。実は、とある辺境に古い館があって、そこに亡霊が出るんですって。そこに肝試しに行きたいと思っているの」
肝試しと言われて、ドッティルは少しヒヤリとした。
ドッティルは王太子だ。つまりこの国の未来の王である。
しかし、怖い物は苦手だった。
虫を見るだけで悲鳴を上げるドッティルだ。そんな彼が肝試しなどできるわけがない。
「なんで、その……肝試しに?」
「それはね。私、他の御令嬢に『臆病者』と呼ばれているの。私って小さいから弱いと思われがちでしょ……? でも私、弱いと思われたくないのよ。だからその証明に肝試しに行きたい」
真摯な目で言われて、ドッティルは反論ができなくなった。
ナンシーは侯爵令嬢であるが、かつて侯爵の妾であった女の娘であり、実のところ元平民である。だから他の女に侮られることがよくあると聞いていた。
幽霊の館のことは話を聞くだけで恐ろしい気持ちになったが、同時に愛おしい婚約者であるナンシーの頼みだから聞いてやりたい知思。それにここで断られば意気地なしと思われるに違いない。
「あ、ああ。それくらいなら平気だ。今度、友人たちも誘ってその話の場所へ行ってみようじゃないか」
「まあ嬉しい。ありがとう」
幽霊が出る、というのが本当であるなら……と思い、しかしドッティルは首を振る。
そんなまさかだ。大体ああいうのは恐怖が生み出す幻影であって、そもそも天に召された者の魂がこの地に残っているはずがないではないか。
ほんの遊びのつもりで付き合おう。それがいい。
王太子ドッティルは頷き、ナンシーと出かける約束をした。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
この国の王太子が肝試しに行くことになって、当然ながら国が騒がなかったわけではない。
必死で止めようとした従者たち。しかしドッティルはその言い分を聞かず、「護衛もつけるな」と言い捨てる。
そして、神官の息子やら大臣の息子などの友人を引き連れ、婚約者ナンシーと共にとある場所へ向かった。
「うわぁ、このお屋敷ボロですねぇ〜」
「おいおい、端的に言い過ぎだろ」
「相変わらず口が悪いなあ」
男どもがそんな会話をしながら現れる。もちろんそれは王太子御一行だ。
彼らの中心に陣取る赤いドレスを纏った薔薇のような少女は、ニコニコと笑いながらその建物を指差し、言った。
「あれが恐らく例の館ね。早速入ってみましょう?」
嬉々として目を輝かす彼女。
そんなナンシーに反し、ドッティルは内心生きた心地ではなかった。
いくら幽霊がいないとは思っていても、怖いものはやはり怖いのだ。
体の芯から来る震えを必死で抑えながら、彼はあははと笑った。
「もう。ナンシーは本当にせっかちだな」
「ええ。私ったら本当にせっかちなの。……ねえドッティー、早く早く」
甘ったれた声に、ドッティルは仕方なしに拳を握り締め、覚悟した。
対する他の男たちは全然平気な様子である。まるで幽霊のことなど気にしていないのだろう。単に彼らは、可愛いナンシーと遊びたいだけなのだ。
もちろんドッティルはナンシーを渡すつもりはないが、こうやって誘ってご機嫌取りをするのも悪くないだろうと考えていた。後に国王になった時、地位の高い彼らは手駒として使えるだろうし。
まあそんな裏事情がありつつも、表向きはワイワイしながら、今にも崩れそうな館へと足を踏み入れる。
雨風に晒されて古びた廃墟の館は長年使われていなかったのかして悪臭を放っている。ああ、まったく薄気味が悪い。
そうして一行は、真っ暗な館をランプ片手に進み始めた。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
館に入ってからというもの、ドッティルは些細なことで震えっぱなしである。
風の吹き込む音がしたり扉が音を立てて開くと、うっかり叫び出しそうになるのだ。王太子の意地でなんとか堪えていたが、胸の鼓動はいつになく早い。
「もしかして怯えてないですよねぇ?」
神官の息子――サネールがこちらを揶揄うようにそう言った。
が、ドッティルは彼を完全に無視する。何を言ってもツッコミを入れられる気がして面倒臭かったからだ。そして代わりにナンシーとベタベタしているもう一人の少年、大臣の息子ダミに声をかけた。
「おいダミ。俺のナンシーに変なことするなよ?」
「わかってるって。なあナンシー」
「ええ、ダミ様には節度ある態度を求めるわ」
「えぇ!?」
そんな会話をしつつ、やって来たのは館の二階部分。
どうやらこの屋敷は元々貴族か何かが住んでいたようで、彼らが残したであろう品々があちらこちらに点在していた。そんな中でナンシーが二階への階段を見つけ、今登って来たところだった。
「次、どこへ行く?」
一階には結局何もなかったのだ。二階だって大丈夫に違いない。
そう思い、ドッティルの恐怖心はほんの少し薄まっていた。
――だからこそ、次の瞬間に聞こえた声に悲鳴を上げずにはいられなかったのだ。
「…………お待ちしておりましたわ、ドッティル殿下」