スーツ
ヘヤースタイルを整え終えた心弥は、すぐさま、のんびりと春休みを過ごしているであろう、大学の友人達に連絡し、居酒屋で酌み交わす約束を取り付けた
大学の近場にある、いつもの通い慣れた学生向けの安さが売りの居酒屋に、時間よりも早めに行くと、友人の鈴木と岩谷と国分は、既にそこに集合して軽くビールを飲んでいた。
「行ったのか?」
「ああ、お前達も」
鈴木と岩谷と国分の三人も、短髪にして黒髪に染め直していた。だが、その表情はヘヤースタイルのようなサッパリ感はなく何時になく暗かった。心弥と同様に、異次元の世界へと足を踏み入れることへの恐れみたいなものを感じているのであろう。
「スーツ、買ったのか?」
心弥が言うと、岩谷と国分が買ったと答えたら、
「俺は、2着買った」
と、鈴木が言った。
「2着も?」
心弥と岩谷と国分は、鈴木の意外な答えにビックリしたように顔を見合わせた。その必要性を感じなかったからだ。
「入社した後も、それを着るつもりなのか?」
「新しく買わないのか?」
「幾ら何でも就職活動に着たスーツを着るのは……。な?」
「ああ」
「着たいとも思わないよな」
岩谷の意見に心弥と国分は賛意を表した。
「何でだ?」
「何でって、こっちが聞きてえよ」
と言った岩谷に対する鈴木の答はこうだ。訪問する企業も面接する企業も1社とは限らないし、1日で事が済むとも限らない。1着だけでそれを済ますには無理がある。汚れてよれよれになって、相手に対して悪い印象を与えかねない。2着あればクリーニングもできて、常に清潔感を保てる。
「入社したら、無駄になるんじゃないのか?」
と言った国分に対する鈴木の答はこうだ。入社が決定すれば就職祝いにスーツを買って貰えるだろうが、微々た給料しか貰えない新人にとって2着目の新しいスーツを買うにはそれなりの月日を待たねばならない。購入できる余裕ができるまでの間、その2着も着用していれば気持ち的に余裕が生まれる。
鈴木の意見は、実に論理的で計画性があった。それを聞いた国分と岩谷は、早速、もう1着購入しようとするかと言ったが、心弥はそう判断することに対しての躊躇いがあった。何故なら、心弥にとっての会社勤めは次の段階に進むための、いわゆる、ホップ、ステップに過ぎなかったからだ。結局、心弥は安価なスーツを1着だけ買った。