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例えば、そんな隣人で。2

私と初瀬は、幼馴染とは名ばかりのただの隣人だ。

だけど、ただの隣人ではなかったことが一度だけある。

いや、初瀬のほうからすれば初めから今まで、特別な関係だったことなんて一度もないかもしれないが、私にとってはそうではなかった。


それは、小学校に入る前よりもずっと昔のことだ。


一体何をしたのかなんて覚えていないけれど、私は、何かの罰として家から追い出された。

追い出されたと言っても、敷地から出てはいけないことをよくよく言い聞かされていたので、狭い庭の片隅に追いやられただけなのだけど。

明け方に、眠っていたところを母の愛人に叩き起こされ、突然、庭に放られた。

数日前から我が家に居座っている男は、私を庭に追いやった後、ニヤニヤしながらぴしゃりと窓を閉め、鍵を掛けた。

勢い良くカーテンが引かれ、完全に遮断される。

かろうじて立ちすくんでいた小さな体がよろけて、むき出しの土の上に倒れこんだ。

辺りはまだ薄暗く、春先とは言え、陽が出ていない内は冬とさほど変わりないくらいに寒い。

がたがたと震えながら歩き、庭の片隅に縮こまったのを覚えている。


もしかしたら、理由なんてなかったのかもしれないと、今なら分かる。

罰だなんて言ったのはただの口実なのだろう。

ただ眠っていただけの私が目障りだったのだ。

だけど、あまりに突然すぎて、そして幼すぎたせいで、なんで、と聞くこともできなかった。

何も分からないまま庭に放り出された。

朝食も昼食も、もちろん夕食も抜きだ。

でもそんなことはもう慣れっこだったから、泣くことさえしなかった。

それに時間が過ぎれば、母と愛人の男は、私を外に出したままだったことすら忘れて遊びに出かけることを知っていた。

戸締りなんて頓着しない母のことだから、玄関か浴室の窓は開けっ放しだろう。

母がいない間に家の中に入れば良いことが分かっていたから動揺することもなかった。

だから、私がやるべきことは、ただひたすらに時間が過ぎるのを待つことだった。


手入れの行き届いていない、雑草が蔓延った庭に隠れるように座り込んで蟻の行列を眺めて時間を潰す。

別に意味があるわけではない。他に見るものがなかったからただそうしていただけだ。

殴られたり蹴られたりしない分だけ、一人で外にいるほうが安全だ。

だけど、お腹は空いていた。

自分を覆い隠すように生えている雑草を見て思う。

野菜に似ている。

あれはあまり好きではないけれど、お腹の中には貯まる。

もしかしたらこれも空腹を満たす材料にはなるかもしれない。

思わず足元の草を掴んだけれど、小さくて力のない指では、引き抜くことさえ難しいようだった。

それでもあきらめず力づくで抜こうとしていると尖った葉先が容赦なく皮膚を切り裂いていく。


「何、してるの?」


何度も繰り返しそんなことをしていると、ふとそんな声がかかった。

見上げれば、同じ年くらいの男の子がこちらを見ている。

心底不思議そうに首を傾げながら私の横にしゃがみ込んだ。


「指、ケガしてる」


返事をする前にそんなこと言われて、手を取られた。

私よりも少し大きな手だ。

上下揃えの黒い服を着た男の子はポケットから真っ白なハンカチを取り出して私の指をそっと包み込んだ。

じっとその子を観察していると、


「僕のこと知らない?隣に住んでるんだ」


と言われる。

隣に誰かが住んでいることくらいは知っていた。

城壁のように聳える高い石塀の向こうに、やはりお城のような家が建っていることも。

だけど、そこにどんな人間が住んでいるかなんて気になったことはなかった。

そもそも、家の敷地から出たことなんてほとんどなかったから。


「あ、そうだ。飴食べる?」


差し出された小さな手に綺麗な包みの飴玉が転がっていた。

母の愛人が気まぐれにくれるやつとは比べものにならないほどに可愛らしい色をしている。

