第二話 高度36000km 東経137度3分
無限に、どこまでも広がっている暗黒の空間。
その世界を満たすのは目には見えない莫大なエネルギーと、密度の希薄なガスの分子のみ。ただしところによってはその密度が濃くなり、寄せ集まっては巨大な星の海を形成する。そうして遥かな年月が経つと、いつしかそこには岩石が生まれ、その岩石が再び寄り集まってはまたいくつもの惑星が誕生する。そう、ちょうど今この場所のように。
暗闇が支配する広大な空間の中に、ぽっかりと浮かぶ青い巨大な球体。太陽の光を反射して輝く青い大気のその遥か下には、打って変わって緑や茶色で染まった陸地が垣間見える。尤もこの時代では、断然茶色の面積のほうが多くを占めているのだが。その星はそこに住む知的生命体の言語によって『地球』と呼ばれていた。
地球の文明は宇宙へ進出することを可能とした。薄い防護服を隔てなければ生命を維持することも出来ないが、それでも上も下も存在しない、真空の世界に足を運ぶことだけは出来た。しかしそうして彼らが生まれ育った大地を離脱し、この闇の世界に飛び出てくる度に、地球の周囲には使い捨てられた”デブリ”が堆積していった。文字通りの『ゴミ』である。
地球の衛星軌道上。過去の五十年に渡る宇宙開発で打ち捨てられ、今なお浮遊し続ける大量のデブリ。あるものは工具、あるものはロケットの破片。大きさも形状もさまざまだが、もう二度と使われることがないだろうというのは、全てのデブリに共通して言えることだ。
そんなデブリの大海原の深部に、”何か”が存在した。果てしない暗黒の奥底に。その場所には一見何も浮いていないかのように映る。しかし時折・・・・・・周囲を飛び交う雑多なデブリがその空間を横切ると、そのデブリの像がゆらぐのである。ほんの一瞬だけ不自然に輪郭が歪んだかと思うと、そのまま何もなかったかのように通り過ぎていく。
辺りを行き交う大小さまざまな宇宙ゴミを避け、その場所へと近づいていく。そうすると徐々に、ゆっくりと、何かハッキリとした形が見えるようになる。空間の歪みを突破し、秘められたその地点にたどり着く。
それまで何もなかったハズのその空間に、突如巨大な建造物が出現していた。
見るも異様な形状をしたこの物体は、おそらくは宇宙基地の一種であった。長い円筒状の本体には縦向きに四つのリングが据え付けられ、それぞれのリングの一番外側の部分を、本体とは水平に設置されたもう一回り巨大なリングがぐるりと囲んで繋いでいる。多数のリングに囲まれた中央部の、本体と思しき円筒の両端からは、それよりも小さな円筒が何本かずつ全方位に突き出ている。モジュールの一種であろうか。
そしてところどころに穴が開き、ひどく破損した状態ながらも何らかの機能が働いているのか、金属製の本体がまるでカメレオンのごとく周囲の景色に溶け込み、リングの向こう側に隠れているはずの地球の姿が半ば像を歪ませながらもこちら側から見えている。こんな物体は明らかに自然物では在り得ない。あらゆる可能性を模索したとしても、これが人工物であることだけは確かであった。
――――が、その目的は計り知れない。そもそも何故こんな場所に存在するのか? それすらも分からない。少なくとも二十一世紀初頭においては、このような形状の宇宙基地を建造する技術も理由も存在してはいなかった。
基地の側面に開いた巨大な穴。そこから基地内部に侵入してみる。壁が損壊したことで通路のような奥行きのある空間が露出しているのだ。
内部は暗いものの、まったくの暗闇という訳ではなかった。通路の各所で淡いオレンジ色の光が点滅していて、弱々しいながらも近くの壁や床を照らし出しているのだ。外部の痛み具合からして相当な期間放置されていたに違いないが、電源は生きているようであった。
