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例えば、そんな思い出話で。

初めから病院になんて行く気はなかったので寄り道もせず真っ直ぐ家に帰ったのだが、そこで思わぬ人物に遭遇した。


母の愛人だ。


昨日出て行ったはずなのに、玄関の扉を開けると当たり前のようにそこに立っていた。

玄関の脇にあるトイレに向かっていたのだろう。ちょうど鉢合わせをするような格好になった。

知らずうちに息を呑んだ私とは違って、男はにやりと嫌な笑みを浮かべて私の腕を掴んだ。

握り締めていたはずの学生鞄が手の平からするりと抜ける。

どさり、と鈍い音がした。

玄関に母の靴はない。

昨日みたいに、図ったようなタイミングで母が部屋の奥から現れることはないだろう。


離して、そう言ったはずの言葉は声にはならなかった。


力ずくで引っ張られて、同年代の子よりもだいぶ体重の軽い私は、一瞬ふわりと浮いてから勢いよく廊下に倒れこんだ。まだ痛む背中がぎしりと悲鳴を上げる。


「あ~、ちょうど暇だったんだよな~。ほんとお前は良い玩具だなぁ。」


今にも口笛を吹き出しそうなほどに上機嫌な男がちらりとこちらに視線を落とした。

その目に、いつもとは違う色が浮かんでいる。

体格差のせいでろくな抵抗もできずに、面白いほど簡単に引きずられていく。


「今日は違う遊びでもしてみるか?ん?」


くふふ、と気味の悪い笑みを刷いた男が、おもむろに私の体を引き上げて、リビングに放り投げた。

衝撃で体のあちこちを打ち付けられ、思わず逃げを打つと、背中を踏まれた。


「っ!」


あまりの痛みに息が止まる。


「おいおい、どこ行くんだよ。今からがお楽しみだってのにさぁ。」


するりとむき出しの足を撫でられて、ぞわりと嫌な感覚が全身を走り抜けた。

思わず床に転がっていたアルコールの空き瓶を掴んで、私の顔を覗き込んでいる男に向かって投げつけた。


「ぅおっと。」


飛んでくる瓶をひょいと避けた男は、特に表情を変えることもなく、相変わらずにやにやした顔で何のためらいもなく私のおなかを蹴り上げた。

ボールみたいに、ぽんと飛んだ体が狭い室内の硬い壁に激突して止まる。


「まぁ、抵抗しないってのも萎えるけど?さすがにあれは危ないからな。

これは教育的指導ってやつ」


力を失って転がる体を再び部屋の真ん中まで引っ張ってきて、遠くに転がっていた瓶を拾い上げた。

それを何度か手の平で弄んでから、動かない私のわき腹に叩き落す。


「なあ、杏。

悲しいか?悔しいか?それとも、怒りを感じるか?

何で私だけが、って思わないか?」


痛みに呻く私に、男はまるで恋人か神父のように優しい言葉で語りかけてくる。

祈るように額を重ねてきて、


「お前の母親は最低だよな。

娘を娘と思ってない。自分の子供とさえ思ってないかもしれねえよな。

お前がいくら痛めつけられたって何とも思っちゃいなんだからよ。

まぁ、ただの女としては最高かもしれねぇけど。」

「・・・。」

「なぁ知ってるか?

あいつがさぁ、お前のこと売ろうって画策してるの。」

「・・・。」

「考えたことなかった?何で自分は手を出されないんだろうって。

この家には、アナさえあれば良いって男が大勢出入りしてたろ?」

「・・・。」

「何でだと思う?」

「・・・。」


「処女のほうが高く売れるからだよ。」


ささやくような声音で、耳が震える。


確かに、この家には昔から大勢の男が出入りしていて、その中には性別が女であれば何でも良いという男もいた。

けれど、母という極上の存在が傍にあれば、私のようなお世辞にも可愛いと言えない子供なんていないも同然で、ほんの気まぐれにいたずら程度のことをされることはあっても、本当の意味で性的な接触をされたことはなかった。

だから、昨日のようなことは本当に稀なのだ。

この男だって、本気で手を出そうと思ったわけではない。

そう。私は、今のいままで本気でそう思っていた。

 

「どうだ?母親に売られる気分ってのは?」


覗きこまれてほんの少しだけ身を引く。

近すぎる距離で、男の真っ黒な双眸に私の何の変哲もない顔が映った。


「チッ」


ぼんやりとその目を見つめ返していると、私を押さえ込んでいた男がいらだちを隠さずに立ち上がった。


「ほんと、つまんねぇな。

少しは、嘆いたりわめいたりしろよ。

それとも本当にヤリゃあ、その面も歪んだりするのかねぇ。」


その言葉通り声だけは本当につまらなさそうに、だけど、顔は笑みを貼り付けたまま、私の襟から制服のネクタイを抜き取った。

プツプツとゆっくりボタンを外していく様子は、幼い子の着替えを手伝っているかのような仕草で、いつもの乱雑な手つきとは全く違う。

その様子さえ、まるでテレビ画面の中で起こっている出来事のように傍観していた。

例えばこれが本当にドラマなら、このあたりでヒーローでも登場するのだろうか?

