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例えば、そんな偶然で。

もう何だか酷く疲れてしまって、初瀬の手を振り切るように逃げ出すと、いくらもしない内に足がもつれた。

痛んだ体ではうまく受身がとれず、地面が迫ってくるような感覚に思わず目を瞑る。

手の平から崩れるように転がった体は肘と膝を盛大に打ちつけてから動きを止め、力の入らない体は何度も体勢を立て直してやっと地面から起こすことができた。

壁づたいにゆっくりと、一歩一歩、慎重に足を踏み出す。

そんなに走ることはできなかったのに、全力疾走したあとみたいにぜえぜえと脈打つように呼吸が漏れた。


寒い。

だけど、体の内側は燃えるみたいに熱い。

体温が上がっているのは分かるのに、皮膚の表面はひんやりと冷え切っている。

熱くて、だけど、どうしようもなく寒い。

指先がガタガタ震えて、噛み合わない歯がカチカチと音をたてる様子はどこか滑稽で、さながらできそこないのブリキ人形のようだ。

足元はおぼつかず、コンクリートの地面を踏んでいるはずなのに、まるで泥に沈み込んでいくように思えた。

眩暈が酷い。本格的に血が足りなくなってきたのだろう。


このままではきっと道端で倒れこむことになる。少し休憩してから移動しようと周囲を見回せば、視線の先に、小さな公園が映った。

よく見れば、ベンチらしきものがある。

震える足を叱咤して、明かりが一つだけ灯る薄暗い公園にふらふらと足を踏み入れた。


背もたれも肘掛もない板を並べただけの古くて小さなベンチは、腰を降ろしただけでギシリと悲鳴を上げる。

座り込んで一息つくと、一気に体が重くなって、腕をついてはみたものの体を支えることができずに倒れこんだ。

誰かに肩を掴まれてぐらぐらと揺さぶられているような気がする。

だけど、実際は、指先一つ動かすことができない。

かろうじて動くのは視線だけだ。

目の前を蟻の行列が横切っていくけれど、それを避ける力さえ出ない。

冷たいベンチに頬を預けてぼんやりとしていれば、時々こちらの様子を伺うように立ち止まる蟻たちの小さな影の向こうに、ブランコが二つと滑り台が一つだけ見えた。


こんな寂れた公園だけれど、昼間は小さな子供たちとそれを見守る母親たちで賑わうのを知っている。

私はその様子をよく、少し離れた道の先から眺めていた。

これでタバコを買って来いと母の愛人に使いに出された、暑い夏の日。

栄養の足りていない体で汗だくになって見上げたその先に、彼らは居た。

はしゃぐ笑い声とそれを見守る優しい眼差し。その眼差しの何たるかを私は知らない。酷く眩しくて、酷く苦しくて。

幼い私は、投げ捨てられるようにして渡された小銭を、ただただ握り締めた。

ぎゅう、と引き攣れるように小さくなった心臓を、どうすれば元に戻せるか分からなかったから。


自宅からは目と鼻の先だというのに、私はこの公園に、ただの一度も足を踏み入れたことはない。

私には、ここに来る資格がないと、そう思っていたから。

親と一緒でなければ入れないような、そんな馬鹿な思い込みをしていたのだ。

だけど、本当はこんなにもあっさりと中に入ることができる。


ベンチを照らすように小さな明かりを点す街灯がパチパチと力なく瞬く。


今にも電気が切れてしまいそうだ。

そこに集まる羽虫を眺めていたら、明るくなっては暗くなる景色の向こう側に、初瀬の泣きそうな顔が浮かんでは消える。


―――――あんな顔、今までみたことない。


人の顔を覚えられない私が、この人とはっきり断言できるのは片手で数えられるほどで、初瀬はまさしくその内の一人だった。

そんな彼が同じ学校にいれば目に付くのは仕方ないことだと思う。

校内で見かける彼は、いつも笑っていた。

いつも誰かと一緒で、いつもいつも、楽しくてしょうがないって言ってるみたいに声を上げて笑っていた。

私は、あんな風に笑ったことがない。

