裏窓
仰向けに寝転んでいた心弥は、夜空を眺めるのに飽きたのか、それとも、ビールを持参していたことを思いだしたのか、むくっと起き上がり、バッグから350mlの缶ビールを取り出して、プルトップを引いて開け一気に飲み干した。冷えていたビールは体温で温められてしまったのか生ぬるかったが、緊張感で乾いていた喉を潤すにはさほど気にもならなかった。
心弥は、缶ビールを握り潰して捨てた。空き缶はコロンと音を立てて転がっていった。それから、心弥は立ち上って、身を乗り出すようにして手摺りに凭れ掛った。眼下には宏大なパノラマが展開していた。その見渡す限りの広々とした風景は、浅い箱に土や砂を入れ小さな橋・家・人形などを置き、木や草を植え、庭園や山水などに模した箱庭のようであった。
「箱庭の、人に古りゆく、月日かな」
と、心弥は高浜虚子の俳句を囁いた。
箱庭の中の人は成長もせず、老いもせず、いつも同じ形でいるが、年月が経つにつれてその人の月日そのものが古くなっていくような感じを受けると言う意味だ。
心弥はアパートを探して、キョロキョロと両目を右に、左にと動かして、眼下に広がる風景を見廻してみたが、アパートの部屋を探し当てることはできなかった。
下から上を見上げれば屋敷しか見えない。逆に、上から下を眺めればその風景は、パノラマとなって広がっている。上と下とではその風景が違って見えることまでは計算に入れていなかった。心弥はその事に気付いて残念そうにガクッと肩を落として目線も下に落とした。とその時、眼前ある裏窓に吸い寄せられ、釘付けになった。
二十代半ば過ぎの女が、烈火の如くに怒っていた。その前に立ってその猛火を受けている男は、怒りもせずに穏やかに女の怒りを宥め賺していた。だが、男がそうすればそうする程に女の感情は昂るだけで静まることはなかった。
レースのカーテン越しに垣間見える光景を、心弥は身動きもできずに固まったように凝視していた。
抑えることのできない感情のままに怒り続ける女に対して業を煮やしたのか、突然、男が激しく怒鳴った。瞬間、女が男の両頬を続け様に引っ叩いた。
パシッ!パシッ!
その音が耳に届いたわけではなかったが、女の怒りは心弥の想像を遥かに超えた絶するものだったのだ。
女の成すがままにされている男に、心弥は怒りさえ覚えた。
「何で何もしねえんだよ。後ろめたいことでもあるのかよ」
と、心弥は呟きながら更にその身を乗り出した。
男の沈黙が気に入らないのか女の怒りが治まることはなかった。激しく罵りながら怒鳴りながら女は男を叩き続けていた。
心弥は、そんな男の煮え切らない態度に苛立ち叫んだ。
「何とかしろよ!」
その声が届いたかのように男の両手が、女の首を挟んだ。
「えッ?」
と驚愕して、心弥は声を漏らした。またもその声が届いたかのように、
「!?」
男の目がこちらを見上げた。咄嗟に心弥は腰を落して身を屈めた。
「……」
心弥は、男からは見えるわけがないとわかってはいても、それでも男に気付かれないようにと腕を伸ばして六個の札束と空き缶を手に取った。人の心理とはこういうものなのであろう。
心弥は部屋の中に飛び込んで、元来たコースを辿って駆け戻り、屋敷から飛び出した。坂道を一目散に走り去っていった。靴カバーを履いたまま。そのせいなのかその途中で足が縺れて素ッ転んだ。だが、痛みは感じなかった。逃げることだけしか考えていなかったからだ。心弥は素早く立ち上って靴カバーを履いたまま転がるように坂を走り下りていった。