いいや、それもないか。

だっていつだって物語にはヒロインとその他大勢の出演者がいて、大抵の場合、ヒロインにしか助けはこない。

多くの脇役が、物語の進行上、あっさりと見捨てられていく。


「やめて。」


自分の声だというのに、酷く頼りないもののように思えた。

まるで海の底で聞いているように、くぐもってはっきりと聞こえない。


私だって、夢に見なかったわけじゃない。

初めからこんな境遇だったわけでもないし、初めから全てをあきらめていたわけでもない。


「やめてよ!」


「お、いいねぇ。それらしくなってきたじゃねぇか。

ま、俺も商品価値が下がるのは望んでねぇんだわ。だから、本番まではやんねぇよ。」


スカートの下から入り込んだ手が下着を掴んでくる。

気持ちが悪い。気持ちが悪い。

男の体を押しのけようと両手をがむしゃらに動かすけれど、貧弱なこの手では何の威力も発揮できない。

何か、何かないか。


そのとき、視界の端に、昨日ビニール袋にまとめておいたガラス片が映った。

ギリギリ手が届く。

懸命に体を伸ばすと指先が袋をかすめて、ガシャン、とガラス片同士がぶつかる音がした。

それに気づいた男が動きを止める。

手の平が傷ついた気がしたけれど、そんなことを気にしている暇はなかった。

焦った男の体が押さえつける力をほんの僅かに緩めて、片方の手で私の体を押さえつけ、もう片方の手で私の腕を掴もうと動く。

けれど、そのときはすでにガラス片を掴んでいた。


「ぁ、おい!!」


男の顔を見ながら、ガラス片を自分の首にあて、勢いよく引いた。



*********************************************




こんな家逃げ出してやると、荷物も持たずに家を出たのは中学生のとき。

とにかく家さえ出ればどうにかなると思っていた。

道端で寝ることになっても、物乞いしてでも生きていこうと思っていたのだ。


だけど、そんな無謀な計画がうまくいくはずもなく、私の逃避行はたったの一晩で終了した。

当時、私の体格は他の同級生よりも一回り以上も小さく、小学生に間違われることも少なくなかった。童顔なこともそれに拍車をかけて、案の定、小学生が深夜の街をうろついていると誰かに通報されてしまったのだ。

気づけば、いつの間にか警察官に補導され、警察署のパイプ椅子に座らされていた。


「杏!杏!良かった!捜したのよ!」


恐らく誰も迎えには来ないだろうと思っていたのに、警察署に現れた母は、涙をこぼしながら私の体を抱きしめた。

それはそれは力強く。

「良かった。本当に良かった。」と何度も呟きながら私の髪に顔を埋めて、「ありがとうございます。ありがとうございます。」と警察官に向かって何度も頭を下げた母の、大仰な動作のせいで、まるで映画かドラマのような感激的な再会シーンとなった。

私からすれば情事を終えたばかりのただの女にしかみえなかったし、まとわりつく汗の匂いは吐き気を覚えるほど酷いものだったけれど、警察官には、解れた髪と汗の滲んだ額が、いなくなった娘を必死に捜していた哀れな母親に見えたようだ。