そうして通路を奥に、奥にと進んでいく。いくつかの扉の前を通過し、やがて一番奥部の部屋にたどり着いた。そこの入り口は他と同じくオート式のドアのようだが、過去に何か強い衝撃でも受けたのかドア部分が外向きにねじれた状態で突出し、半開きのまま固まっていた。
その壊れたドアをはさんで向かい側。ぼんやりと白い、消えかけのライトが弱々しく明滅しているだけのその部屋の宇宙ベッドの上に、仰向けで浮いているひとつの人影があった。
何者かは分からない。だが間違いなく人の姿をしている。それもこんな場所にいたにも拘らず、宇宙服などを着ている訳でもない。薄暗い部屋の風景に溶け込んでしまいそうな、全身黒ずくめのシャツとジーパンという出で立ちなのだ。
その人物は先ほどからベッドの上50センチほどの高さに浮いたまま、微妙に上下を繰り返していた。基地の外壁に穴が開き密閉が破れた今となっては、この室内は真空だ。到底生きているとは思えない。
―――あぁ、生きているとは思えなかったのだが。信じられないことに次の瞬間、その人物がそのふたつの瞳を見開いたのだ。静かに、ゆっくりと、確実に。その着ている服にも似た黒色の瞳はまばたきひとつせぬまま、鈍い白い光を発する数メートル上の天井を見つめた。そのまま身動きもしない。開眼してから数分、彼は沈黙したままだ。その間その胸はただの一度も上下してはいなかった。
真空中だからやろうとしても不可能には違いないのだが、その人物は呼吸しようという素振りさえも見せていなかった。その様子は果たして本当に生きている存在なのかということを疑わしくさせる。その正体は、誰にも分かりそうにはない。
そして遂に、
「・・・・・・・・・やっぱ、」
唐突に口を開くと、恐るべきことに声を発した。真空には媒体が存在しないハズなのだが。
「やっぱ許せねーなぁ・・・・・・・・・?」
そう呟くとその黒服の人物は、突然横たわっていた状態から手や足を使うこともなく体勢を変化させると、ベッドの上で浮いたまま仁王立ちの姿勢になった。よく注意するとその口が動くたびに聞こえてくる声は、同じ喉の奥からではなく、むしろ空間全体が振動することで発せられているかのようだった。
「大体なんで俺が追い出されなきゃいけなかったんだ・・・・・? 元はといえば動物を殺すテメェらが悪りーんじゃねぇか・・・・・ざけんじゃねーよ偽善者共がぁぁぁぁ!!」
激しく吼え猛る黒服の存在。その人格はどうやら男のようで、それも若者風の声色だ。
そしてその声が室内を駆け抜けていくと同時に、途中にあった通路や部屋の灯がその圧を受けたように一斉にしぼんで消えかかっていき、しばらくするとそれらはまた一斉に点灯した。その様子は、いわば光が怯えていると表現しても過言ではなかった。
今しがた声を荒げていた黒服の男はそれから俯き加減になりつつ徐々に静かになっていっていくと、しばらくの間、肩で息をするかのような動作をしながらその場に浮いていた。突然、男の動きが止まる。
「・・・・・・・・・・・・ッ!!」
その瞬間、男の頭脳に膨大な画像が流れ込み始めた。ソレはおそらくは、男自身の意思によるものだった。その時点で地上を行き交っていたあらゆる情報を彼の全身を使って読み取ると、それらにざっと意識の目を通していく。
それらの情報はあらゆる内容を含んでいた。たとえばある国の路上に展開した雑踏の光景。たとえばある人物が読んでいた雑誌の誌面。またあるいは誰かの笑顔、泣き顔。更には話している内容。そしてその中から・・・・・・。
「・・・・・・ヒヒッ」
妙に甲高い笑い声がしたのとほぼ同時にその身体がピクッと震えると、黒服の男は唐突に顔を上げた。部屋を満たす薄明かりの中でかろうじて見える男の顔は何故か、満面の笑みを浮かべているようだった。口の端が不自然に吊り上がっていて、その目は嬉々として輝いている。そう、まるで―――たった今新しい玩具を見つけたかのように。
* * * * *
