第2話
初めて通話した日からだいたい1週間が過ぎた頃。
その日は遅番で、13時を過ぎて昼休憩に入った時に彼からのチャットに気づいた。
『今夜、また通話しない?』
受信したのは11時半頃。講義の合間にでも連絡をくれたのだろう。
通話か……
少し迷う。午前中、ミスをしてしまい自己嫌悪に陥っていたのだ。
私が勤めてるのは老人ホームで、介護の仕事をしている。
今日に限って職員が足りず仕事が忙しくて利用者に目が届かず転倒させてしまった。
というのは言い訳にしかならない。って部長が言う気がする。
勤めて3年目になるのに何やってるんだ、とも。
重たい気分のまま久遠に断りの返事を書きかけて途中で指を止めた。
くだらない事を話してまた笑えば気が紛れるかもしれない。
そう思って一度打った文章を消して新たに文字を打ち込む。
『今日は遅番で帰り遅いんだ。22時過ぎれば平気だと思うけど、それでも良ければ』
送信。
コンビニで買ってきたサンドイッチを開け頬張る。……うん、やっぱりあのコンビニのサンドイッチは美味しいや。
ゆっくり咀嚼しているとスマホが震える。
『いいよ。色々済んだら連絡して』
『ん。分かった』
チャットを送り返し、紙パックのミルクティーに口をつける。変わらず好みの甘さだ。自然に口角が上がったのは甘ったるいせいだけではないと思う。
残り一口程になっていたサンドイッチを口に放り込み、ミルクティーで流し込む。
少し早めに仕事に戻って定時で上がれるようにしよう。
ああ、でもその前に報告書書いて怒られてこなきゃ。
結局。帰ってきてお風呂とご飯を済ませたら23時を過ぎてしまった。
鎖骨辺りまで伸びた髪からぽたぽたと垂れる雫をタオルで吸い取るりながらパソコンの前に座り、キーボードを叩く。
『遅くなってごめんね。まだ起きてる?』
返事が来るまでに髪を乾かそうと、洗面所から持ってきたドライヤーのスイッチを入れる。温風を根元の方にあて、少しだけ目を伏せた。
今日は本当に疲れた。
昼休みの後、すぐに報告書を部長に提出した。言い訳にしかならない、と言われたのは想定内。だけどその後であたしが関係ない事でまた怒られることになり……正直しんどかった。あたしじゃなくて本人に言ってよハゲちゃびん。
なんて思っているとパソコンから専用の通知音が鳴る。
『風呂入ってた。まだ寝ないから話そう』
起きててよかった。
何となくほっとした。
髪を乾かし終え、仕事帰りに買ってきたヘッドセットをパソコンに繋げる。
通話のマークをクリックすると数コールで彼は出た。
「こんばんは。遅くなってごめんね」
『大丈夫。お仕事お疲れ様』
「ありがとう」
「あ、ちょっと待って。布団入りたい」
『わかった』
ノートパソコンをベッドに移動させ、自分は布団に潜り込む。
久遠の声を聞いただけで自然と笑みが零れたのが分かった。何だか照れくさくて布団の中で踞って小さく声を漏らして笑った。
『なあに?』
「……うん?」
『いや、何でもないよ』
「……そお?」
『うん』
しばらく何を話すでもなく、お互い沈黙が続く。ヘッドホン越しに布が擦れる音がする。久遠も布団の中にいるのだろうか。
やがてくぐもった声で『何かあったの……?』と心配そうに問うてくる。
「んー?なんでそう思うの?」
「いや、声に元気がない気がしたから。勘違いだったらごめん』
声に出てしまっているのか。微苦笑しながら今日あったことを話す。ついでにハゲ部長の愚痴も。
彼はただうん、うんと聞いてくれた。
話し終えた後久遠はしばらく何も言わなかった。でもやがて、
『……俺はまだ学生だし、ハルさんより年下だから何だよって思われるかもしれないけど、部長に言われた事は気にしなくていいんじゃないかな。ベテランでも同じようなミスする時あると思う。だからそんなに自分を責めないで』
優しい声でそう言われ、自然と目頭が熱くなった。
……誰かにそう言ってほしかったのかもしれない。少し気持ちが軽くなった気がした。
「久遠、ありがとうね」
『いえいえ』
「でも年下に慰められるって何か私のプライドが許さなーい」
『はは、こないだ思ったけどハルさんって年上って気がしない』
「どういうこと!?私一応年上だったはずだけど」
『……何でもない。忘れていいよ』
「えー」
何度も教えてよ、と食い下がるも久遠は答えてくれなかった。最終的には誤魔化すためか歌を歌い始めた。歌詞が好みにぴったりで、聴き入ってしまった。すごく心地いい。
と言うか、声が良くて歌が上手いとか反則……。
曲名は英語。高校以来に訳してみようとしてみるけど何だかしっくりこない。
「この曲名、訳すとどういう意味になるの?」
『直訳すると微妙な言葉になるもんね。ネットで検索かけるとすぐ出てくるよ』
「ん……今度調べてみる……」
歌を聴いたせいか、瞼がとても重い。もう少し話したい、声を聴きたいのにもう頭は眠る体制に入っている。
『……ハルさん?眠いの?』
遠くで久遠の声がする。まだ話したいって、言わなきゃ切られちゃう……。
けど、口から漏れるのはもう言葉になっていなかったと思う。
『……おやすみ、ハル』
ふっと目を開くとカーテンの隙間から光が差し込んでいた。時間は……11時半前。10時間近く1度も目覚めずに眠っていたのは初めてかもしれない。
枕元のパソコンに目をやる。通話中。
――え、通話中?
「久遠、久遠」
何度か呼びかけると布団の擦れる音、少しして『んー……』と寝惚けたような声がした。
「起きた?」
『んー……』
「おはよ」
『んー……おはよ』
寝起きのせいかいつもより少し声が高い。これはこれでいいかも……じゃなかった。
「もうお昼だけど講義あるんじゃないの?」
『……いや、今日はない日だから平気。ハルさんは?』
「夜勤だから大丈夫だよ。これからご飯食べて出勤まで寝直す」
『食べてすぐ横になると太るよ』
「わ、分かってるけど寝とかないと体がもたないのっ」
ちょっとふてくされたように言うと彼が笑う気配がして、つられて私も笑った。2日でここまで話せるようになるなんて、今まで人見知り激しかったあたしは別人だったんじゃないかと思う。
『そしたら切ったほうがいい?』
「あ」
『ん?』
――「切っちゃやだ」と言ったら、君はどんな反応をするんだろう。
試そうと思ってやめた。彼を困らせたいわけじゃない。
「……何でもないよ」
『そっか。じゃあ、またね』
「うん。またね」
プツッと通話が切れる。
……何だろう、少しだけ心にぽっかりと穴があいたようなそんな感覚。この感情が何を意味するのかは分からないけど。
もっと久遠と話したいな、そしたらこの意味も分かるのかな。
「……ご飯作ろう」
呟いてベッドから起き出してリビングへ向かうのだった。