第四話 落下
『―――今月9日に行われた公判では、戸川被告の責任能力の有無が争点となりました。弁護側は「事件当時、被告人は被害者の女性が警察へ行った事実を知って極度の緊張状態にあり、女性に襲い掛かったことは偶発的な出来事だった」として犯行の計画性を否定、これに対し検察側は「ナイフを携帯していたのだから計画性は明らか」と双方の主張は真っ向から対立しました。また閉廷の直前、戸川被告は検察席に向かって「真実の愛を妨げることは出来ない」などと発言しており・・・・・・』
「ケッ・・・・・なーにが”真実の愛”だっつーの」
ジョッキを片手にした八五郎が、遠くのテレビに映った法廷の様子を描いた挿絵を眺めながら、吐き捨てるように呟いた。一緒にテレビを見ていた他の客たちからも、軽い笑い声が上がった。ただし二人ほど、笑うどころか声も上げられないでいる気まずい雰囲気の客がいるが。吉田と、もうひとりは水岡本人だ。
水岡は、その無言の背中が妙に巨大なプレッシャーを放っている。正直この間の初対面時などとは比べ物にならないぐらい怖い。すぐ近くにいるマスターはというと、先ほどから黙ってずっとコップを布で磨いていた。
「そーいやよう、顔切られたっつー警官いたけど、あの後どうなったんだっけ?」
そして誰かがこの上なく絶妙なタイミングで、よりにもよって今一番言わなくても良い台詞を発してくれた。こういうのを俗に『神』と表現するのだろうか。
「さあ・・・・・そういえば、アレっきりテレビとかで見なくなったな」
「マスコミも勝手なもんだよな。最初は散々悲劇のヒロインみてぇに持ち上げといて、飽きるとすぐに忘れやがる」
「ヒロインっつーか、ヒーローだろ?」
「ああそうだ、ヒーローだな。女を救った英雄に乾杯!」
「意外と、名誉の負傷だったりして――――」
ゲラゲラと笑って、好き勝手な会話を繰り広げる中年オヤジたち。そしてその中でたった一人、吉田だけが人知れず激しい冷や汗をかいていた。別に彼らは悪口を言っているわけではない。それなのに何なのだろうか、この異常なまでの居心地の悪さは。
本人が居るのを知らないとはいえ、彼らの会話内容は水岡の傷口に塩とか辛子を擦り込むようなものだろう。早い話が酷だということだ。出来ることならば、今すぐにでも会話の内容を変えさせたいところだった。
チラッと水岡のほうに視線をやると、やはり彼は身動きひとつしていなかった。ただし、時々ビール瓶を掴むその左手にグッと強い力が入るのを、吉田は見逃さなかった。やはりどう考えても、この状況は好ましくなかった。
ちなみにカウンターに立つマスターはというと、水岡の方にちらちらと視線をやりつつも、相変わらずコップ磨きに精を出していた。ただし・・・・・磨いているのはさっきからずっと同じコップなのだが。既にそのコップは綺麗の領域を遥か後方に見て追い抜き、まるで新品の鏡かと見紛うぐらいにぴかぴかと輝いていた。しかしマスター、動揺しすぎである。
とにかく話題を逸らそうと、吉田は当たり障りの無さそうな話題を考えて口に出すことにした。
「あー・・・・・ところで皆、再来週の夏祭りなんだが、」
「俺も一本ぐらい顔に傷つかないかなぁ、そしたらますます男前に――――」
次の瞬間、思わず店中が静まり返るぐらいの激しい音を立てて、水岡の拳が木製のカウンター目掛けて振り下ろされた。しまった、と吉田は思った。時すでに遅かったようだ。
音のしたほうに顔を向けた客たちは、そちらから自分たちへ向けられた表情とその人相を見てぎょっとした様子だった。鼻の頭を突き抜ける一直線の細い切り傷。よく見れば警察官の夏の制服姿。自分たちが好き勝手に噂しあっていた当人が、自分たちのすぐ背後で酒を飲んでいたのだからそりゃ驚くだろう。
「え・・・・・・・? ちょ、まさかお前って―――」
「・・・・・・黙って聞いてりゃ言いたい放題言いやがって、テメェらいい加減にしとけよ! 誰が英雄だ!? 誰が名誉の負傷だ!? ざけんな! 人の気持ちも知らねぇ連中がいい加減なこと抜かしてんじゃねえ!!」
「いや、何も別に悪く言ったわけじゃ」
