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例えば、そんな偶然で。2

車の中で、私を抱えた男は自分のことを「孝仁たかひと」だと言い、眼鏡の男を「白石しらいし」だと紹介した。

白石は孝仁の秘書だという。

孝仁はどこか名のある会社の役員を務めているらしく、詳細は語らなかったが、どうやら身売りされるわけではないらしいというのは理解できた。

いつかそうなる可能性も捨て切れなかったが、社会的地位のある人間がこんなにも堂々と人攫いをするわけがない。と、勝手に結論づける。

これまでの人生で散々な目にあっておきながら、自分でもおめでたい頭だとは思うが、車に乗せられた時点ですでに自分にはどうにもできない状況になっていたから、今更どうのこうの言っても全て手遅れな気がした。

要するに疲れきっていたので、成り行きに身を任せたのである。

とりあえず、今は、売られない。

それが分かっただけで十分だった。


孝仁は名字を名乗らなかったし、白石は下の名を言わなかった。

だけど、それで良かった。それ以上に知りたいことはなかったから。

私も名を問われて初めて「杏」と声を口にしたが、それ以上は舌が動かず、また何も聞かれなかったので、それまでと変わらずただじっとして、孝仁にもたれかかったまま二人の会話を聞き流すことに徹した。

孝仁の声も、白石の声も、気を張っていなければそのまま意識を持っていかれそうなほどに聞き心地が良かった。元々の声質というのもあるだろうが、それ以上に、彼らの高くも低くもないいわゆる「普通」のテンションがそうさせるのだろうと思った。

私が普段聞き慣れている男の声というのは、罵声や怒声の類で、それらは穏やかさとは無縁のものだったから。


車はやがて、いっそ巨大とも言っていいくらいのお屋敷の前で停車した。

運転手である白石がてっきり車をどこかに移動させるのだと思えば、エンジンを切って、恐らくこの車の到着を待ち構えていただろう別の人間に車のキーだけを受け渡した。

その作業を眺めていた私に目敏く気づいた白石が「(彼は)車両係です」と短く告げる。

返事など期待していなかったのだろう。一方的にそれだけを告げて白石は先に車を降り、外から後部座席のドアを開けた。

車に乗り込んだときと同様に、孝仁が私を軽々と抱き上げて車を降りる。すべらかな動作はとても人間を一人抱えているとは思えない。

力が入らない体をしっかり預けると、頭頂部に何か柔らかいものが触れた。


「坊ちゃん・・」


白石が眉をひそめてこちらを見ている。


「何だ嫉妬か?」


何が行われたのかは全く分からないが、白石は返事をする代わりに、はぁ、と大きく息をつく。


「犯罪臭がします」

「どこでだよ」

「ここで」

「お前か?」

「・・・」

「暗殺もほどほどにしとけよ」

「そうですね」

「だから、否定しろっつーの」

「事実をわざわざ否定する意味がわかりません」

「おまわりさーん」


顔を上げる力もない私には見えないが、声音からしていかにもにやにやしている様子の孝仁が容易に想像できた。


「杏、まだ寝るなよ」


ここまで意識を保っていたのが不思議なほどに、沈んでは浮かび、浮かんでは沈むことを繰り返していたのだが、意識を失いそうになると絶妙なタイミングで孝仁が声を掛けてくる。

