白昼夢
社会人になって何年か経ち、最初は辛いと思っていた仕事にも少しずつ慣れてきた。
そんなある日、高校時代の友人から1本の電話が入った。
「久々にそっち帰るんだけど、車出してくんね?」
そいつは大学で上京したのをきっかけに東京で仕事をしている。
俺の友人でも数少ない、夢を叶えた人間だ。
いつも明るく友達も多い。それでいて芯のある男.......友人であると同時に俺の尊敬する人物だ。
そんな彼が久しぶりに帰ってくるというのだから、断る理由もない。
「懐かしいなぁ。よくもこんなところを毎日チャリで走ってたもんだ」
海沿いの高低差が激しい道。今では片足でアクセルを踏むだけで簡単に登れてしまう。
これが成長というものなのか。嬉しいとは別にどこか物悲しい気分にもなる。
「仕事はどうよ? やっぱ田舎だと暇?」
「そんなわけないだろ。それなりに忙しいよ」
彼の世界。つまり絵を描くことを仕事としていては、一般職の普通というのもわからない。
同じ星の同じ国に生きているはずなのに、どこか遠いところにいるような気がしている。
「そっちはどう? バリバリ描いてる?」
「……あー、それね」
終始笑顔だった彼の表情に雲がかかる。バツが悪そうに唇を噛んだかと思えば、窓を開けて強い海風を車内に取り込んだ。
「今さ、何を描いても楽しくねぇんだ」
「そう、なんだ。……でも、スランプってやつは誰にでもあるだろ。時間があればきっと」
「ないんだよ。そんな時間」
俺が言い切るよりも前に、彼はそう遮った。
初めて進路の話をしたときと同じ真剣な目つき。いや、それとは少し違う。
遥か先の水平線を眺めるような視線はこちらには戻らず、柄にもなく小さな声で言った。
「プロになれたときは嬉しかったよ。俺の絵にも価値があるんだって、そう言ってもらえたみたいでな。でも今更になって痛感したんだ。趣味で描くのと仕事として描くっていうのは、全然違う」
「どう違うんだ?」
「たとえば、俺がこの絵は100点満点だ! って思って出したものが、クライアントからこれが違うあれが違うと戻される。でもこれが俺の最大最高だから、どう直したってしっくりこない。その間にも納期は迫って、結局契約は切られた。一度切れた仕事の縁は、もう二度と戻らねぇんだよ」
芸術の世界に正解はない。彼が高校生の頃からの口癖だった。
人によって絵の捉え方は違う。音楽や演劇だって同じことがいえる。学校のテストのように明確な点数を付けられず、スポーツのようなわかりやすい優劣は存在しない。
そんな世界に足を踏み入れた彼は、誰よりも輝いているように見えた。
「今となっては筆を持つだけで手が震える。アイデアだって湧いてこねぇ。書けない時間が長引くと、どんどん世界が灰色に見えてくる。……絵を描けない絵描きに、何の価値があると思う?」
それは、と俺は言いかけて口を噤む。
軽率にわかるだとか頑張れだとか、安い同情はできない。
俺と彼は違う。だからこそ、彼は俺に聞いているのかもしれない。
「最初はさ、人と違うことがしたかった。スーツ着て毎日暗くなるまで仕事するなんてつまんなそうだなって。でもさ、人と違うことをして生きるって――思ってた以上に難しくて、苦しいよ」
海に向いていた視線は俺の方へと戻り、乾いた笑みで問うた。
「もし、俺が描くの辞めるって言ったら、お前はなんて言う?」
もうそれは言っているも同然じゃないか。そう心の中で小突きながらも、考える。
「わかんないよ。俺はお前じゃないし。……でもお前が描くのを辞めたとしても、俺は責めたりしない」
「ははっ。お前ってほんと薄情だよなぁ。ま、そういうところが気に入ってるんだけどよ」
ようやく彼に笑顔が戻り、それからまた他愛のない雑談に変わった。
高校時代のバカな話、卒業後のお互いの話。
きっとこいつは描くのを辞めても上手く生きていくのだろう。
そう、思っていた。
――自殺だった。
実家近くの海で、浮いているのが見つかった。その頃にはもう、死んでいたらしい。
彼の部屋にはたくさんの画材があった。そのどれもが地面に落ちて、紙という紙がビリビリに破かれていたと彼の両親が話してくれた。
もしあのとき、俺が彼を励ましていればもっと違う結果だったのかもしれない。
立ち直ってまた絵を描いていたかもしれないし、きっぱり辞めて新しい仕事を始めていたのかもしれない。
俺がきちんと言葉にしなかったから。俺の言葉で傷つけるのが怖くて曖昧にしていから。
それではまるで。
「なにかやりたいと思うことはありませんか? 趣味とか、旅行とかもいいですね」
かかった病院の精神科医は、俺にそう提案した。
しかし、俺には今までこれといった趣味はなく、本気で熱中したものなんて一つもない。
何もかもが中途半端だった俺は、本気で取り組んでいる彼の背中を見ているふりをして、自分から目を背けているだけだったんだ。
「……俺も、できるかな」
ふと思い立って、押し入れに仕舞い込んでいた高校のスケッチブックを引っ張り出す。
彼の隣で、なんとなく絵を描いてみたことはあった。それも中途半端で、スケッチブックにはうっすらとした線しか残っていない。
窓の外に見える世界を、見えるままに描き写した。一本の鉛筆がザクザクと紙の上を走る音は、どこか懐かしい。
それでも、出来上がった絵を眺めては、スケッチブックを閉じた。
「やっぱり、あいつみたいには描けないな」