「あァン? じゃ、褒めてたってか。ケッ、単に笑い話にして盛り上がってただけじゃねーか・・・・・・ウソこいてんじゃねェよクソッタレが。そんなに傷が欲しけりゃくれてやろうか?」
吉田はハッとした。その声が震えていることに気がついたからだ。そこに含まれていたのは、吉田が思うに、単純な怒りだけではないように思えた。苦しさ。悔しさ。そういった種の”何か”がアレもコレもない交ぜになった形で面に吐き出されているようだった。その様子に、吉田は何も言葉が見つからなかった。
「なんだオメェ、ぶるぶる震えやがって」
と思ったらまた、言わなくてもいいようなことを言う声が聞こえた。見ると、同じ大工の熊五郎だった。年季の入った顔が良い具合に紅潮して、へらへらと笑顔を浮かべている。どう見てもビール二本ぐらい飲んでいた。酒に酔った熊五郎は無謀にも、怒りで立ち尽くす水岡を挑発にかかっていた。
酔っ払いが余計なことを、とその場にいた誰もがそう思ったことだろう。いつもならば笑って看過する吉田も、今回ばかりは笑えそうになかった。
「いい歳した男が何泣きそうになってんだよ、見っともねーな。子供かオメーは」
「・・・・・・ンだと、クソジジイ」
「大体オメー、そんな傷ひとつ位で何だってんだ。俺が子どもの頃はなァ、ぁ・・・・・・・」
そろそろ止めた方がいいだろう、と吉田が腰を上げかけたその時、それまで聞こえていた熊五郎の軽口が突然にしてぴたりと止んだ。その原因は明白だった。熊五郎に一歩近づいた水岡が、その腰につけていた伸縮式の強化プラスチック警棒を引き抜いたのだった。
見ていた店中の人間が客もマスターも全員まとめて息を呑み、その光景を目で追った。それから吉田を含めた何人かの客が思わず立ち上がり、自分の席を立って水岡の元へと歩み寄っていった。これ以上は放っておくと、なんだか取り返しのつかない事態に陥りそうだったからである。熊五郎というよりは、むしろ水岡の側が。
しかしその状況を受けて誰よりも狼狽していたのは、むしろ挑発した熊五郎であったようだ。
「な、何だお前、警官が市民に暴力振るっていいのか。国家権力の、この、」
「面白ぇ・・・・・・国家権力がキレたら何すっか見せてやろうか?」
水岡も水岡で勢いに任せ、なんだか凄まじいことを口走っている。彼も熊五郎に負けず劣らず酔っている模様だ。その台詞に深い意味は無いとしても発する怒りのオーラが本物なだけに、その辺の酔っ払い一人ぐらいなら余裕で怯ませられるようだ。
しかしそれでも吉田は、怯むわけにはいかない。ここで水岡を止めておかないと、本人にとって確実に不幸な結果しか待っていないような気がするのだ。
「まぁ、待ってくれ。俺らの会話が気に障ったなら・・・・・・」
吉田は、警棒を引き伸ばして熊五郎を脅しに掛かっている水岡の前にゆっくりと進み出ると、その両手を相手の肩において静かになだめ出した。背後では熊五郎に対し、別の客が似たようなことをやっていた。我ながら、こういう作業には手馴れているつもりだった。尤も今回は、鎮めるべき怒りの根源が桁違いであるのだが。
さて、果たして吉田の行動は実を結んだのであろうか。
残念ながら努力の甲斐もなかったようだ。当事者のひとりが、見事にぶち壊しにしてくれた。水岡の脅迫に縮み上がった熊五郎はこともあろうか傍にあったコップを鷲掴みにすると、入っていた水を目の前に立つ水岡の顔に勢いよくかけたのである。
吉田の背後から飛来した水の塊が、怒りに歪む若い警官の顔ではじけて細かな水滴になって散っていった。その前髪からポタポタと滴の滴る音は、その場面において不気味なまでの迫力をもって人々の耳に届いていた。次の瞬間、水岡の中で何かが切れたようだった。
「・・・・・・上等だコラアァァァァァ!!!」
そう叫んで警棒を振り上げ、相手に踊りかかる水岡。その暴れ狂う身体を咄嗟に捕まえ、必死にもう一人の酔っ払いから引き離そうとする吉田、ほか数名。なおもコップやら皿やらを投げつける熊五郎を捕まえて、なだめようとする客数名。僅か一瞬のうちに、店内が上へ下への大騒ぎとなった。加えていずれの客もが必要以上にデカイ図体をしているので、彼らが狭い店内を駆け回るだけでそこら中でコップが倒れたり、料理を載せた皿が引っくり返ったりした。
