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例えば、そんな隣人で。

「て、めえ!何やってんだよ、おらぁ!」


確かに私は自分の首を切り裂いたはずなのに、気づけば蹴飛ばされていた。

それと同時に、カランと乾いた音が響いて、フローリングに血のついたガラス片が転がる。

痛む体に呻きながら首筋に手を添えると、ぬるりとした感触に指が滑った。

けれど吹き出すほどではない。

蹴飛ばされた弾みで軌道がずれたのだろう。何も死のうと思っていたわけではないが、想像していたのと違う結果に喜べば良いのか落ち込めば良いのか分からなかった。

ただ、母の愛人に強姦されるかもしれないという状況を打破したかっただけなのだ。男に刃を向けずに自分を切りつけたのは自殺しようとしたからではなく、男を切りつけても、たいした打撃を与えることができないだろうということが分かっていたからだった。

この貧弱な体では碌な抵抗ができない。

実際、蹴飛ばされただけで、私ができることと言えば呻くことだけだった。


「ちっ、萎えちまったじゃねぇかよ。お前、ちゃんと拭いとけよ」


袋にまとめておいたガラス片をガシャン、と蹴り飛ばして、私の首からフローリングに滴る血液を一瞥すした。


「きたねーな」


吐き捨てるように言われて、足で頭を小突かれる。

その勢いで止血していない首から、またポタポタと血が落ちた。


「お前さ、死ぬなら俺と関係ないところで死ねよ。腹いせのつもりかもしれねぇけど、痛くもかゆくもねぇんだよ。ただな、俺に!迷惑かけんじゃねぇよ!!」


言っているうちに感情が高ぶってきたのが、最後らへんは怒鳴りつけるように言われた。

頭上から降ってくるがなり声が、空気の塊となって全身に投げつけられる。

物理的な攻撃ではないのに、直接こぶしをぶつけられるのと同じくらいの威力があった。

また蹴り飛ばされるかもしれないと、隠れる場所もないのに転がるようにしてリビングの隅に逃げる。

昨日今日と二日続けて痛めつけられて全身が悲鳴を上げているみたいだ。立ち上がろうとすれば腕が滑って、歩こうとすれば足が滑る。

そんな滑稽な私の逃げ様に、「ははっ」男が笑い声を上げてた。

手負いの獣でももっとマシな逃げ方をするだろう。

いや、きっと逃げ出す前に、せめて一矢報いようと牙を剥くに違いない。

それさえできない私は獣にすらなりきれないのだ。

歯向かう余力が無い。走り出す元気さえ無い。

心を失くしてしまえば、ここにあるのはただの器で、それはもはや生き物ですらない。


しばらく蹲って体を丸めていたら、勢いよく閉められた扉の音が部屋に響いて、男が外出したことを知る。

興が冷めたのだろう。


何が嬉しいのか、口笛を吹きながら鼻歌混じりにどこかへと遠ざかっていく音が聞こえている。あの調子じゃご近所にも聞こえているに違いない。

それどころか、先ほどの騒動はお隣に筒抜けだっただろう。

もはやため息すら出ず、疲れきった体を起こすと、またポタリと血が落ちた。

思ったより深く切れているようで血が止まる気配はなく、また、こんなに出血したのは初めてなので何をどうすればよいか分からない。

とりあえず洗面タオルを首に当てて薬局にでも行ってみようかと思案する。

ガーゼを当てて包帯を巻いていればある程度の止血はできるだろう。

体を引きずるようにして動かし、玄関に投げ出されていた学生鞄から財布を取り出した。小銭しか入っていないがこれで足りるだろうか。

薬局で購入できなければ少し足を伸ばして百円均一まで行かなければならない。

消毒液とガーゼくらいは買わなければと、そんなことを思いながら家を出た。



******************************************



外に出て初めて陽が暮れていることに気づき、息を落とした。

闇に紛れて、自分の姿が隠れることにほっとしたのだ。

街灯がほのかに道筋を照らすほどの明かりしかない。

首の怪我自体はタオルで隠すことができたが、それを抑えている手が血まみれなので、誰かに見咎められるかもしれないと思ったがそれも杞憂だったようだ。辺りはしんと静まり返って、人っ子一人歩いていない。