真似してみようとしてうまくできなかったことを思い出す。

鏡に映る自分は、口元を微かに歪めただけで、声を上げて笑うどころか微笑さえうまく作れなかった。

当たり前だ。

だって、今まで生きてきて、お腹の底から笑えるようなことは何一つとしてなかったのだから。

どんな気持ちなんだろう、と思う。

どんな気持ちで笑っているんだろう、と。

他の皆は、それを知っているのかな、とか馬鹿なことを思う。

そんなことを考える自分があまりにも惨めで、強く目を閉じた。

『あはははは!』

誰のものか分からないけたたましい笑い声が耳の奥を通り過ぎていく気がした。


ああ、このまま死ぬのかな。


何度も死にそうな目にはあったけれど、こんなにもはっきりと「死」というものを感じたことはない。

指先から力が抜けていく間隔に、これから先、もう誰にも殴られたり蹴られたり虐げられることがなくなるのなら、それも良いかもしれないと思う。

死の間際には走馬灯と呼ばれるものが訪れるらしいが、どうやら私には振り返るような人生さえないようで、目を閉じてみても、やってくるのは暗闇だけだ。

それとももしかしたら、この公園を羨望の混じる目で見つめていた幼い私の記憶だけが、たったそれだけが、人生の全てなのかもしれない。


あまりの静けさに耳鳴りがする。

本当に何の音もしていないのか、それとも、私の耳が駄目になったのか分からない。

だけど、今この瞬間が一番、楽に呼吸できる気がする。

もう、痛みさえ感じないのだ。


私は、死ぬ。


「―――――おい、死んでんのか」


どっぷりと闇に沈み込むようにベンチの上で静寂を楽しんでいると、じゃりっと土を踏む音がした。

耳はまだ生きていたようだ。

鉛のように重い瞼を必死に開けると、いかにも高級そうな革靴が視界の隅に映りこむ。

それでも、顔を上げることはできなくてただ、そのつま先に視線を送り続けた。


「まだ生きてんだな」


はっきりと目を開くことができずに、いつもの半分ほどしか見えない視界の中に男の顔が映りこむ。


「動かすぞ」


返事をする前に抱き上げられて、その腕に赤ん坊みたいに乗せられた。

力が入らずに、意図せず、男の肩にもたれるような格好になる。


「軽いな」と呟くその声には聴き覚えがなかった。

そもそも、こんないかにも上流階級といった風情の男とは知り合う機会さえなかったのだから、知り合いではないだろう。

人の顔を覚えられないので断言できないが、赤の他人とみていい気がする。

母の愛人の中にも、こんな品の良い男はいなかったはずだ。

暗がりの中ではっきりとは見えなかったけれど、仕立ての良いスーツは体のラインに合わせたオーダーメイドだし、撫で付けられた髪も年齢不詳な雄雄しい顔立ちも艶が良い。

一見するとインテリ風の優男なのに、人一人抱えてよろけることもしないことから、決して華奢な体格ではないことが分かる。

私とは住む世界の違う男だ。

そんな男がなぜこんな小さな公園にいるのか分からない。

不釣合いにも程がある。


もしかしたら、とうとう、どこかに売られるのだろうか。そんな予感が胸を掠める。

処女は高く売れるとか言っていたけれど一体、いくらくらいで売れたのだろうか。

私自身にはさほどの価値があるとは思えないけれど、あの男の言う通り、穴さえあれば何でも良いという人間もいるだろう。

そんな人間に、どんな扱いを受けるかなんて想像に難くないが、今居るところとさほど変わりはないように思えた。

それとも、ここよりも酷い場所があるというのだろうか。

考えてはみたけれどもはや想像力さえ働かなかった。

それに、そんな場所に行き着くよりも私の息が絶えるほうが早い気がする。

私にはもう、動く余力さえ残っていないのだから。


「いけませんよ、坊ちゃん。元のところに戻してきてください」


男に抱えられたまま公園を横切ると、狭い入口を塞ぐようにして大きな車が横付けされているのが見えた。