と、またも誰かが勢い余ってすっ転び、ふたつしかないテーブルのひとつに激突した。座敷とテーブルが共に激しく揺れ、端の方に乗っていたコップが座敷の外の床に放り出されたかと思うと即座に「パリーン」という嫌な音が聞こえた。
「ギャーッ、ちょ、ちょっとお願いだから店を壊さないで!」
マスターの悲鳴。もちろん誰も聞いていない。
「おい落ち着け、落ち着けったら! ちょ、八っつぁんは熊公を頼む」
「分かった!」
「テメェら放せぇぇぇぇぇぇ」
「放すかっ。おい、こいつ外に出すぞ」
吉田の掛け声で、水岡を羽交い絞めにしていた客の何人かが彼の体をがっちりロックすると、そのままの体勢で入り口目掛けて一斉に水岡を引っ張り出しはじめた。大分抵抗しているが、警官の水岡といえどこの人数には敵わないようだ。大して掛からないうちに、ずるずると店の外に引きずり出されていった。しかしなんとも手馴れた客たちである。
* * * * *
「頼むから落ち着けって・・・・・! お前の気持ちが分かるだなんて言えねえけど、今ここで暴れたって何も解決するわけじゃないだろ?」
「うるせぇよ・・・・・・・お前らに俺の何が分かる? そりゃお前らにとっちゃ他人事なんだろうけどな。他人の不幸はいい酒の肴か、クソッタレが」
なおも暴れようとする水岡を押さえながら、冷静に吉田は言った。
いま彼らは、『竜神』の店外にいる。酒臭く蒸し暑い居酒屋の空気から一転、海の彼方に積乱雲も望める夏真っ盛りな青空の下、店内よりも多少開放された状態で空気を吸うことが出来た。暑さ自体は中と外でそんなに変わるわけでもないが、あの人の密集した中で息をするよりはよっぽど快適だろう。少しは酔いも冷めると期待したかった。
だがそれでも、水岡の怒りは一向に収まらないようだった。吉田たちのことをきっと睨み付けながら、罵倒の語を弛めない。その目にはある種の必死さがこめられていた。その視線を直視することは吉田にとって正直辛いものだったが、彼はあえて目を逸らさないと決めていた。
「・・・・・・事情を知ってて、すぐに止められなかったのは悪かったよ。アイツの性格も知らなかったわけじゃないしな。けど、」
と、そこまで言いかけて吉田はふと、水岡の表情が変化していることに気がついた。ついさっきまで浮かんでいた強い怒りの形相がフェードアウトしはじめている。代わって、同じ顔の上に最初は驚愕らしい色が、続いて徐々に笑みと思しき色が浮かび上がってきた。口の橋を軽く吊り上げ上目遣いにこちらを見るその薄い微笑みは、端正な顔にも拘らず何故だかとても卑屈な印象を受けた。そして突然、何かに納得したように呟いた。
「ハッ、そうかそうか・・・・・・」
その途端、水岡の身体に僅かながら残っていた抵抗する力が抜け出ていくのを、吉田は傍目にも感じ取った。それまでは強張り力任せだったその身体が、理由は分からないが抗う気力すらも無くしてしまったようだった。
体の両側から水岡を押さえていた二人の客もその変化に気がついたらしく、ゆっくりと抑える力を緩めていった。すぐさま水岡は両方の腕を鬱陶しそうに振りほどくと、揉みくちゃになった制服を正そうともしないまま、その顔に未だ卑屈な笑みを浮かべた様子で吉田のほうを見つめた。それから踵を返すと、
「あばよ。週刊誌によろしく言っとけ」
何故かそんなことを言い残すと、水岡はヘラヘラ笑いながら、この前と同じく店の脇の丘を森林公園があるほうに向かって降り去っていった。吉田は何か声をかけようと思ったがしかし、理由の計り知れない笑みを浮かべ、ゆっくりと丘を降りていくだけの水岡の後姿に何も相応しい言葉を見つけることが出来ず、ただ呆然とその場に立ち尽くしていた。
一方で吉田の中では、たった今水岡の残した台詞を反芻してその真意を探ろうとする動きがあった。だが結局今の時点では、吉田には何のことやらサッパリであった。週刊誌とは一体どういう意味なのか? 自分は何かマズイことでも言ったのか?