閑静な住宅街とはまさしくこのあたりのことで、立派な門構えの大きな造りの家が、隣とは充分すぎるほどの間隔を空けて並んでいる。それぞれの家の庭は呆れるほどに広く、防犯のためか外壁は見上げるほどに高い。

その中に、開いた隙間を埋めるようにしてぽつりと建っている小さな家こそが我が家である。

他の家に比べると明らかに粗末な造りで、周囲に豪邸と呼べる家が並んでいるだけに異物感が半端ない。

それでも、借家ではなく自分の持ち家であるという事実は母の自尊心を満たしているようだった。

毎日、享楽にふけってほとんど働かない母が、どういった経緯でこの家を手に入れたかは分からないが、かつての愛人からの贈り物であることは何となく想像できた。そういった話を別の男に語っていたような気もする。

母を良く思わない人たちばかりのこの街に、なぜ住み続けるのかは理解できないが、その理由の一つがこの家であることは間違いないだろう。自分のものだから手放したくないのだ。

母の愛人の中には、周囲から向けれる嫌悪と侮蔑の眼差しに嫌気が差して、この街を出ようと提案してくる男もいた。ここじゃない場所ならもっと良い暮らしができると、自分と新しい家族を築こうと、本気で母を口説いてくる男もいた。

けれど、母は頑として首を縦には振らなかった。

この家を捨てられない、と。

この家を、手放したくない、と言い放った。

男のことしか考えていないようで、その実、何も映していないがらんどうの目をしている母の目に、一瞬、はっきりと執着の色が帯びた。

それが酷く恐ろしかったのを覚えている。


「おい、」


暗い道を薬局目指してひたすら歩いていたら、ふと背後から声が掛かった。

立ち止まりかけて、この街で私に話しかけるような奇特な人はいないことに気づく。

近隣住民でなければ不審者かもしれない。

止まりかけた足を早めて道を急ぐと、後ろに強く肩を引かれた。

条件反射でその手を振り払う。

驚きと、体を貫くような痛みに思わずびくりと体が震えた。


すると、「待てって、」と今度ははっきりと男の声が響く。

そのぶっきらぼうな口調に聞き覚えがある。

何となくほっとして振り返れば、そこに睨み付けるようにして隣人が立っていた。

初瀬祐だ。

お互いを見据えるように対峙して、やっと体から緊張が抜ける。


「お前、それ、どうした・・?」


学校帰りなのだろう。学生服をきっちり着こなしている初瀬が明らかに狼狽して私の首元を指差す。

その仕草につられて抑えたタオルを見ると、さっきよりも血が滲んでいた。

よく見れば、制服にも血が飛び散っている。


「何でも」


そう返事をしたものの、他者から指摘されることにより、自分が負傷していることをはっきりと自覚した。

何だか気分が悪いような気がする。

出血による貧血だろうか。

早いところ薬局に行かなければと早々に会話を打ち切り踵を返すと、今度は腕を掴まれた。

左腕は昨日火傷を負ったところだ。朝見たときは水ぶくれになっていたが今はもっと酷い状況だろう。

掴まれた拍子に制服が皮膚をこすってかなりの激痛が走った。

「い、った!」

あまりの痛みに腕を振り払うこともできない。


「は、はなして」


呻き声を口の中で噛み殺して、かろうじて抵抗を示す。

初瀬は慌てて手を離すと「お前、腕も怪我してるのか?一体・・」

どうしたんだ、と言おうとして、きっと思い当たることがあったのだろう。

はっと息を飲んだかと思うと、ぎゅっと眉根を寄せて黙り込んでしまった。


「用がないなら行っていい?」


さっきみたいに強引に引き止められてはたまらない。きちんと許可を得ようと不本意ながらわざわざ確認をとる。


「用って、だって、それ、治療しなきゃダメだろ」

「だから、行っていい?」

「行くってどこ行くんだよ、病院開いてないだろ」

「・・どこでも良いでしょ。」

「だって、お前、行くところなんてないだろ・・」

「何でそんなことが分かるの?」

「分かるよ」

「何で」

「何でって・・、というか、そんなのどうでも良いだろ!」


明らかに苛立った様子の初瀬がほとんど怒鳴りながら距離を詰めてくる。

