運命に愛された勇者
「おめでとう。君は勇者に選ばれた」
農村で生まれ育った僕のもとに、とある聖堂の神官がやってくるなり、そう言った。
僕は広い世界を知らなかった。緑に囲まれた穏やかな暮らししか知らず、それが当たり前なのだと疑う余地もない暮らしだった。
こんな平和は永遠に続いて、ゆっくりと人生を歩むのだと思っていた。これでいいんだと、今の生活が一番なのだと信じていた。
「僕は普通の男の子だよ。勇者じゃない」
「神の御言葉が出たのです。君は神に選ばれた、真の勇者なのです」
漠然と、嫌だという感情が湧いてきた。勇者というのは絵本にも出てくる、とても強くて、みんなの憧れになるようなすごい人だ。
僕はきっと違う。腕相撲で同年代に勝ったことなんてないし、足も遅い。そんな僕が勇者だなんて、無理な夢だ。
「お父さん」
家の前で話をしていると、仕事から休憩にやってきたお父さんがタオル片手にやってきた。
僕と見慣れない白装束の男に一度足を止め、呆気にとられて動けないようだった。
「どうした、息子よ。その方は?」
「これはこれはお父様。おめでとうございます。貴方の息子様は、神の御言葉の下、世界を救う勇者に選ばれました」
お父さんなら、そんなわけはないと笑い飛ばしてくれると信じていた。
彼もお母さんも、この村で生まれ育ったただの農家だ。その二人からいきなり世界を救う勇者が生まれるなんて、すぐには信じるわけがない。
「なんと……光栄の限りです」
え、と口から思わず零れた。
だって、見たことないほどにお父さんの顔は涙で歪んでいた。悲しいのではなく、嬉しそうに。
少なくとも僕が物心ついてから今まで、こんなに嬉しそうなお父さんは初めて見た。
「よかったな。お前は勇者になるんだ。そんな息子を持ったことを、父さんは嬉しく思うよ」
「でもお父さん……僕は、お父さんみたいになりたいよ」
「バカを言うな。父さんのような先のない老いぼれになったって、人生は楽しくない。だって勇者だぞ。そのうち、お前も絵本の登場人物になるかもしれないぞ」
母さんも、隣の家の友達も、村のみんなが祝福してくれた。
小さな村から英雄が生まれた。その事実ばかりを喜んで、誰も僕の意思など聞いてもくれなかった。
望んでいない。そんなこと、なりたいだなんて思っていない。
どうしてわかってくれないんだ。なんで誰も、僕の話を聞いてくれないんだ。
●
「どうした勇者、もうへばっているのか!」
木でできたすらりとした剣を僕へ振りかざし、目の前の教官は襲い掛かってきた。
この稽古という名の蹂躙が始まって、もう一週間が過ぎようとしている。毎日毎日、僕は反撃などまともにできずに殴られ続けていた。
寝る前に身体を見ると、いつも違うところに生傷ができている。湯で身体を洗うとき、死んでしまいそうな激痛に襲われる。
あの教官は、僕の動きが鈍いことをいいことに必要以上の暴力を振るってきている。聞いた話では、国直属の軍隊でも教官をしていたらしく、厳しい訓練を押し付けることで有名だったらしい。
そこから突然勇者に剣を教えろなんて言われれば、そんな奴は喜んで引き受けるだろう。仕事でストレス発散できるなら、これ以上ない仕事に違いない。
僕は生まれてから一度も、人を殴ったことなんてない。苦しめるような真似は絶対にしない。だって、殴られた人は苦しいに決まっている。苦しい思いなんてしたくないのは、人間の本能だ。
嫌がることを喜んでする人間なんて、ロクな嗜好の持ち主ではない。僕はずっとそう思っていた。
今も、その考えを変える気はない。
「少しは反撃でもしてみろ!」
鋭い突きが僕の鳩尾に命中する。視界がぐらついて、お腹の中にあるものが一気に押し上がってくる。
よろよろと後退し、その場で俯いたまま、吐瀉物を撒き散らす。これももう何度目かわからない。
「はぁ……情けない。それでも神に選ばれた勇者か?」
「……まだ、わからないのですか?」
「なに?」
「この一週間で、僕に才能がないくらいわかるはずだ。僕は勇者には向いていない。僕は勇者になんて……」
