例えば、そんな日常で。3
「じゃあ、廊下で転んだお前を助け起こそうとしていたんだな?」
殴られた頭よりも、廊下に打ち付けられた額のほうが重傷だった。
血が出ているからと、あのとき廊下で起こっていた騒ぎを収めた体育教師に連れられて、保健室までやって来た。
その先で手当てを受けながら、体育教師の事情聴取を受ける。
一体何があったのかと問われて、転んだだけと答えた私に、独自の推理を加えてあのとき廊下で起こっていた騒ぎの原因を勝手にまとめあげた。
はい、と頷く私に、推理があたって得意気な体育教師は豪快に笑いながら「ドジだなぁ」と言って「廊下は走ったら危ないんだからな」と締めくくる。
男子生徒に囲まれて蹲る女子生徒を見かけて、ただ転んだだけという主張をそのまま受け取るこの教師は、ただ単に推理力に欠けているだけで、面倒ごとを避けようという魂胆があるわけではない。
「はいこれでいいわ。でも、強く打っているみたいだから念のため病院に行って検査を受けたほうが良いわ。私から親御さんに連絡を入れましょうか?」
指先で私の額に貼られたガーゼをなぞりながら、年若い養護教諭がふわりと優しく笑う。
「大丈夫です。自分で言いますから。
だけど、できればこの後行きたいので早退してもいいですか?」
殊勝に頷きながらそう返事をすれば、自分では判断できないのか体育教師に視線を動かす養護教諭。
その視線を受けて、「担任には俺から行っておきます」と体育教師は軽く請合った。
そそくさとその場を後にする体育教師を見送ってから小さく息を吐くと、その様子を見守っていた養護教諭は、
「本当に転んだだけなの?」
と困ったような顔をして、座っている私の顔を覗き込んできた。
彼女はどうやら、体育教師のような単純な思考回路はしていないらしい。
「はい。」
はっきりと頷くと、ますます眉を下げる養護教諭。
「どんなふうに転んだら額を打ち付けるのかしら。」
単純に疑問をぶつけただけのように思えるけれど、非難されているようにも感じる。
ぼんやりとしていて受身が取れなかったと答えると「それは問題ね」と深刻そうに言われた。
首を傾ぐと、
「反射って言葉を知っているでしょう?普通は身を守るために両手が先に出るものなの。
それができなかったということは、脳に異常があるか、もしくは何かの要因で両手が動かなかった可能性が高い。」
養護教諭は微笑を浮かべたままそう答えた。
細めた目が、探るような眼差しをしている。
その目が暗に見逃す気はないと告げているが、
「あくまでも、可能性の話ですよね?」と問うと、その人は大きく嘆息した。
「どうしても言いたくないのね?」と苦笑されたけれど、答える義理はないと感じたので、わざと勢いよく立ち上がった。
これ以上ここにいると余計なことを詮索されそうだ。
荷物を取りに、一旦、教室に帰ることを告げて保健室のドアに手を掛ける。
養護教諭も本気で脳の異常を疑っているわけではなかったようで、それ以上は特に追求されなかった。
けれどどうしても言い足りなかったのか、最後に一言、
「養護教諭は、体のケアだけじゃなくて心のケアも請け負っているのよ。
何か相談事があったら遠慮なくここに来てね。」と毒のない顔で笑った。
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すでに授業の始まっている廊下はひんやりと冷え切っていて、足音がやけに響く。
『何かあったら、遠慮なく頼ってね』
そう言ってくれた人は過去にもいた。
初めは小学校のとき。
体のあざに気づいた担任が、そう言ってくれたのだ。
けれど、幼い私には、「何かあったら」という曖昧な言い回しの真意を図ることができず、ただ黙っていることしかできなかった。
そんな私を見て、「言わない」のではなく「言えない」のだと勝手に判断を下した担任は、その日の内に我が家に電話を入れた。
状況を確認するために家庭訪問をしたいのだと申し出たのだ。
それがどんなに危険なことだったかも知らずに。
