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 薄暗い環境に数時間いたから外に出たら解放感があり、日差しがやけに眩しい。歩いて近くにあるレトロな外装の中華料理屋に入る。この手の飲食店は一見、入りにくい印象を与えるが、ボリューム満点で財布に優しいところが多い。実際にその通りだった。食事中は仕事の話や父娘の話題はせず、雑談に興じた。

 昼食を食べ終えると、倉庫の前に停めておいた車に乗り込む。午後はアパートの管理人と住人に話を聞くことを事前に決めておいた。

 アパートの前でぼくは先に車を降りる。タックンは近くにあるコインパーキングに車を停めにいった。アパートの周囲は昨日の野次馬たちの喧騒が嘘のように静まり返っていた。204号室にちらと視線を向ける。またあの疑問が浮かんできた。

『次女はなぜ父親の遺体を放置したのか』

 タックンが戻って来たので管理人の住居に向かう。管理人が住んでいるのはアパートから数件離れた場所にある一軒家だった。噂によると、管理人はいくつかの不動産を所有しているということだったので、きっと立派な豪邸なんだろうと想像していたのだが、意外にも庶民的な二階建てだった。

 玄関ポーチに入りインターホンを押すと、ちょっと不安になるくらいの間があってから、

「はい、どちらさまでしょう?」と返事があった。

 タックンが顔を近づけて声を張り上げる。管理人の女性が少し耳が遠いのを知っているからだ。

「あの、昨日204号室の清掃をした者ですが」

「ああ、清掃の方ですね」

 間もなく玄関扉が開いた。目の前にはジャージ姿の女性が立っていた。この女性がたぶん管理人なのだろう。年齢は七十代前後だろうか。小柄で愛想の良さそうな表情をしていたので、宝石をジャラジャラ鳴らしている厚化粧の成金のマダムを想像していたぼくは、ちょっと面食らった。

 管理人はいくぶん不思議そうな眼差しでぼくたちを見ている。たしかにすでに仕事は終わっているのだから、普通ならばこれ以上、管理人に用事はない。

「あの、204号室の住人のことで、ちょっとお話を聞きたいんですが」タックンが慎重に切り出す。

「赤城さんのことですか」管理人があまり歓迎していないことは、口調で分かった。

 ぼくたちが204号室の住人について調べていることは、管理人には伏せておこうと決めていた。一清掃業者が依頼人のプライベートについて詮索していると思われたくなかったからだ。だからタックンは、

「はい、今後の仕事の参考にさせてもらおうかと思いまして」と言って、手にしていた菓子折りを目の前に差し出す。歓迎しない雰囲気だった管理人は、タックンの持っているものを見ると、

「そんなに話せることもありませんけど、どうぞお上がりください」と扉を大きく開けてくれた。

 ぼくたちは広い居間に通された。そこはきちんと整理整頓や掃除が行き届いていて快適な空間だった。奥に仏壇があったので、まずはご先祖様に挨拶する。管理人の夫が亡くなっているというのはこの前、タックンから聞いていた。仏壇にはその夫と思われる遺影があった。手を合わせて心の中で『お邪魔します』と言ってから振り返ると、管理人はお盆にお茶と羊羹を運んできて、テーブルに並べるところだった。

「寛いでいってください」

 出されたお茶を飲んで一服していると、不思議な感じに襲われた。つい先月まで飲食店の従業員として朝から晩まで働いていた。重労働だったが充実していた。それが突然のパンデミックによって失業し、今は特殊清掃員として働き、その現場アパートの管理人の居間でお茶を飲んでいる。

 正面からあらためて管理人を見ると、優しそうな表情の奥に、どこか憂いを帯びている感じを受けた。それはこの女性が夫を亡くして孤独な生活を送っているからだと、かってな解釈をした。ぼくがそんなことを考えている間にも、タックンは彼女と世間話に夢中になっている。

