例えば、そんな偶然で。3
奥様が客間と呼んだ部屋は、広い和室で、中庭に面した襖を開け放つとそこには風情ある庭園が広がっていた。
ぽつりぽつりと並ぶ灯篭には火が点され、手入れの行き届いた庭を淡く映し出している。
暗闇に紛れて見えないが、どこかで獅子脅しが鳴っていて、広い庭に響くその音はどこか幻想的だ。
庭園の向こう側にある月明かりの落ちた小さな池には波紋が広がり、鯉でも飼っているのだろうかと思わず目を眇める。
誰も喋っていなければ、静寂だけが支配する部屋だった。
部屋の中には繊細な意匠が施された和箪笥があるだけで、他には何も置かれておらず、真ん中に一組だけ布団が敷かれていた。
その上に、壊れ物でも並べるみたいにそっと寝かされる。
「寝とけ」と言われれば、その通りにせざるを得ず、柔らかで清潔そうな布団の中に体を埋めた。
「布団なんていつ用意したんだよ」
私に掛け布団を被せながら孝仁が問うと、白石は意味深に笑った。
「何かお前、すげー怖いんだが」
「光栄です」
「だから褒めてねーっつーの」
枕元に座した孝仁が掛け布団をぽんぽんと優しく叩く。
赤ん坊をあやしているような仕草だ。
早く眠れと言われている気がして目を閉じる。
孝仁の大きな手が時々頬をくすぐり、顎のラインをなぞった。
慣れない感触に思わず身をよじると「じっとしとけ」と優しい声が諌める。
どうしてもその声の持ち主を目に映したくて、ほんの少しだけ瞼を開けると、柔らかな眼差しを向けた孝仁がそこにいた。
その手も、その声も、その眼差しも、かつての私が死ぬほど欲しかったものだった。
「坊ちゃん、何だか私、ぞわぞわするんですが」
ふとそんな声が落ちて、
「あんだよ、ど変態」
「私にも優しくしてください」
「キモツ!」
「私にも優しくしてください」
「キモッ!てか、キモッ!」
先ほどまでと変わらない調子で話し出す二人に、若い声が割り込む。
「マジでガチで気持ち悪いです、白石さん」
「死にたいようですね、三波君」
「すみません!」
そんな風の三人が会話するのを聞いていると、孝仁が私の目元を大きな手で覆った。
「良い子は見ちゃいけませんよー。」
「何でですか!酷い!杏ちゃんは友達なんですよ!」
「ああ?お前何言ってんの、三波。杏はお前のことなんて知らないって言ってるだろ」
「言ってません、言ってませんから!」
部屋の中にいるのは今日初めて出会った人ばかりで、同じ学校の三波は別として、孝仁も白石もどこか得たいの知れない人間なのに、なぜかその声を聞いていると力が抜ける。
まるで、ここにいても良いのだと、そんな風に思わせる安心感があるのだ。
それは言動にようものではなく、ただ、こちらに向けられるまなざしがそうだと語っている。
でも、駄目だと、頭の中で警報が鳴っている。
私の家はここじゃない。
使い古した私の布団はすえた汗の臭いが染み付いていて、こんなに柔らかくないし、薄くて硬い。
あんな布団好きではないし、買い換えられるものならばそうしていたけれど、子供のころの私にとってその布団は、最大の防波堤だったからどうしても捨てがたかった。
理由も分からないまま殴られて蹴飛ばされては布団の中に潜り込んだのを思い出す。
声が漏れれば、もっと酷く殴られる。両手で口をぎゅっと押さえてこの痛み殴られた痛みが去るのを待っていた。
好きだったわけでも大切だったわけでもない。
ただ、家の中で最も安心できる場所だった。
入れ替わり立ち代り訪れる母の愛人が泊まりこむようになれば、元々ない居場所を本格的に失い、やっぱり布団の中に逃げ込んで頭からすっぽりと毛布を被って暗闇に紛れた。
この暗闇が私をそのままどこかに連れ去って、どこか遠くへ連れて行ってくれるのではないかと、そんな馬鹿な夢を見たのだ。
「杏?寝たのか?」
「眠ってますね」
眠ってはいなかったけれどもう目が開かなかった。
それどころか身動きできない。耳だけがかろうじて音を拾っているといったところだろうか。
