永く生きる
自分がどこにいるかを忘れ、ともに過ごしたであろう人を忘れ、やがて流れゆく時間を忘れた。
私は、身を埋める死に場所を失ってしまった。人間に当たり前のようについている死という概念が、私には最初からなかったのだろう。
最初は、まわりよりも幼いという印象しか抱かなかった。しかしどうだろう。
祖父母が死んだ。隣の家の人たちが死んだ。父と母が死んだ。添い遂げると誓った人が死んだ。血を分けた兄弟が死んだ。自らが産み落とした子どもが死んだ。あるとき気まぐれに飼った猫が死んだ。
私はきっと、自然な形で死ぬことはないのだろう。そう考えた私は、天井に一本のロープを垂らした。頭の通る輪を作り、体重を支えていた椅子からすっと飛ぶ。
視界は良好だった。少しだけ息が苦しかった。私の身体がぶらぶらと振り子のように揺れていた。ただ、それだけだった。
そうか。私はきっと息を止めても死なないのだ。ならば、切ってしまえばいい。物理的に、命を繋ぐ赤い糸を、切ってしまえばいい。
今更躊躇うことはなかった。包丁を首の太い血管に押し当て、勢いよく掻っ切る。視界が床に落ちる。首ごと落ちてしまったのだろう。ああ、やっとだ。やっと私の望んだものが手に入る。私の忌み嫌ったものが、手から離れる。
──次に見たのは、ぐらりと歪んだ世界。ビデオテープが巻き戻されるように、首は元の位置へと帰っていった。
気持ち悪さはなかった。ただ静かに生きている状態が、何の変哲もなく戻ってきた。
どうして。
心臓を刺した。血が溢れ出る。その血は一度地面に落ちると、また世界は歪む。
私から離れた血は身体を求め、私の中へと還ってくる。傷口が縫われるように塞がって、また生が息を吹く。
どうして。
心臓を刺す。血が溢れる。それが還ってくる。
どうして。どうして。どうして。どうして。どうして。どうして。どうして。どうして。どうして。どうして。どうして。どうして。どうして。どうして。どうして。どうして。どうして。どうして。どうして。どうして。どうして。どうして。どうして。どうして。どうして。どうして。どうして。どうして。
私の墓はどこにあるのだろう。ずっと探していたかもしれないし、どこかで諦めたのかもしれない。
もう自殺を企てるような真似はしていない。どうせ無駄だから。いつ来るかもわからない死を、ゆっくりと待っていた。
私が止まっていても、世界は進んでいった。
世界は発展し、国は豊かに、あるいは貧困になる。そこに生きる人たちも、発展して、やがてその命を埋めていった。
それを私は眺めるだけ。消えゆく人たちを、ただ眺める。
羨ましいという感情すら、今では湧いてこない。私はいつまで経っても変われない。
止まった時計は処分されることもなく、また時を刻むこともない。同時に、ありもしない無の時間を刻み続けている。
そんなものに意味があるか?
心の中で誰かが囁く。それを鼻で笑って、今日も世界を歩いていた。
●
ある日、私の同類に会った。
それは死なないという意味ではなく、何の生産性もないという部分の話である。
ただ歩いていたら肩がぶつかって、私がよろめいただけだった。男数人は私を取り囲み、薄汚い笑みを浮かべていた。
「おい姉ちゃん、逃がしてほしかったら、くれよ」
「なにを?」
「金に決まってんだろ。なめてんのか!」
何の前振れもなく私の頬を殴りつけた。
勢いそのまま地面に伏せる私。それを見て男たちはまた笑う。転がる私を引きずって、暗い場所に連れ込んだ。
「なんだこいつ。少しは抵抗しろよおい!」
今度は腹を強く踏みつける。次に足を、腕を、顔を、次々と踏みつけ、殴りつけてきた。
別に痛覚がないわけではない。痛いし、少しだけ苦しい。
でも、それが無駄だと私は知っている。
痛いと泣き叫んだって、苦しいともがいたって、死は私に寄り添ってはくれない。
だから耐えているのではない。ただぶつけられる自己満足な暴力を、受け入れているのだ。
「……なんだよこいつ、きみわりい」
「ホントに生きてんのか?」
「行こうぜ」
ああ、生きてるよ。それは君たちと同じだ。