まったく得心できずにいると、突然背後から吉田を呼ぶ声が聞こえた。振り向くと、八五郎が店の外に出てきたところだった。
「ヨっちゃん、こっちは何とか収まったぞ。そっちは?」
「一応、暴れるのは終わったけど、もう何が何やら・・・・・・」
そう言って、吉田はお手上げという風に首を振った。考えれば考えるほどに、ワケが分からなかった。それから吉田は再び、水岡が降りていった丘のふもとのほうを見つめた。森に入ってしまったのか既に水岡の姿はそこには無く、あとには夏の熱気で揺らぐ厚い空気の層とその向こう側で像を歪ませている、密生した緑の一面だけが広がっていた。
しばらくそちら側を見つめていた吉田は、何度目かの八五郎が自分を呼ぶ声で我に返ると、まだ多少気になりながらもどうにもならない思いを振り切るべく、八五郎が暖簾を上げたままで待機する『竜神』の店内の光景に目を走らせていた。ちらっとしか見えないが、マスターはどうも店の被害状況を調べているらしかった。割れた皿を拾い上げる彼の顔は外からでもハッキリと分かるぐらいに青い。・・・・・・すまん、マスター。
心の中で謝罪しつつ、店に戻ろうと足を踏み出したその時だった。吉田の耳に突然、なんだか分からないが微かな低くうなる様な音が聞こえてきて、それが次第に大きくなっていった。どこか遠くから伝わってくる音があることに気がつき、吉田はぴたりと歩みを止めた。この感じは地面の下からではない。自分のずっと頭上の方から伝わってくる振動だ。どうもジェット機の通り過ぎていく時の音に似ている気がするのだが、ハッキリと分かるわけではない。
吉田の第六感のようなものが、びんびんと警告を発している。なにやら言い知れぬ不安を覚えた吉田は、店に入ろうとするのを中断して少し離れた位置まで移動すると、頭上に広がる、そこらかしこに流れるような白雲が配された大空に目を泳がせた。夏の日差しはかなり眩しい。その後すぐに吉田の異変に気がついたのか、八五郎が彼の元に駆け寄ってきた。
「おいヨっちゃん、どうした。なんかあったの・・・・・・か・・・・・・」
「・・・・・・・・・!!」
空へ向けられた吉田の視界には、そのとき信じられないものが飛び込んできていた。『竜神』の向こう側に見える青空の彼方から、真っ赤な炎と丘全体が震えるような轟音を上げ、店の何倍もあろうかという巨大な物体が地上目掛け、猛スピードで突っ込んできていたのだった。思いもよらぬ光景に吉田は一瞬、自分の目を疑いかけた。
空気との摩擦でゴーッという低い音を立てて落ちてくるソレは、まるで隕石そのものであった。隣に居る八五郎の絶句するのが伝わってきたと同時に、突然周囲の空気が激しく震えたかと思うと、一挙に耳を突き破らんばかりの超轟音が二人を襲ってきた。二人は、思わず手で耳を覆った。
呆然と立ち尽くす二人の目の前で、燃え盛る落下物は『竜神』の遥か頭上を通り越して去っていき、夏場で客の大勢集まった海水浴場の真上も通過して そのまま海岸から1キロと離れていない海上に突っ込むと、その衝撃で小さな商社ビルぐらいの高さがある水柱を発生させてようやく消えていった。
ほとんど一瞬の出来事だった。たったいま目の前で起こった驚愕すべき事態に、吉田も八五郎もただ呆気に取られて見ていることしか許されなかった。しばらくの間その海上を見つめていても、結局何が起こったのかを理解するまでに数十秒という時間を要した。
(第五話に続く)