初瀬の声に反応して近くの家が飼っている犬が鳴きだした。

はっと息を潜めた初瀬は慌てて周囲を見回した。

私と一緒にいるところを誰にも見られたくないのだろう。


「じゃぁ、ばいばい」


そんなに周りの目が気になるのであれば、最初から声など掛けなければ良いのだ。

どうした、なんて、いかにも心配そうな顔をして、まるで私の味方みたいな顔をして、それでも他の誰かにそんな姿を見られることを恐れている。

だけど、そんなのは全て初瀬の都合で、私には全く関係のないことだ。


「あ、待てって。なぁ、俺の家来いよ。簡単な手当てぐらいなら母さんができるから」


今度は掴まれはしなかったけれど、行く道を遮るように回り込んでくる。


「いい、本当に大丈夫だから」


初瀬を避けて進もうとすればそれに合わせて相手も体を動かす。

明らかに邪魔している。


「何?」


眉間に皺を寄せて見上げれば、今度は初瀬が、


「・・大丈夫だから」


と、何に対してなのか分からないがそんなことを口にする。


「母さんもずっと心配してるし、だから、とにかく、大丈夫だから」


いかにも口下手で真面目そうな初瀬が、いっそ必死さを感じさせる声音でそんなことを言う。

初瀬のお母さんが、何かにつけて私に目をかけてくれていたことは知っている。

頻繁に夕飯を差し入れしてくれるし、道端で会えば声を掛けてくれて、子供の頃は買い物に連れ出してくれたこともあった。

そんな彼女が、私の為に、虐待の疑いがあると児童相談所に通報してくれたことも知っている。

だけど、だから、それが何だと言うのだ。

初瀬のお母さんが心配しているかといって、だから、どうだというのだ。


「とりあえず治療して、それからのことは一緒に考えよう」


それからのこと?一緒に?誰と、誰が?

初瀬が口にする言葉の意味が一つも理解できずに首を傾ぐ。

なぜいきなり、そんなにもこちら側に突っ込んでくるのか分からない。

だってそうだろう。私と初瀬の間には何もない。

幼馴染とは名ばかりの、ただの隣人だったはずだ。

何を一緒に考えるというのだろう。

考えれば考えるほど混乱していく気がして、それと同時に呼吸が速くなる。

明滅する視界の向こう側に、廊下に倒れこんだ私と走り去っていく初瀬の上履きが見えた気がした。


「杏?」


名前を呼ばれて、思わずびくりと肩が揺れる。


「やめてよ、そんな風に近寄ってこないで」


一歩、二歩、と後ずさりながら距離を取る。

怖い。

何だか、すごく怖いのだ。

理不尽な暴力よりもずっと怖い。


「何でなの、どうして、今更」


そう、今更だ。

火傷をした腕が痛い、突き飛ばされた背中が、空き瓶で殴られたわき腹が、切り裂いた首筋が、廊下に打ち付けた額が、痛くて、痛くて、どうしようもない。

だけどその痛みに耐えるより、今、その差し伸べられた手を掴むほうがもっと怖い。

だって、知っている。

私は、知っているのだ。


「ごめん。本当に、悪いと、思ってる。

今まで、知ってても何もできない自分が嫌で見て見ぬフリしてきたんだ。

それに、お前のお袋さんとか、いつも出入りしてる、あの、男たちに、仕返しされるのが怖くて、」


だけど、そんなの違うと思うから。

仕返しされたって、お前を助けるべきだった。


初瀬が、私を見据えて真摯な眼差しで告げてくる。

まるで罪を告白するように。

廊下に倒れこんだ私を見下ろして、他の子たちと一緒になって動くこともできない私を取り囲んだ彼がそんなことを言う。

だけど、彼が悪いわけではないことも分かっている。あんな状況で、助けてほしかったなんて言えない。

集団の中で勝手な行動が許されるのは、その集団のボスか、反逆者だけだ。

だから、恨んだりしていない。憎んだりもしていない。元より、期待なんかしていなかった。

ただ、

ただ、

忘れられないだけなのだ。

あのとき、顔なんて見えなかったはずなのに、こちらを見下ろす初瀬の姿が。



















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