母が何と答えたのかは分からないが、家に帰った私に待っていたのは母の愛人による更なる暴力だった。
意識を失うまで殴られて、真冬の、凍りつくようなベランダに一晩中放置された。
自分に何が起こっているのかよく理解できなかった私に、母は、「担任に、余計なことを言ったでしょう?」と笑った。
余計なこと、というのが何を指しているのか理解できなかった。
私はそれほど幼かったから。
けれど、担任と話をするのは良くないことだと知った。
翌日、優しい顔をした担任に声を掛けられたけれど、話をするどころか顔を見ることさえできなかった。
怖かったのだ。
この、一見、優しそうな顔をしているこの人と会話をすれば、母の愛人に打ちのめされる。
それだけが事実としてはっきりと認識できた。
担任の顔は、まるで不幸を呼び寄せる鬼か悪魔のように見えたのだ。
結局、その後、クラス替えがあるまでの約半年を担任から逃げ回った。
半年の間に何度か家庭訪問の申請があったようだが、母が頑として受け入れず、結局実現することはなかった。
そしてその後に何があったかと言えば、何も起こらなかった。
クラスが離れてしまえば、元担任も自分のクラスのことで手一杯らしく、話かけてくることさえなかった。
「あ、杏ちゃんだ。」
クラスメイトは全員すでに化学室へ移動したようで、教室には誰もおらず、置きっぱなしだった荷物はあっさりと回収できた。
堂々と早退できると、清清しい気分で歩いていると、ふと背後から声がかかった。
「早退するの?」
振り返ると、思いの他近くにたっていたその男は小さな顔を傾いだ。
頷くと、
「そうなんだぁ。じゃあ俺も帰ろっと。一緒に帰って良い?」
ニコニコしながら、返事もしていないのに横に並んでくる。
ふわふわとした赤い髪が柔らかそうな細身の男だ。
アーモンド形の大きな瞳がこちらを眺めている。
けど、よく見れば彼は手ぶらだし、このまま帰るなんてことはできないんじゃないだろうか。
「あ、荷物?大丈夫、元々何も持ってきてないから。あはは。」
特に何も言っていないのに目線から何を言いたいのか察したのか、男はカラカラと笑った。
「それにしても、来て早々、お家に帰るなんて・・杏ちゃんも悪い子だねぇ」
笑っている顔は朗らかなのに、声色に何だかぞくりとしたので一歩後ろに下がると、
「あはは、冗談、冗談。さっき保健室から出てくるの見てたから。」
さりげなく背中を押されるのと同時に、荷物を奪われる。
突然のことに何も反応できずにいると、「持ってあげる。俺、優しいからぁ」と間延びした口調で言われた。
軽い足取りでとんとんとリズムを叩くように歩くこの人に何だか既視感を覚える。
あ、この人。ミツナリって呼ばれてた人とよく一緒にいる人だ。
今更ながらに思い出して、ほんの僅かに警戒を緩めた。
やっぱり人の顔を覚えるのは苦手だ。全体的な雰囲気しか分からない。
一人で納得していると、「思い出した?」とその人は笑った。
何だか心を読まれているようだ。
「言っておくけど、俺、光成のお気に入りに手を出すほど耄碌してないから。
そこは安心しててよ。」
ふわりと優しい仕草で頭を撫でられて、こくりと頷く。
彼に悪意がないことは何となく分かる。
私に害を成そうとする人の眼差しとは明らかに違うから。
「俺、三波。ちなみに、三波は苗字だけど、下の名前は内緒~。
杏ちゃんに、うっかり下の名前なんて呼ばれちゃった日には、光成に殺されちゃうからね。」
そう言われて、よく分からないけれど肯いておく。
苗字だけ知っていれば十分だ。
あの人のことは、名前さえ知らなかったけれど。
「・・・授業は良いんですか?」
ふと思い立ち、歩きながらさっきから気になっていたことを尋ねてみれば、
「っえ・・・!」
三波は目玉を落としそうなほど、顔面いっぱいに驚きを表した。
なぜ驚いているのか分からないが、その勢いで立ち止まってしまった彼の数歩先に立つ。
いつまで待っても待っても硬直したままなので、首を傾いで返答を促すと、
「あーーーー!!ダメダメ、ダメだよ杏ちゃん。そんな可愛い顔しちゃ!