「和久井のじいさんは?」
「ケリがついたら来るそうです」
「ケリ?どーせ将棋だろ。緊急事態だって言ったか?」
「ええ、まあ。でもあのような方ですから・・」
「医者失格だろ。おい、三波。和久井のじいさん呼んで来い」
「え?!無理ですよ!俺に旦那様の前に顔を出せと?!無理無理無理無理!それこそ死ぬ!絶対死ぬ!!」
「だから、うっせーつーの。杏が起きるだろうが」
「旦那様が殺す前に、私が優しくゆっくりじわじわと天国へお連れしますよ」
「どういう意味?!」
「そのままの意味だろ。三波、死ぬよりも辛い目にあいたくなければ今すぐ和久井のじいさん呼んで来い」
「嫌だー行きたくないー、でも、このままここにいるのも嫌だー」
「三波、いかなるときも選択肢は二つだ。やるかやらないか、それだけだ」
「じゃあ、やらないという選択で!」
「殺すぞ」
「ないじゃないですか!選択肢なんてないじゃないですか!」
うわーん、という子供のような泣き声が部屋から遠ざかっていく。
三波が部屋を出たのだろう。
しんと静まり返った部屋で孝仁と白石が何事かぼそぼそと話す声が微かに聞こえている。
仕事の話だろうか。
昨日までの私は、こんな風に穏やかに眠ることができるなんて想像もできなかった。
母や、その愛人は、いつだって私の眠りを妨げて奈落の底へ突き落とした。
いつまでも続く嬌声は不愉快で、それが止んだと思えば、母の愛人がわざわざ私の部屋までやってくる。
夜中に外へ出されたのは1度や2度じゃない。ついでのように蹴り上げられたことも数えられないほどである。
だから私は、いつだって警戒していた。
振り上げられる拳に怯えて、身を竦ませて震えながら生きてきた。
なるべく息を詰めて、ううん、呼吸さえしないように誰にも見つからないように生きてきたのだ。
震える体を布団の中で抱きしめて、ただひたすらに時間が過ぎるのを待っていた。
それが、今。
眠っても良いと言われたのは初めてで。眠るとき、慈しむように触れられたのも初めてで。
何よりここは、この部屋の中は、寒くない。
隠れるようにしなくても、誰かに引きずり出されることはない。
どうしよう。
どうしよう。
こんな風に、知ってはいけなかった。
あれほどに気をつけていたというのに。初瀬には簡単にできたことが、できなかった。
それともこれは夢なのだろうか。
私は今もあのベンチに倒れこんでいるのだろうか。
いや、そもそも家から外に出たこと自体が夢だったのだろうか。
初瀬に引き止められたことも、その手を拒絶したことも、暗い路地を走ったことも全部、全部夢だったのかもしれない。
そうだ、きっとそうに違いない。
あの狭いリビングで首を掻き切って、そして私は死んだのだ。
そうだ、それなら、良い。
今よりも、ずっと良い。
だって、だって―――――――
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「おい!てめえ!起きろっつてんだろ!!」
耳を劈くような怒声に揺さぶられて、布団から引きずり出される。
ベッドから蹴り落とされて、冷たい床に転がった。
「目障りなんだよ!」
足で頭を小突かれる。
痛む背中に、ひゅっひゅっと短く息が漏れた。
自分の部屋で眠っていただけだというのに、何が目障りだというのか。
最初から、母や男の目につくところにはいなかったのに。
わざわざ私の部屋まで来て言いがかりをつけるのだから、どうしようもない。
さりげなく時計に視線を走らせると、夜中の2時を指していた。
「おい、聞いてんのか!」
髪を引っ張られて起こしかけた半身が再び床に沈む。
視界の隅に長い髪が映った。
髪は、切ったはずなのに。
私を捕まえるのにちょうど良いらしく、何度も髪の毛を掴まれるものだから、そうされないように短く切った。
そのはずなのに、私の長い髪が床の上で流線を描いている。
一体、どういうことだろうか。
これは、夢?