歩いているのさえ分からないほど静かに歩くので、ゆりかごに入っているような心地で半分覚醒しているような状態だ。

豪奢とはいえないが質素でありながら十分頑丈な造りの門扉をくぐりぬけ、敷地の中に入ったというのに玄関まではまだたどり着かない。

我が家周辺の住宅もそれなりの大きさを誇っているが、それとは比べ物にならないほどの大きさだ。

ぱっと見ただけで敷地がかなり広いことが分かる。

屋敷の裏は雑木林なのだと事も無げに語った。

タロウはどうやらそこに埋まっているらしい。


「坊ちゃん、奥様にどう説明するおつもりですか?」

「説明?しねーよ」

「なさらないんですか?」

「ああ、しねーな」

「何か策を講じてらっしゃるのですか?」

「策?そりゃお前の仕事だろ」

「なるほど、丸投げですね」

「おー」

「否定してください」

「事実を否定する意味が分からん」

「それ、もういいです」

「お前が言うな」


あーだこーだ毒にも薬にもならない会話を繰り広げるこの二人は、これでコミュニケーションをとっているらしい。

意味の無い会話にも、どうやら何かしらの意味があるらしかった。

私にはよく分からない。

誰かとそんな会話をしたことなんて、ない。

だけど、幼い頃、あの小さな庭で初瀬と並んでぽつりぽつりと話をしたことが思い浮かぶ。


「あ、孝仁さん!」


ようやく玄関まで辿り着いたと思ったとき、背後から明るい声が響いた。


「よー、来てたのか」

孝仁が振り返りもせずに返事をする。

「彼なら三日前から家に帰ってません」

と、白石がさりげなく注釈を加えた。


「お前、また泊まりこんでんのか?」

「あ、はい。まー。」

「そんなに光成が好きなのか。つーか、お前ら・・付き合ってんの?入り浸りすぎだろ」


明らかに声音に苦いものが混じった孝仁がやはり相手に顔を向けることなく言う。


「は?そんなわけないじゃないですかー!早苗さんが俺に部屋作ってくれたんっすよ!

だから光成の部屋に泊まりこんでるわけじゃないです!」

「お袋も何やってんだか・・。

つーか、それはあれだろ。カモフラージュだろ。

別に俺は構わねぇよ。お袋公認らしいしな」

言葉では認めているようなことを言っているが声音は投げやりだ。ため息も混じっている。

そこにすかさず白石が、「さすが坊ちゃん、博愛主義ですね」と入り、棒読みでよいしょした。

「そうだろう」

「いや、だから違いますって!」


焦った様子の少年らしい若い声が、背後から回り込んで正面に来る。

軽快な足音が敷き詰められた砂利を踏んだ。


「あれ、てか、その子どうしたんですか?」

「拾ったんですよ」


少年の問いに少し後ろに立つ白石が答える。


「というか、その服・・俺らの高校の・・というか、え、その後姿見覚えが・・」

「お、やっぱ知り合いだったか」

「え、え?、えぇ?何で?ちょ、ちょっと、顔見せてください。人違いという可能性も・・!」

「おいおい触んなよ。怪我してんだ」


ふわりと浮いて僅かに体勢が変わる。どうやら、触ろうとした少年の手を避けたらしい。

孝仁の肩に顔を埋めている状態なので何が起こっているのかはよく分からない。


「あぁあ、嫌な予感がする!すっごい嫌な予感が!