「へえ、旦那さんは釣りが趣味だったんですか。ぼくも休みの日はだいたい釣りをするかドライブしてますよ」

「主人は普段は無口な人なんですけど、釣りのことになると饒舌になりましてねえ」管理人は額に入れて飾ってある大きな魚拓を懐かしそうに見つめた。

「もう一杯どうぞ。今日はそんな世間話をしにいらしたわけではないんでしょう」穏やかな表情を崩さずに、ぼくたちの湯飲みにお茶を注いでくれる。

「実は」と言ってタックンは言い淀んでいたが、決心したようにうなずくと、ぼくたちの目的を話してしまった。事情を聞いた管理人は表情を変えることなく、

「まあ、そんなことだろうとは思いました。でも赤城さんについてはほとんど知らないんですよ」

「ぼくには、娘さんが何の理由もなく、父親の遺体を放置したとは思えないんです。どんなことでもいいです、教えてもらえませんか」

 管理人はじっとタックンを見つめた。ぼくたちの真剣さが本物かどうか吟味しているようだった。やがて、

「わたしもそう思います。メイさんはお父さん思いの優しい方です。分かる範囲でお答えします」

「ありがとうございます。早速ですが、父親の遺体が発見されたときの状況から話していただけますか」

 管理人はゆっくりと湯飲みを口もとに持っていき、一口啜った。

「一昨日でした。私は午後にあのアパートに行きました。共有部分の草むしりをしようと思っていましてね。庭で作業をしていますと、アパートの住人の方が近づいてきました。安井さんていう方で、彼女とはたまに世間話をするんですが、いつになく深刻そうな顔をしていました。あいさつもそこそこに、ちょっと204号室なんだけどと小声で切り出してきました。204号室と聞いてすぐに、臭いの苦情かなと思ったんです。掃除屋さんも驚いたと思いますけど、あそこはごみ屋敷だったでしょ。たまに近隣住民から悪臭がするって苦情があるんです。でもそのときは悪臭の件じゃなかったんです。安井さんが言うには、204号室のベランダからへんな音がするっていうんです。なんかモーター音みたいなビービーという音がしてうるさいっていうの。それで草むしりを中断して行ってみました。玄関に行ってインターホンを押したり、ドアをノックしたりしてみました。しばらく待っても応答がありません。ひょっとしたら、メイさんは勤めに出ていて、赤城さんはデイサービスに行っていてお留守なのかと思ったんです。玄関先でどうしようか思案していると、安井さんがちょっと待っててと言って、階段を降りていきました。間もなく階段を上がってきて、赤城さんの郵便ポストには郵便物がたまっているっていうんです。それに今日は赤城さんはデイサービスに行く日じゃないから部屋にいるはずだっていうんです。わたしも赤城さんの最近の様子は知っていました。一人では外出できる状態ではなかったんです。わたしたちはドアの前に佇んで悪い想像をしてしまいました。もしかしたら赤城さんが部屋で倒れているんじゃないか。うちのアパートで以前そうしたことがあったんです。それからは高齢の方が住んでいる部屋には定期的に訪問するようにしてるんです。わたしは一旦家に帰って合鍵を持ってきました。念のためにもう一度、インターホンを押してみたんですけど、反応がないので、合鍵を使って玄関ドアを開けました」管理人はお茶を飲んで喉を潤した。

「中に入れなかったでしょう」タックンの言葉に管理人はうなずいて表情を歪めた。

「あそこがごみ屋敷だっていうのは、アパートの住人の方からクレームが入っていたので知っていました。でも中の様子は私の想像を超えていました。まさかあそこまでとは思ってもいなかったんです。リビングに入ることもできませんでした。とりあえず玄関先から呼びかけてみました。でもなんの返事もないんです。仕方がないので、隣の203号室のベランダから入ることにしました。幸い、住人の方が在宅だったので、事情を説明してベランダの簡易壁を破って入りました。そこに音の原因となっている冷凍庫がありました。それを開けたら…というわけです。安井さんは驚いて腰を抜かしてしまいましたけど、私の方は不思議と冷静でした。自分で言うのもなんですけど、へんな度胸があるんですかね。その場で警察と救急車を呼びました。お茶をどうぞ」管理人は急須を手にしてお茶を注いでくれた。

 タックンはお茶が湯飲みに注がれると申し訳なさそうに会釈をして、

「部屋には娘さんはいなかったんですね」

「誰もいなかったですよ」

「赤城さんの死は病死で間違いないんですよね」病死であるのはタックンから聞いていたが、どうしても確認しておきたかった。

「検死の結果、体に外傷がなかったそうなので、病死だろうと言ってました」それを聞いてぼくはほっと胸をなでおろした。

 甘いものに目がないタックンは羊羹を頬張りながら質問を続ける。

「あの父娘の人となりについてはご存じですか?」

 管理人は答えるのに時間がかかった。それは言おうかどうか迷っているからではなく、遠い記憶をたどっているからのようだった。

「私はあの家族とは個人的な付き合いはほとんどなかったから、あまり知らないんです。赤城さんは今から八年くらい前にあのアパートに引っ越してこられました。そのときは赤城さんおひとりだったんです。大手の電機メーカーの営業をされてるということで、とても人当りのいい方でした。それから三年くらいは一人で住んでらしたと思います。仕事が忙しそうで、朝早くから深夜まで働いていたので、お会いするのもめったにありませんでした。それが四年目に入って年が明けて何日かしたとき、救急車のサイレンの音が聞こえてきて、アパートの前に止まったんです。わたしと夫は胸騒ぎを覚えてすぐに駆けつけました。来てみると、救急隊員が二階の204号室に向かうところでした。赤城さんが倒れたという話を、近くにいたアパートの住人の方から聞きました。病院に搬送されて検査した結果、脳の病気だったようです。緊急処置を受けて、一命は取り留めたのですが、後遺症が残り、車椅子の生活になってしまいました。もちろん仕事を続けることができずに、早期退職したと聞きました。そのころにメイさんが同棲するようになったんです。わたしたちのところに挨拶に来たのを覚えています。それからは最近まで二人で暮らしていました」