「てめぇ、なめてんじゃねぇぞ!」
どす、とわき腹に男のつま先がめり込む。
油断していて、受身がまったく取れなかった。
「っ」うめくように蹲ると、今度はそれが気に入らなかったのか踏みつけられるように背中を押された。
違う、これは夢じゃない。現実だ。
だってこんなにも痛い。こんなにも、苦しい。
無意識にも逃げ場を探す為に、痛みを堪えながら視線をめぐらせると、少し開いた扉の隙間から廊下の明かりが差し込んでいた。
その向こう側に細い足首が見えている。
見上げれば、薄い寝巻きを羽織った母がこちらをじっと見つめていた。
幼い頃であれば、彼女に助けを求めていただろう。
無駄だと分かっていても、助けてくれるかもしれないという期待があったから。
彼女は私の母親で、私はその娘で、親は子を守るものだと遺伝子が訴えてくる。
その訴えに導かれるように手を伸ばした。
だけど、母はいっさい表情を変えないまま、ゆっくりと扉を閉めたのだ。
『お母さん、お母さん、痛い!痛いよぉ!』
幼い頃の私の声が部屋の中に響いている。
スローモーションみたいに閉まっていく扉と、残像を焼き付けるみたいに去っていく母親の背が何度もリフレインする。
そして今日も、母はいつもと寸分違わぬ姿で部屋から遠ざかっていった。
こちらを見るがらんどうの目。何の興味もなさげな顔。ほんの躊躇いもなく返される踵。
――――――さっきまで私は、多分、優しい夢の中にいた。
こっちが現実で、アレが夢なのだと分かる。
だって、あんな優しい世界が現実なはずはない。
のたれ死にしそうだった私を誰かが抱き上げてくれて、こことは別の温かい部屋に寝かせてくれて、剣のない眼差しは逸らされることなくじっとこちらを見つめていた。
耳障りの良い声は私を責めることなく、吐き出される言葉は何となく甘かった。
私は、ゆっくりとまどろみながら、頬を撫でる指先に全てを預けて、ほっと息を落とすのだ。
まるで、そっちが現実だと思わせるような鮮明な夢だった。
「誰が」とか「いつ」とか「どうして」とか細かいことは覚えていない。
ただ、あの夢の中にそのまま留まることができたなら、それはどんなに幸せなことかと思った。
そう思って、はっと気づく。
一体、何を考えていたのかと―――――
夢の中になど行けるはずがない。
私の住む家はここで、この部屋以外に居場所なんてない。いや、ここにだって居場所はないけれど、それでも生きていくためには雨風を凌げる場所が必要で、それに一番適しているのはここしかない。
眠りにつく前まではそれで良いと思っていた。
いや、そう思っていたことにさえ気づかなかった。
それほどに、ここに居る自分というのが当たり前だったのだ。
それが、なぜか、目を覚ますと、ここではない場所を求めていた―――――
そんな自分にぞっとして大きく身震いする。
だって、そうではないか。
今までの私は、自分の人生をそれなりに受け止めていた。
だって、そうするしかなかったから。
他には私の居場所なんてない。だから、受け入れるしかない。
行くところがないから、ここに帰ってくる。
だけど、そうじゃなかったら?
私にはもっと私に優しい場所があって、私を守ってくれる御伽噺の騎士のような存在があって、私は暴力にも暴言にも怯えずに暮らすことができるのだ。
もしも、そんな場所があるとしたら?
そうしたなら、私は、きっと耐えられない。
今、ここにいる自分を受け入れることができない。
私には、ここだけだと思っていたから。
だから、必死に受け流してきたのだ。全てのことを、日常を、誰にも愛されない自分を。
だけどあの夢の中のような場所があったなら、そこを一度でも知ってしまったなら、私はもう自分を受け入れることはできないだろう。
この場所に帰ってくることはできない。
それは何よりも、怖いことに思えた。
「てめぇ、いっそのこと死んじまえよ。そしたら、俺もあいつも気兼ねなく暮らしていけるのによ」
床に転がった私の体に、男の言葉が落ちてくる。
怒号ではなく、あくまでもぽつりと落とされた言葉に、それが本音だということが伺える。
「じゃぁ、早く殺してよ」
そう言葉にしたのが、夢だったのか現実だったのか私には分からない。
自分の声だというのにやけに遠くから響いて聞こえた。
男が僅かに目を瞠るのが見えて、 だけど、この男はそんなリスクは犯さないだろうと思い立つ。
弾みでそうなってしまうことはあっても、計画的に殺人を犯すような人間ではない。
それは、この男が善人だからなのではなく、この男がただの「普通の」人間だからだ。
普通の人間は、暴力を奮うことはあっても人は殺さないものなのだ。
そもそもそんな度胸はないだろう。
そんなことを考えながら男の顔を見つめていると、ニヤリと笑った男の踵が顔面に落とされた。
暗転する世界。
私は再び闇に墜ちた。