こんな道幅の狭いところにどうやって入り込んだのかと思わずにいられないほどの大きな車だ。

その黒塗りの車の横に、もう一人別の男が立っていて、こちらを見つめていた。

掛けている眼鏡が暗闇の中で怪しげに光っている。


「先週も子猫を拾ってきて、奥様にお小言言われたばかりでしょう」


私を抱えている男を「坊ちゃん」と呼ぶくせに、彼はそんな坊ちゃんよりも年若く見える。


「坊ちゃん呼ぶな。いいんだよ、ババアの小言あれは趣味みたいなもんなんだから」

「ババアなんてお呼びになって。奥様にはりつけにされますよ、坊ちゃん」

「坊ちゃん呼ぶなっつーの。磔とか、本気だから笑えねえよ。お袋には黙っとけよ」

「……」

「おい」

「……」

「おい」


ぼんやりと眺めていると、私の顔をちらりと一瞥した眼鏡の男が無言で後部座席の扉を開ける。

「坊ちゃん」は躊躇することもなく、すべらかな動作で私ごと車に乗り込んだ。


車の中は何の匂いか分からないが、ふんわりとした優しい匂いが充満していた。


「和久井のじいさんに連絡しとけよ」

「はいはい」


どうやら運転席に座ったらしい眼鏡の男がおざなりに返事をする。

すぐさま運転席のほうからボソボソと話声が聞こえてきた。


「おい、お前。死ぬんじゃないぞ」


後部座席にゆったりと寝かされているが、横たわるのには狭いので男の体に半分乗りかかっている。

首筋に添えられた手がひんやりとして気持ちがいい。


「死んでも、もう庭に埋めないでくださいね」


電話が終わったのか、運転席の男がバックミラーから視線を送ってくる。


「おい、そんな猟奇的なことやんねぇよ」

「何言ってるんですか。先日、庭師が植樹の為に庭を掘ったら犬の死骸が出てきたって半泣きでしたよ」

「あー、そりゃあれだ。タロウだろ」

「タロウでもジロウでもサブロウでもいいから、庭には埋めないでください」

「元々ジロウもサブロウもいねーよ」

「せめて墓標をたてていただかないと。いくら庭が広いからって適当に埋めては困ります」

「一応、場所は選んだつもりだったんだよ。まさかそこの土を掘り返すなんて思わねぇだろ」

「まるで死体を遺棄した殺人犯のような言い分ですね」

「おい、だから、そんな猟奇的なことやんねぇよ」


軽口を叩きながら会話している二人は、どうやら主従関係であるようなのにそれ以上の仲であるようにも思える。


「坊ちゃん。最近は愛犬のための霊園というやつは珍しくありません。ちゃんと骨にして供養してあげないと祟られますよ」

「祟られるとか不穏なこと言うんじゃねぇよ。

タロウは寿命で死んだんだ。17年生きれば大往生だろう。

それに、タロウにはいつまでも傍にいて見守ってもらわないと困るんだよ」

「坊ちゃん……」


しんと静まり返った車内に、微かにエンジン音が響いている。

いつの間に走り出したのだろう。高級車は振動を感じさせないらしい。


「そんなこと言っても誤魔化されませんよ。ウサギのミミも、猫のキキもお庭に埋めたでしょう。

その子も死んだら庭に埋めるつもりなんじゃないですか?」

「だから、何で殺人犯みたいになってんだよ。埋めねーよ」

「分かりました、もういいです」

「いや、よくねーよ。何でだよ、自己完結すんなよ」


ぽんぽんと言葉を交わしながら、それでも男の指は私の頭を撫でたり、首筋の傷を気にしたりと世話しなく動いている。


「じいさんに見てもらうまでは寝るんじゃねぇぞ。しんどいだろうけど頑張れよ」


ふんわりと真綿に触れるように優しく撫でられて、思わず目を細めた。

優しくてとんでもなく甘い仕草だ。

私にとって、男の手というのは暴力を奮うため以外には作用しないはずなのに、覚えのある感触に戸惑う。この指を知っている気がした。

そんなことを思っていると、口元を綻ばせた男が観察するようにこちらを眺めているのに気づく。


「可愛いな」