思わず手に取ると、男の子は嬉しそうに笑って「食べて良いよ」と言った。


「この間から塀の立替えをしてて、あっちがまだ途中なんだ」


指をさされたほうに視線を向けると、確かに石塀の一部が崩れている。

そこを乗り越えてこちらの庭に入り込んだのだろう。


「まだあるよ。あげようか?」


きれいな包み紙を見ながら口の中で飴玉を転がしていると、更に、違う色の飴を差し出された。

こくりと肯くと、またひとつポケットの中から飴が出てくる。

テレビで見た「手品」というものに似ている。小さな手の平に並べられた色とりどりの飴玉を観察した。

もしかしたら作り物かもしれない、と警戒心を抱いていると、男の子は何のためらいもなく、私の手の平に受け渡した。


「僕、初瀬祐っていうんだ。君は?」

「・・あん」

「アン?」


そっか、よろしくね。とにこにこと笑う。

私は戸惑いながら肯いた。

落ちた視線の先で、抱えきれずに転がった飴玉が草むらの中で拾われるのを待っている。


「アンは幼稚園行ってないの?」

「ようちえん?」

「そう、幼稚園」


ヨウチエンなるものに聞き覚えがなく首を傾いでいると、それだけの仕草で、私が幼稚園に通っていないことが分かったらしく、男の子は「一緒に行ことうよ」と笑った。

続けざまに「楽しいよ」と、甘い言葉で誘ってくる。


「おともだちがいっぱいいるんだ。色んなことして遊ぶんだよ。お遊戯会とかとーっても楽しいんだ!」


男の子は、頬を紅潮させて、オユウギカイというのがどんなものか得意げに語ってみせた。

皆で一緒に歌を歌いながら踊ったり、ゲームをするんだと、それがいかに楽しいことなのかを身振り手振りも交えて語る。

楽しい、ということがよく分からない私は、男の子の勢いに押されぎみになりながら、男の子が面白可笑しく語るオユウギカイなるものに参加している自分を想像してみた。

だけど、どんなに考えてみても、自分が大勢の子供たちに紛れている姿は形としては結びつかない。

幼稚園というものを知らないのだから仕方ない。

歌なんて、歌ったこともない。

だから、ただ「行けない」とだけ答える。

なんで、と聞かれたような気がしたけれど、その答えは私も知らなかった。


「そうなんだ、寂しいねぇ」


ぽつりと落とされた言葉に、曖昧な返事を返す。

寂しい、というのがどんな気持ちなのか分からなかったから。

だけど、この男の子と一緒にいれば、その「寂しい」思いをしなくても済むのだろうかと、そんなことを思った。


「あ、そうだ。じゃあ、僕が遊びに来れば寂しくないよね?」


良いことを思いついた、と頬を紅潮させて提案してくる男の子に首を傾ぐと、「ね?」と念を押すように問われてまた一つ頷いて返事をする。

そうすれば、男の子は嬉しそうににっこりと笑った。

今度は他の子も連れてくるとか、皆で鬼ごっこをしようとか、今度は僕のお家に遊びにおいで、とか、何の気なしに誘われて、ただただ肯くことしかできない。

初めての訪問者に戸惑っていたことが大きいのだが、それ以上に、私は自分の思いを表現する言葉を知らなかった。

伝えたいことがある気がするのに、どんな風に表現すれば良いのかわからない。

男の子が十話せば、やっと一返事をするという感じだ。

けれど、男の子は不機嫌になることも飽きることもせずに私に話しかけた。


―――――――――――それから日が落ちるまで一緒に過ごした。

何をしていたのかは覚えていない。いや、むしろ何もしていなかったといえる。

ただ、二人並んで同じ時間を過ごした。

やがて、塀の向こうから「祐!」「祐!」と彼を呼ぶ声が聞こえて、男の子が「またね」と自分の家に帰って行くまで二人きりでそこに並んでいた。


言えば、たったそれだけの交流だ。

ただ、一度きりの。


結局、遊びに来ると言った約束は果たされることなく、私はその後も「寂しい」ままだったけれど、それでも、何の思惑もなく向けられた優しさが、そのひたすらな思いやりが、胸に何かを灯らせたのは事実だった。