顔を見たい!でも、見たくない!」

「うっせーよ。

それにな、三波。いかなるときも選択肢は二つだ。やるか、やらないか。それだけだ」

「いや、でも見せてくれないんでしょ?!」

「ああ」

「選択肢なんてないじゃないですか!」

「だから、うっせーつーの」


さらりと会話の中に出てきた「サンナミ」という名前にほんの僅かだが首を傾ぐ。

聞き覚えがある。

無意識に顔を上げようとして、孝仁に制される。


「顔伏せとけよ」


逆らう理由もないので大人しく従う。


「ちょっと白石さん!あの子が何者なのか知ってるんですか?!」


相変わらずテンションの高い声が耳に飛んできて、思わず目を伏せると、


「三波君、声のトーンを落としてください。奥様に進言して出入り禁止にしますよ」


それとは対照的な冷え冷えとした声が彼を嗜める。


「ちょ、そこまで?!」

「だから、うっせーつーの」

「あぁぁ気になる、気になるー。でも知りたくない、知りたくないー」


唸るような声がいつの間にか再び背後に回りこんでいる。

サンナミはどうやら足を止めてしまったようだ。


「あらあらあら、騒がしいこと」


玄関の引き戸をガラリと開ける音で視線だけを上げると、そこにはタイルの敷き詰められた塵一つない土間がひろがっていた。その一段上が室内へと導く長い廊下となっている。

テレビで見たことのある、旅館の入口に似ていた。それほどに広かった。

その廊下に、和服姿の女性が立っている。


「おかえりなさい」

「おー、帰ったぜ」

「ただいま帰りました」

「お邪魔します」


孝仁がまず中に入り、白石、三波と続く。


「あらあらあらあら、三ちゃん。あなたも『ただいま』で良いのよ」

「た、た、ただいま・・!」

「ふふふ、可愛いわねぇ」

「おい、お袋。あんた三波をどうするつもりだ」


黒髪をきっちりと結い上げた品の良い女性だ。

その人が黒い双眸をこちらに向けて、器用に片眉を上げる。孝仁がする仕草によく似ていた。


「また拾ってきたの、孝仁」

「ああ」

「弁明は?」

「ねーな」

「そう。潔いのは美徳だけれどねぇ、物事を動かすには説得力というものが必要なのよ」

「ああ、知ってるさ」

「説得する材料があるというの?」

「あるぜ。な、白石」

「丸投げですね?了解です」

「そうね、良い案だわ。名君子というのは自らが賢くなくても良いのだもの。君子の能力を上回る右腕さえいればそれで良いのよ」

「下克上ですね?了解です」

「ちげーよ、何でそうなるんだよ。白石がやるのは状況説明だけで良いんだよ」


孝仁がそう言いながら、私の体を僅かに女性のほうに向けた。


「それはつい二時間ほど前に遡ります。坊ちゃんは今日、会合のために隣街の料亭までお出かけでした。秘書である私に運転手の真似事をさせたのは、最近発生したとある事象で坊ちゃんの警戒心が高まっているからです。私はそれを、付き合いの浅い人間を運転手とすることに懸念を抱いた為と推察していました。しかし、結局、気の置ける人間だけにして、ただ単に坊ちゃんが車内で気を抜きたいだけだったのです」


白石がじっと私を見つめながら一息でそう言った。

しん、と静まり返る玄関先。


「いや、ちげーよ!何で俺について語ってんだよ。ここはこいつを拾った経緯を語るところだろう?!」

「そう、分かったわ」

「いや、何でだよ。今ので何が分かったんだよ!」


「まぁまぁ、良いからお上がんなさいな」


女性に促されて孝仁が私を柔らかく抱えなおしてかまちに足を掛ける。


「自分から聞いといて一体何なんだよ」

「奥様は気分屋ですから」

「そうだな。面倒くせーな」

「そうですね、非常に面倒です」


孝仁と白石は声を潜めることもなく堂々と「奥様」に悪態をついている。


「あらあらあらあら、潰されたいのかしらねぇ二人とも」

「どこを?!」


女性の言葉に声を上げたのは、なぜか三波だ。

「想像するだけでも痛い」と呟いている。


そんな三波に意識を奪われていると、つ、と細い指に顎を掬われた。

抵抗する力もないのでされるがままになっていると、こちらをじっと覗き込む女性が目元を緩ませる。


「大人しいのねぇ、可愛いわぁ」


おっとりとした口調で優しく微笑を向けられた。

その冷たい指先が心地よくて思わず擦り寄ると、女性は少し驚いた顔をした後、うんと大きく頷いた。


「ようございます」


そして、やけにはっきりとした口調でそう言った。


「ほら、白石。飼って良いってよ。説明なんて必要なかったろう」

「そうですね、確かに」

「え、何?何ですか?!一体どういうことですか?!」

「だから、うっせーつーの」


今にも掴みかからんばかりの三波を適当にあしらって、孝仁は廊下の奥へと足を進める。

女性は何か用事があるらしく、「客間を使いなさいな」と言ってそのまま玄関に降りていった。


「飼う?!飼うってどういうこと?!」


独り言なのか質問しているのか明らかに混乱した様子で、三波は孝仁と白石の後を追ってくる。

追いすがるようなその姿には同情するが、孝仁も白石ももちろん足を止めない。


「マジでうっせーな、三波は。光成もよく付き合ってられるなぁ」

「付き合う、それは友情的な意味ですよね?!」

「・・・」

「ね?!」


廊下を進んですぐ左は和室らしく、真っ白な障子がずらりと並んでいた。

障子に並ぶ自分たちの影を眺めていると、孝仁が思っていたよりもずっと大きな体をしていることが分かる。

公園で出会ったときは、私がベンチに寝転がっていた状態だったし、車の中では座っていた。車を降りてからはずっと抱えられていたからよく分からなかったが、孝仁の身長は180cmを軽く超えている気がする。

そんな彼に抱えられている私は「飼う」という表現があながち間違いではないと思えるくらいに小さい。

小動物サイズではなかろうか。


「杏、寝てないだろうな」


問われて微かに肯く。

駄目だ、駄目だ、とは思っても人間とは案外しぶといものなのだ。

私はそれを、身をもって知っていた。


「あ、ああああ杏ちゃんんん?!やっぱり、やっぱりそうなんだ!やばい。やばすぎる!!」


光成に殺される!と、急に三波が悲鳴のような声を上げた。


「三波君、それ以上騒ぐなら今ここで君の意識を落としても良いんですが?」


そこに氷のような白石の声が響く。

「うぐっ」と声をかみ殺した三波が涙目でこちらを覗き込んできたので、自然と視線がかち合った。


しばらく目線を交わした後、『やっぱり・・!』と、三波は声を出さずに、パクパクと口を動かして驚愕していた。













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