ぽつりと落とされた言葉の意味が分からず、真意を測ろうとその目を見つめていれば、

「すげー可愛い」とまた、そんなことを言われる。


「変態くさいです、坊ちゃん」

「俺が変態なら、お前はど(・)変態だな」

「なるほど」

「否定しねーのかよ」

「事実をわざわざ否定する意味が分かりません」

「事実なのかよ。知りたくなかったぜ」

「何言ってるんですか。坊っちゃんと私の仲じゃないですか」

「どんな仲だよ。誤解を招く言い方するんじゃねーよ。俺とお前は今日からただの顔見知りだ」


気の抜けた言葉の応酬を続けてはいるが、私を抱えている男の目線は私の顔に固定されたままだ。


「ガラス玉みたいな目ん玉だな」

「死んでるんじゃないですか」


どこかうっとりとした口調の男に、眼鏡の男が淡々とした口調で切り返す。


「つーか、和久井のじいさんには連絡ついたのかよ」

「付きましたよ。旦那様の往診でお屋敷にいらっしゃるそうです」

「往診?どーせ将棋さしてんだろ。この前も往診に来たっていうから部屋に通せば、診療カバン忘れたとか抜かしやがって」

「あのような方ですが腕は確かですから」

「腕が確かな医者は診療カバン忘れてきたりしねぇよ。お前も相当イカレてるな」

「光栄です」

「褒めてねー」

「ははは」

「笑うとこでもねー」


二人の会話を聞くともなしに聞いていると、意識が朦朧としてくる。

全く知りもしない赤の他人に車に乗せられて、どこか分からない場所に連れていかれようとしているのに、不思議と気分は落ちついていた。

初瀬の手を掴むのは、あれほど恐ろしかったというのに、この男の手はなぜか受け入れることができる。

こちらを見つめる、真っ黒な双眸はどこまでも柔和で、だけどその奥に何か得たいの知れないものが見え隠れしているというのに。


そのとき、ふと、車内のどこかから場にそぐわない明るい音楽が鳴り出した。

男が私を見つめたまま胸ポケットからスマートフォンを取り出す。


「いい趣味ですね、坊ちゃん」

「ちげーよ、俺じゃねぇ。アイツが勝手に……」


などと言いながら画面を操作している。


「おー、俺だ」

「あ?よく聞こえねぇよ」

「今、帰ってるとこ。お前はもううちか?」

「どこも出かけるなよ、ちょっと、いやかなりイイもの拾ったから」

「いや、お前も絶対気に入るから」


「光成」


え?と、聞き覚えのある名前に、意識が上昇する。

私の顔を見て、何か勘付いたらしい男は「おや」と器用に片方の眉を上げて、次の瞬間ニヤリと笑った。

そして電話の相手には「おー」とか「あー」とか適当に返事をしている。

聞いているのか聞いていないのか、目線は私の顔を捉えたままだ。

やがて「じゃーな」と気だるげに別れを告げた。

全ての音が止んでしんと静まりかえると、男はククッと声を漏らす。


「何か企んでますか、坊ちゃん」

「おー」

「否定しないんですね」

「まーな、俺とお前の仲だからな。隠しても仕方ねぇだろ」

「ただの顔見知りですけどね」

「そうだな、お前はそういう奴だよ」


そのとき、男は愉快そうに少し顔を傾けて、


「白石、覚悟しとけよ。戦争だ」


と言いつつ、堪え切れなかったのか吹き出して笑った。


「物騒ですね。遠慮しときます」

「おいおい何言ってんだ、参謀よ」

「そんなものになった覚えはありませんが、良い響きです」

「そうだろう」

「陰謀と策略、加えて計略に暗殺は得意分野ですから」

「聞き捨てならねぇもんが混じってた気がするが、俺は気にしねぇよ。お前が何者でも」

「ふむ、さすが坊ちゃん。博愛主義でいらっしゃる」

「そうだろう、そうだろう」


「この戦争、負ける気がしねーな」


男はもう一つ笑って、私の目元を軽く撫でた。







 













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