それは多分、あの頃の私にとってはとても大切なことで、そしてそれと同時に、とても残酷なことだった。




*********************************************



あれから、初瀬祐とは小学校に入学するまで一度も会わなかった。

単に、私が家から出なかったのもあるが、きっと初瀬の両親から横槍が入ったのだろう。

隣人として、親として、隣の家に住む可哀想な子供は同情すべきものだったけれど、自分の子供とは個人的な交流を持たせたくない。きっとそういうことだったんだろう。

だけど、私はそんなこと知らなかったから、小学校の入学式で見知った顔を見かけて思わず駆け寄ったのだ。

きっとあのときと同じように優しくしてくれる。笑いかけて、一緒に行こうと言ってくれる。

そう、信じていた。


突き飛ばされるその瞬間まで。


『きたない』


嫌悪の滲んだ言葉に、胸の奥を焼かれた気がした。

悲しい、という感情をはっきりと悟った瞬間であり、かつての優しさを信じた自分を呪った瞬間でもあった。

何が何だか分からずに呆然としたまま立ちすくんでいると、


『どっかいけ』


冷たく拒絶された。

おろおろと周りを見渡せば、入学式で隣に座って自己紹介し合った女の子が、

『ねえねえ、アンちゃんのお母さんってインランなの?』と聞いてくる。

いつの間にか取り囲まれるように他の生徒たちが並んでいて、じっとこちらを見つめていた。

全身が粟立つ。

私は、その無数の冷たい目から逃げ出すようにその場を後にした。


長い廊下を走り抜けている間中、ひそひそと何事かを囁かれているのは分かった。

立ち止まって周囲を見渡せば、愛息子や愛娘の為に式へ参加していた保護者たちが眉を潜めているのも見えていた。

私を学校まで連れてきた母の愛人が、そ知らぬ顔をして彼らと一緒になって私を眺めている。

侮蔑の混じる目が私にだけ注がれていた。


何もしていない。私は、何もしていない。

ただ近づいただけだ。あの、優しい男の子に。

それだけだ。それだけなのに。

あんな目を向けられた。

あんな、冷たい目を―――――――――


だから、今度は間違えたくない。

無防備に差し出された飴に、毒が混じっていることを知ってしまったから。

受け取るべきじゃなかった。初めから受け取るべきではなかったのだ。


「近づかないで、寄ってこないで、話しかけないで」


しんと静まり返った暗い道に、私の抑揚のない機械めいた声が響いた。


「・・何?」


きっと彼は、私が遠慮してその手を取らないとでも思っていたのだろう。

怪訝そうな顔をしてこちらを覗き込んでくる。


「罪悪感なら、一人で勝手に抱えてれば良い。」


思わず、首を押さえていたタオルを初瀬に叩きつけていた。


「そんなの意味ないんだから。

だって、ここには、救えるものなんて何もないんだから」


あの小さな庭で、確かに、何かが生まれてしまった。

初瀬はただ、何となく優しくしただけだっただろう。優しくしたという認識さえなかったかもしれない。

だけど、私は、何の打算もなく向けられたその温もりに夢想した。

いつか、誰かが、あのときと同じように笑いかけてくれるかもしれないと、誰かが隣に座ってくれるかもしれないと、そんな夢を見てしまったのだ。

それがどれほど愚かなことかも知らずに。

あの、たった一度きりの邂逅で心を明け渡してしまった。


「私の、何を助けるって?」


投げつけたはずのタオルは血を吸って重たくなっている。

初瀬の元にたどり着く前に、吸い込まれるように地面に落ちた。

初瀬の目が、私から地面のタオルに移って、もう一度私を見る。

首元に目をやって、それから、限界まで目を見開いた。


「お、前、それ、早く、手当て・・!」


しどろもどろになりながら、初瀬が何かをわめいている。

だけど、さっきから耳鳴りがやまなくて、彼が何を言っているのか理解できない。


「今更、何を、考えるっていうの」


未来への願望や、希望や、羨望や、そういったものは全て、あの暗い部屋に置いてきた。

だけど、逆に言えば、あの部屋に閉じ込められるまで、私はそういったものを捨てることができなかったということだ。

何をされても何を言われても、心のどこかで思っていた。

あの日、あの小さな庭でしてくれたみたいに、誰かが飴玉をくれるんじゃないかって。

そんな期待はすぐに裏切られると分かっていても、それでも胸に抱いた何かを捨てさることができなかった。

信じていたのだ。

差し出されたあの小さな手を、馬鹿みたいに信じていた。


「あ、杏、」

「今更、どうしろっていうの」

「杏、」

「どうしてなの、どうして、」


拒絶するくらいなら、初めから手を差し伸べるべきではなかったのだ。

意図したことではないだろう。きっと私を救うために伸ばしたわけではなかったはずだ。

ただ、私がそこに座り込んでいたから話しかけただけ。

あれほどに幼かったのだ。他に意図なんてなかったはずだ。

それでも、何も知らなかった幼い私は、差し伸べられたその手にほんの僅かな希望を抱いてしまった。


もうだめだと、何度も思った。もう生きてはいけないと、いっそのこと死んだほうがマシだって、何度も思った。

だけど、あの差し出された飴玉が、あの微笑が、向こう側に落ちることを許してくれなかった。

一握の希望が、私をこちら側にかろうじて繋ぎとめていた。

だから私は、何度も何度も瀬戸際まで落とされて、そうしてはまた元の位置に戻ってきた。

再び、落とされそうになることを知りながら。

それは、ただ一度きりの絶望よりも、ずっと過酷だった。


そして今、彼はまた性懲りもなく手を伸ばそうとしている。


「杏」


初瀬が一歩近づいて、私が一歩下がる。

これが、この距離が、正しい距離だ。


「分からない?はせ君」


初めて言葉にした彼の名が、少しだけ震える。


「何、が」


「私は、助けてほしくないんだよ」


八つ当たりだと分かっている。

彼は、彼の良心を持って正しい行いをしただけだ。

だから、私がそれを責める資格などない。

傍から見れば、訳の分からない持論を展開して、一方的に喚いているのは愚かな私だ。

ちゃんと、本当は、分かっている。

初瀬がどうして私の手を振り払ったのかも。

どうして私を見ようとしなかったのかも。

それでいて、なぜ、助けようとするのかも。

理解できるのだ。

だけど、私は、


「助けてなんて、ほしくない」


はっきりと言葉にしたはずなのに、その声は、やけに弱々しく震えていた。

その瞬間、ひゅっと息を飲むような音がして、初瀬が今にも泣き出しそうな顔をして何かを言おうと口を開いたのが見えた。

けれど、その言葉を最後まで聞くことはなかった。






















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