 赤城家についてはあまり知らないと言いながらも、管理人はけっこう淀みなく話した。彼女の言葉の間隙を縫うようにタックンが口をはさむ。

「赤城さんにはもう一人、娘さんがいると思いますけどご存じですか。この清掃を依頼した方なんですが」

「桃さんですね。わたしはお会いしたことはないんです。たぶんあのアパートに来たこともないんじゃないかしら。桃さんだけじゃなく、他の親戚の方もお見かけしたことはないですね。それでさっきの質問にお答えすると、メイさんの第一印象はおとなしい方だと思いました。でも話してみると、考えはしっかりしていて、赤城さんが倒れたときも、メイさんが率先して世話をしてくれたって赤城さんは喜んでました。とても優しい方ですよ。それに比べて、桃は薄情だ、母親にでも似たんだろうなんて、赤城さんが言ってるのを聞いたことがありますよ。メイさんはあそこに引っ越してきたころ、結婚を考えていた男性がいたらしいです。それがどういう原因か分かりませんが、結婚の話がだめになって、それで赤城さんの面倒をみることにしたって住人の方から聞きました」

「その男性の方の名前は知ってますか?」

「いえ、名前とかは聞いてません。結婚の話も単なる噂で本当かどうかも確かじゃないんです」

「じゃあどちらかというと父親との同棲は嫌々だったんでしょうか?」

「そんなに嫌そうではなかったと思いますよ。内心は分かりませんけどね」

 タックンが何か言おうとしたが、ぼくが先に質問した。それは聞きたくてたまらない質問だった。

「あの、メイさんは今どこにいるんでしょうか。心当たりはありませんか?」

「全然分かりませんね。あの家族とはもう何年も挨拶を交わすくらいで、個人的な付き合いはありませんでしたからね。あ、そうだわ。でもどうかしら」管理人が言い淀んでいるので、話を促す。

「どんなことでもいいんです。なにか思い出しました?」

「いえね、あれは正月三が日が終わった翌日だから、一月四日だったと思うんだけど、アパートの101号室の住人の方に用事があって、アパートの前を歩いていると、道路に乗用車が停めてあったんです。誰かが路上駐車しちゃってるのかしらと思って、その車を見ていたら、メイさんが玄関から出てきてその車に乗り込むところだったんです。ずっと駐車されると困るから声をかけたんです。そしたら、ちゃんとパーキングに停めますということで安心しました。そのついでにどこかにお出かけですかって聞いたんです。たしか、赤城さんもメイさんも車は持っていなかったし、駐車場の契約もしてなかったですから。私の質問にメイさんは、ちょっとためらうように俯いて、『ちょっと長野の方まで』って答えたんです。旅行ですかって聞きました。私の記憶では、赤城さんの実家は九州の方だったんです。メイさんは『まあ気晴らしに』って答えました。車は近所のレンタカーを借りたみたいでした。その後、私に会釈をすると、車に乗って行ってしまいました。あれは失踪と関係があるんですかね」

 管理人から長野という言葉が出たときに、ぼくとタックンは顔を見合わせた。長野県の観光案内が彼女の机の上にあったのを思い出した。メイさんは一月五日に長野に旅行に行ったのだろうか。そこで事件か事故に巻き込まれてしまったのか。そのとき父親はどうしていたのだろう。まだ生きていたのか、それともすでに亡くなっていたのか。次々と疑問が湧いてくる。

 タックンも羊羹を食べるのを中断して、

「車内に赤城さんの姿はありましたか?」と真剣な顔で聞く。

「いえ、メイさんだけだったと思いますよ」

 管理人がまだ言い終わらないうちに、

「メイさんはどんな恰好をしてましたか?」と矢継ぎ早に質問する。

「たしか黒のコートにジーンズをはいていたと思います」

 それ以降もいくつか質問を続けたが、参考になる情報はなく、話も世間話めいてきたので、お暇することにした。お礼を言って外に出ようとすると、背後から管理人が、

「メイさんは決してあんな無慈悲なことをする人じゃありません。なにか理由があるはずです」と半ば自分に言い聞かせるように言った。ぼくたちはその言葉に無言でうなずいた。



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