表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/6

永く生きる

 自分がどこにいるかを忘れ、ともに過ごしたであろう人を忘れ、やがて流れゆく時間を忘れた。

 私は、身を埋める死に場所を失ってしまった。人間に当たり前のようについている死という概念が、私には最初からなかったのだろう。

 最初は、まわりよりも幼いという印象しか抱かなかった。しかしどうだろう。

 祖父母が死んだ。隣の家の人たちが死んだ。父と母が死んだ。添い遂げると誓った人が死んだ。血を分けた兄弟が死んだ。自らが産み落とした子どもが死んだ。あるとき気まぐれに飼った猫が死んだ。


 私はきっと、自然な形で死ぬことはないのだろう。そう考えた私は、天井に一本のロープを垂らした。頭の通る輪を作り、体重を支えていた椅子からすっと飛ぶ。

 視界は良好だった。少しだけ息が苦しかった。私の身体がぶらぶらと振り子のように揺れていた。ただ、それだけだった。

 そうか。私はきっと息を止めても死なないのだ。ならば、切ってしまえばいい。物理的に、命を繋ぐ赤い糸を、切ってしまえばいい。

 今更躊躇うことはなかった。包丁を首の太い血管に押し当て、勢いよく掻っ切る。視界が床に落ちる。首ごと落ちてしまったのだろう。ああ、やっとだ。やっと私の望んだものが手に入る。私の忌み嫌ったものが、手から離れる。


 ──次に見たのは、ぐらりと歪んだ世界。ビデオテープが巻き戻されるように、首は元の位置へと帰っていった。

 気持ち悪さはなかった。ただ静かに生きている状態が、何の変哲もなく戻ってきた。

 どうして。

 心臓を刺した。血が溢れ出る。その血は一度地面に落ちると、また世界は歪む。

 私から離れた血は身体を求め、私の中へと還ってくる。傷口が縫われるように塞がって、また生が息を吹く。


 どうして。

 心臓を刺す。血が溢れる。それが還ってくる。


 どうして。どうして。どうして。どうして。どうして。どうして。どうして。どうして。どうして。どうして。どうして。どうして。どうして。どうして。どうして。どうして。どうして。どうして。どうして。どうして。どうして。どうして。どうして。どうして。どうして。どうして。どうして。どうして。


 私の墓はどこにあるのだろう。ずっと探していたかもしれないし、どこかで諦めたのかもしれない。

 もう自殺を企てるような真似はしていない。どうせ無駄だから。いつ来るかもわからない死を、ゆっくりと待っていた。


 私が止まっていても、世界は進んでいった。

 世界は発展し、国は豊かに、あるいは貧困になる。そこに生きる人たちも、発展して、やがてその命を埋めていった。


 それを私は眺めるだけ。消えゆく人たちを、ただ眺める。

 羨ましいという感情すら、今では湧いてこない。私はいつまで経っても変われない。

 止まった時計は処分されることもなく、また時を刻むこともない。同時に、ありもしない無の時間を刻み続けている。

 そんなものに意味があるか?