「もうお母さんを困らせてはいけないよ。」


いつまでも抱きついたまま離れない母と、それを甘んじて受け止めている私を生暖かく見守りながら、警察官はそう言って苦笑した。

驚くことに、ちょっとしたことで口論になり娘が家出してしまったのだという、母のとってつけたような説明を鵜呑みにしたのだ。

その当事者である娘の私には、ろくに事情を聞きもせず、早く帰りなさいと背中まで押された。

あのときの、私の背中を押した大きな手は、私に暴力を奮う母の愛人の手と何ら変わりなかった。

押し出された背中が酷く痛んだ気がしたのだ。

嫌だ、と、帰りたくない、と、確かにそう口にしたはずなのに「そんなことを言ってはいけないよ。」とたしなめられて、優しいお母さんじゃないか、と訳知り顔で無視された。


私の言葉なんて、誰も聞いてくれない。


半分抱きかかえられるようにして警察署を出たのに、自動ドアから外に出た瞬間、突き飛ばされるように手を離されて、私の体はほとんど吹き飛ぶみたいに地面に転がった。

まるで汚いものでも掴んでいたみたいに自分の服で手の平を拭き取りながら、こちらに視線さえ向けずにぽつりと言われる。


「逃げられると思ったの?」


返事はしなかった。

いや、できなかったのだ。

だって結局、逃げられなかった。

もっと本気で逃げれば追いかけてこなかったのだろうか、とか、もっとうまくやって完全に姿を消せば何とかなったのだろうか、とか、そう思ってみても、私はただの子供で、お金も住む家も仕事さえなくて、できることなんて高が知れていた。

道端で野垂れ死ぬか、家で暴力に耐え続けるか、そのどちらかしか選べないことが本当は分かっていたのだ。それを認めたくなかっただけで。


「ねえ、杏。逃げるなんて、許さないからね。」


どこか遠くを見つめる母の目が、暗い色を灯している。

私もきっと、同じ目をしているんだろうと、どこかでそう思いながら帰路に着いた。


家に戻された私が一番初めに目にしたのは、リビングでタバコをふかした当時の母の愛人で、「何だ、帰ってきたのか。」と、大して興味もなさそうに薄く笑った。


その人は歴代の男たちの中でも群を抜いて穏やかな人だった。

だから、それが普通の反応といえばそうかもしれなかったけれど、暴力に慣れきった私には意外すぎるほどの対応だった。

てっきり殴られるか蹴り飛ばされるか、物に当たられるか、何かあると思っていたのだ。

けれど、何もなかった。

ただ、薄い笑みの中にもどこか残念そうな色が浮かんでいて。


今思えば、あの人は、私がこの家から逃げ出したことを知っていたのではないだろうか。

知っていて黙っていたのだろうと思う。

一時に、何人もの男と情を交わす母の、その人以外の男が暴力を奮うのを彼は知っていたようだから。


だから家に戻った私は、母のその手で痛めつけられた。


実際は暴力を奮われたわけではない。

ただ、身動きできないように縛られて閉じ込められただけだ。

それだけなのだけれど。


三日間、身動きできなかった。

分厚いカーテンの引かれた部屋で、動いているのは時計の針だけ。

時々遠くのほうで、子供がはしゃぐ声が通り過ぎていったけれど、それもただの幻聴だったかもしれない。

猿轡をされた口の端からよだれが零れて、うー、うー、唸る姿は、どんな風に見えていたのだろう。

部屋の中に私を放り込んだ母は、それはそれは楽しそうに笑っていて、その姿を眺めていた母の愛人はただ一言「酷いことするなぁ」と言った。

だけど、それだけだった。

椅子に座ったまま、新聞を片手に、まるで何でもないことのようにそう言った。


私は泣きながら、薄暗い部屋で、陽が沈む回数を数えていたけれど、心のどこかでは信じていた。

いつか、誰かが救い出してくれるのだと。

この陽が沈んだら、この陽が登ったら、私は解放されるかもしれない。そんな風に思ったのだ。

だけどそんなのは、ただの幻想でしかなかった。

食事も水も与えられず、トイレにも行けず、とうとう粗相をしてしまったとき私は全てをあきらめた。


殴られたほうがマシだと思った。

気絶するくらい殴られても、それでも私は人間だと思っていられたから。

痛みを感じ、もがいて、うめいて、抵抗することを許されていた。

それはまさしく人間らしい感覚だった。

だけど、汚物にまみれながら、ただ床に転がされただけだったあのとき、私はただの「物」になったのだ。

いや、物ですらなかったかもしれない。

時間が過ぎるのを待つだけ。ただ、呼吸をしているだけ。

同じ風景しか見えないのであれば何も見えないのと同じで、同じ音しか聞こえないのであれば何も聞こえないのと同じだった。

身動き一つできないのであれば肉体は無いも同然で、それなら私は、死んでいるのと同じだった。


人の心を完全に潰してしまうのには、たった三日で十分だったのだ。


母はそれをよく知っていた。


『ぅお!何だこれくっせぇ!』


そんな声と共に部屋から開放されたのは四日目の朝。

知らない男が扉を開けた。

もちろん私を助けようとしたわけではない。

隙間にガムテープの張られた不審な部屋があったから、と単なる好奇心で開けただけだった。

私の存在なんてすっかり忘れていたらしい母は、


『何だ、いたの』


そう言った。












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