なれない。そう言いかけたところで、左頬を強い衝撃で薙ぎ払われる。不意を突かれたのもあり、勢いそのまま地面に倒れこむ。
構えてもいない僕に、目の前の男は僕を殴り飛ばしたのだ。
「そういう弱気な根性が、お前を勇者にしてくれないのだ。才能はある。それともなんだ、我らが神の御言葉が間違いだと言いたいのか!」
語気を強め、倒れた僕の横腹を踏みつける。何度も、何度も、何度も。
やがて僕は痛みを忘れて、ただ涙を流していた。
こんなことが神の御言葉だとしたら、僕は……神なんて信じない。
●
戦場には、たくさんの血が流れていた。
同じ服を着た国の兵士たちが、数えきれないほど地面に転がって山になっている。小さな溝には誰かの血で満たされて、太陽の光に当たってきらきらと輝いている。
もし僕に才能があるとするなら、それは農業でもなく、剣技でもない。
醜く生き残り続けることだ。
こんなにたくさんの人が死んでいるのに、僕はまだ息をしている。大地に足を突き立てている。
数えきれないほどの血を流した。見たこともない悪魔の恐ろしい攻撃を、為す術もないまま受け続けた。
致命傷を逃れ、無駄に丈夫な身体を引きずって、ただ逃げていた。
死んでしまいたい。勇者だといわれたあの日から、何度も頭の中を埋め尽くした言葉だ。
その気になれば、きっとすぐに死ねる。
剣で自分の喉を掻っ切ることもできた。ただ戦場に立って殺されることを待つこともできた。殺してくれと、願うことも。
思えば、どうして僕はまだ生きていたいと思っているのだろう。こんな人生、僕には耐えられない。
ならばどうして、僕は死を選ばないのだろう。
「みぃーつけた」
文字通り、悪魔のささやきが耳を刺激する。
振り返ると、そこには人間離れした黒紫の肌をした魔族の者が、勝気な笑みを浮かべて近づいてきた。
今更逃げるほどの体力は残っていない。それに、こいつは戦場を跋扈していた獣とは格が違う。
僕が戦うことになった理由、世界を脅かす者たちの一人だろう。
到底敵う相手ではない。恐ろしい相手であることに違いはないはずだ。けれど何故だろう、それを前にしても、恐ろしいという感情が湧いてこない。
一歩も動かない僕に、悪魔は訝し気な目で問うた。
「お前、俺が怖くないのか?」
「どうしてだろうな。僕にもわからない」
「ふん」
鼻で笑うと、背中から伸びた細長い触手が僕の心臓を貫いた。
血が溢れる。身体が重くなって、足から地面に崩れ落ちた。あまりにも呆気ないさまに、悪魔はつまらなそうに表情を歪ませる。
「お前勇者だろ? 俺たちを倒したいんだろ? どうして動かない」
「……僕は、怖くない。その理由がわかった。僕が本当に怖いのは、僕の運命を誰かが勝手に決めて、誰もそれを疑わない。そんな心のない連中が怖い。死ぬよりも、ずっと怖いんだ」
やっと自分の気持ちが、頭の中でまとまった。至って単純な話だったんだ。
僕は死にたいんじゃなくて、怖かったんだ。
鬼のような教官も、村の連中も、両親も、神すらも。
怖くて、仕方なかったんだ。
だが、今更すべては取り戻せない。手遅れなんだ。
最期まで、無様な生き様だった。面白みのない、退屈で、窮屈な──
「可哀想な奴だな」
目の前の悪魔は、地面に転がる僕に、確かにそう言った。
さきほどまでのおぞましい殺意はない。むしろ僕が今までに見たこともない、悲しそうな目をしていた。
「お前は人形じゃない。けれどまわりが勝手にお前を縛り付けて、手足を糸で動かしていた。辛かったろう」
「……辛い、か。いつから忘れていたんだろうな。そんな言葉」
「そんな不幸なお前だが、今から選択肢をやろう。ここで運命に愛されて死ぬか。俺と来て一生憎まれたまま生きるか。二つに一つさ」
そこから、僕の記憶は曖昧になっている。
だが、そこで取った選択肢を僕は間違えた、と思った日は一度としてない。
僕にはもうひとつの才能があったらしい。
今まで知らずのうちに溜め込んでいた恐怖を破壊衝動に変え、すべてを慈悲なく蹂躙する。悪魔としての才能があったらしい。
怖いものは、この手で壊してしまえばいい。それが、今の僕の答えだ。