でも、私は君たちより少しだけ、死が遠いだけなんだ。
痛いな。動くのも面倒だし、今日はここで寝てしまおうか。
それから目を閉じて少しすると、人の気配がして虚ろな目を向ける。
小柄な体躯の女性だった。服装からして、成人はしているだろう。優しい顔つきをした人だ。
女性は裏路地で寝転がっている私へ駆け寄り、声をかけた。
「大丈夫ですか? ここでなにを」
「少しばかり、眠くなっただけですよ」
「帰るところないの? 親御さんは?」
そういえば、私は少女のような風貌だった。年行かない子どもと見られても不思議ではないだろう。
「いないよ。私には、なにもない」
「……じゃあ、一緒に来る?」
断りたかった。その手を振りほどいて、あわよくばその手を──切り落としたかった。
けれど、その手はどうしようもなく温かくて、柔らかくて、優しかった。
いつぶりだろう。この目に、たった一人の人間しか目に入らなくなったことは。
私と彼女の日常は始まった。
彼女は働き始めたばかりの社会人で、自分にはいい加減な彼女は身の回りの世話を欲していたらしい。
あれだけ人には優しいのに、どうして洗濯ひとつ面倒くさがるのだろう。
わからないな。
「ただいま」
「おかえり」
外はすっかり暗くなった深夜だ。電車も終電といったところで、彼女は今にも倒れそうな顔で帰ってきた。
どうして、そこまでして働くのだろう。
それは自分のため? 他人のため?
「辛くないの?」
口から自然と出てしまった。同時に、既に限界を超えた彼女を鎖から放ってしまったのだろう。
「仕方ないじゃない。普通に生きるためには、こうするしかないんだから」
「そうまでして、生きる理由は何?」
「なにって……ふざけないでよ。私が正常じゃなかったら、とっくにこんな命、投げ出してやりたいわよ」
静かに語りながらも、彼女の言葉には怒りが乗っていた。
何も知らない癖に。そう言いたいのだろう。
知らないのは、君の方だよ。
「どうしたの?」
私はおもむろにキッチンへと向かい、包丁を持って彼女の下へと戻る。
それを見た彼女は当然顔色を変えて、私に駆け寄ろうとした。あのときと同じだ。
本当に、どこまでもお人好しだ。彼女を憐れむようにじっと見ながら、包丁を心臓へと突き立てた。
彼女は咄嗟に私から目を背ける。血は出ている。彼女の手にもかかってしまった。
ああ、久しぶりだ。この感じ。世界が歪んで、そして還る──元通りだ。
「……どういうこと?」
「私は死なないよ。ずっと、死ねないまま」
私の姿を見て、彼女は目を白黒させていた。
当たり前だ。これは種も仕掛けもない、世界の不思議。私という、不完全な存在を目の当たりにしたから。驚かない方がおかしい。
そういえば。どうして私はこんなことをしたのだろう。
彼女になにか伝えようとしたのか。だとしたらなにを?
私は、感情で動いたのか?
混乱も冷めやらぬまま、何を思ったか彼女は、私から包丁を奪って私を抱きしめた。
お風呂の温かさでもない。布団の温もりでもない。人の、体温だ。
そのとき気づいた。私はいつの間にか、人としての感情を失っていた。
いつからだろう。人と関わらなくなったのは。
いつからだろう。食事を摂らなくなったのは。
いつからだろう。私という人間を、否定していたのは。
「辛かったよね。ごめんね」
「どうして謝るの」
「わからない。けど、君を見ていると、どうしようもなく悲しくなったの」
頭の中を駆け巡ったのは、過去に私という存在を愛した人たち。
たくさんの顔がフラッシュバックして、私に手を振っている。そして、皆が口を揃えてこう言っいた。
お幸せに。
今更私に、幸福などありはしない。あるとすれば、安らかな眠りのみ。
けれど、今は、この瞬間は、もしかしたら。
幸せ、なのかもしれない。
「ありがとう。私は今が幸せだ」
「そう……こんな私だけれど、最期まで、見届けてくれる?」
「わかった」
「約束だよ?」
「うん。約束」
私はきっと、この先も死ねない。
ならば、人よりも少しだけ多く幸せを得られるのかもしれない。
そう、思った日があった。