後、そんな可愛い声で光成以外に話しかけたら、ダメダメ!」
ドサッと人の荷物を投げ出して両肩を掴んできた。
そんなに強い力ではないが、結構痛い。
「あ、ごめん!痛かったよね。」
声を上げたわけでもないのに、事情を察したらしい三波が慌てて離れていく。
そして、
「ごめんね、初めて杏ちゃんの声聞いたから動揺しちゃった。
まさか、光成にはまだ話しかけてないとか、言わないよね?」
あわあわと明らかに焦っている様子の三波に問われて考えてみるのだが、いつも一方的に話しかけては去っていくあの人に声を出して返事をした記憶はない。
「私から話をしたことは、ないです。」
正直にそう答えると、三波は、今にも隕石が落ちてきそうな顔をして青冷めた。
「え!マジで?!」
嘘だろ、やばい。とか何とか言いながら数歩ずつ下がっていく三波。
何だかよく分からないが、三波の様子から、私が何かやらかしたようだと気づく。
でも、どの部分が失敗だったのかが分からない。
「あー、杏ちゃん。ごめん。やっぱり一人で帰って?
これ以上一緒にいるとまずい気がするんだ。
今度はちゃんと光成に、杏ちゃんと話しをする許可をもらうからさ。
まさか杏ちゃんが、そんな長文を話すなんて知らなかったから・・」
ん?やっぱり何を言っているかよく分からないが、畳み掛けるように言われては肯くしかない。
「本当?良かった!気をつけてね!」
ぶんぶんと振り回すように両手を握られて、左腕に走った痛みにうめき声を上げそうになる。
「・・・杏ちゃん?」
それに目ざとく気づいた三波が訝しげに眉を寄せる。
何でもない、と首を振るが、
「もしかして、腕・・怪我してる?」
三波は優しく、制服の上から左腕をなぞった。
「おかしいと思ったんだ。じゃなきゃ、あんな転び方するはずないし。」
とんとん、と自分の額を指で叩きながら、はぁと息を吐いた。
見ていたなら助けてくれれば良かったのに、と嘆くところなんだろうけど、話したこともない赤の他人がそんなことをするわけがないとちゃんと分かっている。
あの廊下にはたくさんの人がいて、その誰も私を助けようとはしなかった。
彼は、そういった集団の中にいたのだという、ただそれだけのことなのだ。
誰もが英雄や救済者になる必要はない。
「大丈夫なの?」
軽く肯くと、三波は困ったような笑みを浮かべて、
「あんな痛そうな顔をして、大丈夫だなんて、杏ちゃんはドMなのかなぁ。」
やれやれと、大げさな仕草で首を振る。
「ちゃんと病院に行きなよ?」
本当に心配してくれている様子の三波に、ただ、こくりと肯いた。
「本当は病院までついていきたいけど、我慢しとく!
杏ちゃんと会話して、病院まで着いて行ったなんて光成が知ったら・・俺、俺・・!」
「マジで殺される。あいつ本当、鬼畜だからね?分かった?!」
あまりの勢いに戦いていると、お返事は?!と勢いよく聞かれたのでとりあえず「はい」と返事をする。
あまり喋ってはいけないようなのに、返事しろだなんてやっぱりよく分からない。
三波は満面の笑みを浮かべて、先ほど落とした私の荷物を引き上げた。
いたわるように両腕を包まれて荷物を渡される。
「もう、大丈夫だからね?杏ちゃん。
みんなには、よーく言い聞かせるから!光成が!!」
脈絡のない話に、今度こそ首を傾げるのだが、「いーの、いーの」と一人で納得して三波は私の頭を優しく撫でた。
「あ、こういうのもアウトなんかな・・。」
ぼそりと何か呟いていたけれどはっきりとは聞こえなかった。
そのまま三波は溌剌とした様子で私とは逆方向に歩いていった。
教室とは違う方向だったように思うが、私が気にすることではないと思い直す。
いつもより、ずいぶんたくさんの人と面と向かって話しをしたので酷く疲れていた。
知らず、大きなため息がこぼれて、早く帰ろうと、右手でしっかりと学生鞄を握り締めた。