眼下に薄く広がる、青みを帯びた大気。基地の側面に開いた巨大な穴の淵に、あの黒服の男が姿を現していた。相変わらずその姿はほとんど、暗闇の中に溶け込んでいる。必要がないからなのかは分からないが、その目は一切のまばたきをしていなかった。地球の大地をねめつけるようにして見つめるその瞳には、『実感』が存在しなかった。
しかもそんな目で、ずっとニヤニヤと笑みを浮かべているから気味悪いことこの上ないのだ。男の正体は分からない。だがひとつだけ言えるのは、この男には何かが欠如しているということだ。『生きた存在』であると認識するための大切な何かが。
男はゆっくりと、その右手を持ち上げて基地の外へと突き出した。それから、呟いた。
「女を助けてヒーロー気取りかよ・・・・・・だからテメェはうぜーってんだよ、水岡ァ・・・・・・」
その途端、宙に掲げられた男の掌からぬっと金属光沢を帯びた何かが”生えてきて”ものの数秒で分離すると、青白いソフトボールぐらいの大きさの球体へと変わって弾けたように飛び出し、デブリの飛び交う空間へと突っ込んでいった。
デブリの海に飛び込んでからしばらくすると、その青い球体は急ブレーキをかけたように空中で静止した。光沢を放つ球体の表面はよく見ると、その色が濃くなったり薄くなったりを定期的に繰り返していた。まるで点滅しているかのようで、不意にその点滅が大きくなり始めた。
球体の表面から発せられる青色の光が明滅し、その間隔を短くしながら強くなったり、弱くなったりを幾度も幾度も繰り返す。光が強いときと弱いときとの変動幅も徐々に大きくなってくる。音は、一切しない。
そうして明滅の密度が最高潮に達したとき、周囲の空間に変化が現れ始めた。空間そのものが複雑に揺らぐような感覚。球体を中心として間断なく、三次元的にその”ゆらぎ”は放出され続ける。そして遠く離れた空間に”ゆらぎ”が伝わると同時に、その場に浮いていたデブリのひとつがピクリとその身を震わせると、何の脈絡もなくその運動方向を変化させ、明滅を続ける青い球体の方目掛けて突っ込んでいった。
続いて少し離れた場所にあった、別のデブリが同じ行動をとる。またさらに別のデブリも。そうやって最初の一個が引き寄せられたのを呼び水に、いつの間にかその場に存在したさまざまな形をしたデブリが行き先を変え、群れを為して青い球体の元へ殺到し始めていた。
遠く離れた基地の内部から、その光景を見つめていた黒服の男は高らかに笑い声を上げた。
「ヒャハハハハッ、見ろよ・・・・・仲間がいるのはてめーだけじゃねーんだぞ!」
男は、笑う。笑い続ける。
そして遠い彼方の空間で誕生しつつある”仲間”に向かって言葉をかけた。
「コロセ」
なんでもないことのように、静かに。妙な抑揚をつけて。
「殺せ殺せ・・・・・・・・・・偽善者共をぶち殺せ!!!」
その瞬間、男の言葉に呼応するかのように背後で灯っていた薄い灯りの数々がジジジッと音を立て、不自然なほどにその強さを増しはじめた。そうして男の姿を背後から照らし出し、そのシルエットを真空中に浮かび上がらせる。
果たしてソレは、光の加減か。
その男の輪郭は、霞がかったようにぼやけていた。
* * * * *
暗闇の中で発せられるたったひとつの青白い光を中心に、いまや膨大な数のデブリが真空中のある一点に集合していた。もはやそれらは何の意味も為さなかった廃棄物の山などではなく、ひとつの目的を持った”個体”を形成しかけていた。
そしてとうとう青白く明滅する小さな球体は、ソレ目掛けて殺到した数え切れないほどの金属や岩石の破片で覆いつくされてしまった。それまで周囲を照らし出していた、淡いブルーの光が遮られる。その時デブリの集合体の中央から少し離れた位置で、それまで密着していたデブリの一部がその配列を変化させて空洞をふたつ等間隔で作ると、次の瞬間それぞれの奥部から最初と同じぐらいの大きさの球体が押し出されてきて、やや強い黄色の光を発し始めた。
(第三話へ続く)