 心の中で誰かが囁く。それを鼻で笑って、今日も世界を歩いていた。





 ある日、私の同類に会った。

 それは死なないという意味ではなく、何の生産性もないという部分の話である。

 ただ歩いていたら肩がぶつかって、私がよろめいただけだった。男数人は私を取り囲み、薄汚い笑みを浮かべていた。


「おい姉ちゃん、逃がしてほしかったら、くれよ」

「なにを?」

「金に決まってんだろ。なめてんのか!」


 何の前振れもなく私の頬を殴りつけた。

 勢いそのまま地面に伏せる私。それを見て男たちはまた笑う。転がる私を引きずって、暗い場所に連れ込んだ。


「なんだこいつ。少しは抵抗しろよおい!」


 今度は腹を強く踏みつける。次に足を、腕を、顔を、次々と踏みつけ、殴りつけてきた。

 別に痛覚がないわけではない。痛いし、少しだけ苦しい。

 でも、それが無駄だと私は知っている。

 痛いと泣き叫んだって、苦しいともがいたって、死は私に寄り添ってはくれない。

 だから耐えているのではない。ただぶつけられる自己満足な暴力を、受け入れているのだ。


「……なんだよこいつ、きみわりい」

「ホントに生きてんのか?」

「行こうぜ」


 ああ、生きてるよ。それは君たちと同じだ。

 でも、私は君たちより少しだけ、死が遠いだけなんだ。

 痛いな。動くのも面倒だし、今日はここで寝てしまおうか。

 それから目を閉じて少しすると、人の気配がして虚ろな目を向ける。

 小柄な体躯の女性だった。服装からして、成人はしているだろう。優しい顔つきをした人だ。

 女性は裏路地で寝転がっている私へ駆け寄り、声をかけた。


「大丈夫ですか? ここでなにを」

「少しばかり、眠くなっただけですよ」

「帰るところないの? 親御さんは?」


 そういえば、私は少女のような風貌だった。年行かない子どもと見られても不思議ではないだろう。


「いないよ。私には、なにもない」

「……じゃあ、一緒に来る?」


 断りたかった。その手を振りほどいて、あわよくばその手を──切り落としたかった。

 けれど、その手はどうしようもなく温かくて、柔らかくて、優しかった。

 いつぶりだろう。この目に、たった一人の人間しか目に入らなくなったことは。


 私と彼女の日常は始まった。

 彼女は働き始めたばかりの社会人で、自分にはいい加減な彼女は身の回りの世話を欲していたらしい。

 あれだけ人には優しいのに、どうして洗濯ひとつ面倒くさがるのだろう。

 わからないな。


「ただいま」

「おかえり」


 外はすっかり暗くなった深夜だ。電車も終電といったところで、彼女は今にも倒れそうな顔で帰ってきた。

 どうして、そこまでして働くのだろう。

 それは自分のため? 他人のため?


「辛くないの?」


 口から自然と出てしまった。同時に、既に限界を超えた彼女を鎖から放ってしまったのだろう。


「仕方ないじゃない。普通に生きるためには、こうするしかないんだから」

「そうまでして、生きる理由は何?」

「なにって……ふざけないでよ。私が正常じゃなかったら、とっくにこんな命、投げ出してやりたいわよ」


 静かに語りながらも、彼女の言葉には怒りが乗っていた。

 何も知らない癖に。そう言いたいのだろう。

 知らないのは、君の方だよ。


「どうしたの?」


 私はおもむろにキッチンへと向かい、包丁を持って彼女の下へと戻る。

 それを見た彼女は当然顔色を変えて、私に駆け寄ろうとした。あのときと同じだ。

 本当に、どこまでもお人好しだ。彼女を憐れむようにじっと見ながら、包丁を心臓へと突き立てた。

 彼女は咄嗟に私から目を背ける。血は出ている。彼女の手にもかかってしまった。

 ああ、久しぶりだ。この感じ。世界が歪んで、そして還る──元通りだ。


「……どういうこと?」

「私は死なないよ。ずっと、死ねないまま」


 私の姿を見て、彼女は目を白黒させていた。

 当たり前だ。これは種も仕掛けもない、世界の不思議。私という、不完全な存在を目の当たりにしたから。驚かない方がおかしい。


 そういえば。どうして私はこんなことをしたのだろう。

 彼女になにか伝えようとしたのか。だとしたらなにを?

 私は、感情で動いたのか?

 混乱も冷めやらぬまま、何を思ったか彼女は、私から包丁を奪って私を抱きしめた。


 お風呂の温かさでもない。布団の温もりでもない。人の、体温だ。

 そのとき気づいた。私はいつの間にか、人としての感情を失っていた。

 いつからだろう。人と関わらなくなったのは。

 いつからだろう。食事を摂らなくなったのは。

 いつからだろう。私という人間を、否定していたのは。


「辛かったよね。ごめんね」

「どうして謝るの」

「わからない。けど、君を見ていると、どうしようもなく悲しくなったの」


 頭の中を駆け巡ったのは、過去に私という存在を愛した人たち。

 たくさんの顔がフラッシュバックして、私に手を振っている。そして、皆が口を揃えてこう言っいた。


 お幸せに。


 今更私に、幸福などありはしない。あるとすれば、安らかな眠りのみ。

 けれど、今は、この瞬間は、もしかしたら。


 幸せ、なのかもしれない。


「ありがとう。私は今が幸せだ」

「そう……こんな私だけれど、最期まで、見届けてくれる?」

「わかった」

「約束だよ?」

「うん。約束」


 私はきっと、この先も死ねない。

 ならば、人よりも少しだけ多く幸せを得られるのかもしれない。

 そう、思った日があった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