三波明による、昔話。4
ジャケットに忍ばせた拳銃は当然、本物だった。
いつでも撃てるように装填された銃弾は、誰かの心臓を打ち抜くために準備されたものだ。
六発装弾できるはずの拳銃であったが、シリンダーには四発しか入っていなかった。
最初からそれだけしか入っていなかったのか、それとも発砲された後なのか。
現地の警官も、迎えに行った孝仁さんも追及した。それは当然の流れだったから。
だけど、光成はただ口を噤んでいた。
警官を含め、孝仁さんも白石さんも口を割らせようとしたけれどダメだったのだ。
誰が何を言っても、光成の口を開くことはできなかった。
路地裏で発見されたときは、多少の抵抗を見せていた光成だったけれど、保護されてからはどこか空ろだったという。
その理由を、誰も知らない。
光成の小さな指が、トリガーを引くその瞬間を夢に見る。
誰かを撃ち抜いたというのであれば、弾丸が発射される反動で、小さな体は後ろに吹っ飛んだだろう。
人を殺す為の道具は、それほどの衝撃を与えるのだ。
硝煙の向こう側に光成の白い顔が見える気がした。
それは多分、孝仁さんや白石さんも同じだったかもしれない。
肉親が―――――自分の大事な人が、誰かを殺す。
大切な誰かを失うことは恐怖であるが、それと同様に、大切な人が罪を犯してしまうこともまた恐怖でしかない。
しかも、それが人殺しであれば尚更。
その罪に溺れ、その咎に追い詰められ、窒息していく様子を傍で見続けなければいけないのだ。
それは多分、己が手を汚す以上に苦しみを伴うものだろう。
そして、そうやって苦しむ罪人を許すこともまた、罪なのだ。
そんな人生に耐えられる人間など、この世に、いるのだろうか。
日本であればまだ小学校に通っている年代の少年が、拳銃の扱い方を知っていた。
それだけでも驚きだというのに、光成ははっきりと、その銃で「人間」を狙っていたと口にしたのだ。
実際に、人を殺していないにしろ、そう思わせるほどの何かがあったというのは事実だ。
日本で生活していたなら、そうはならなかっただろう。
幼少期、その天真爛漫さと無垢さで天使もかくやと言われていた光成。
俺たちは多分、あの頃の光成を忘れることができずにいたのだろう。
過酷な環境に置かれていたのだと知っていた。篠原の家が雇った人間があらゆるところから情報を集めて、孝仁さんの耳に入れていたから。俺も自然と、光成が米国でどんな生活を送っていたのか知ることとなった。
だけどそれでも、光成は光成であると信じていたかったのだ。
それは恐らく、光成を迎えに行った孝仁さんや白石さんも同じだったに違いない。
あの頃の光成を覚えていたからこそ、なりふり構わず捜しだそうとしていたのだ。それがどれほどに無謀なことであろうと。
日を追うごとに、月を追うごとに、年を跨ぐたびに、光成も俺たちも成長していく。
それを知っていたけれど、俺たちの中に存在する光成はまだ小学校に上がったばかりだった。
幼稚園児と変わりない。
小さな体に、大きなランドセルを背負って。学校までの道のりを競争しながら走った。
その姿は、どれほどの年月が経過しようと変わることがなかった。
大きくなった光成を想像してみようとしたけれど、どうしてもうまくいかなかったのだ。
篠原の家の、誰にも似ていなかったから。
例えば、孝仁さんに重ねて想像するなんてことができなかった。
だから、小学校に上がったばかりの幼い子が、外国でたった一人で生活していると思えば、それが身内であれば尚更、捜さないという選択肢はなかったのだ。
光成から手紙が届くまで、何もせずに放置していたのが不思議なほどだった。
孝仁さんの手から、光成の手紙がご当主の手に渡ったそのとき。
あの人は、手を震わせていたのだという。
死んだことにした息子から手紙が届いたときの心境というのは、どういうものだったのだろう。
結局、篠原の財力をもって光成を捜し出そうとしたのだから、本当は待っていたのかもしれない。
動き出すきっかけが欲しかったのだ。
背中を押してくれる何かが必要だった。きっと、そうだ。
そこまでして光成を捜したのはきっと、本当に、あの頃の光成を取り戻すつもりだったから。
大きな目をいつも、きらきらと輝かせていた。
白い頬を紅潮させて好奇心いっぱいに、物怖じすることもなく何事にも突っ込んでいく性分だった。
それを覚えているから。
それに、どうしようもなく焦がれるから。
本気で取り戻すつもりだったのだ。
あの頃と何一つ変わらないはずの光成を。
見つけ出せば、両手を広げて駆け寄ってくると本気で信じていた。
再会して抱き合って、辛かったな、と声を掛けて。
苦しかった、寂しかった、会いたかったと、光成が言葉にしてくれることを願っていた。
別れたときは既に小学生だったから日本語を忘れているということはないだろう。
学校で日本語を学ぶ機会はなかっただろうから単語の数は増えていないかもしれないが、孝仁さんも白石さんも英語が話せる。
意志の疎通が難しければ、こちら側が補足してやればいい。
そんな風に、思っていたのだ。
言葉の問題だけだと思っていた。
たったそれだけで、離れていた期間の空白を埋められると信じていた。
馬鹿なことに。
―――――光成を迎えに行った孝仁さんが見たのは、顔立ちこそ幼少期の面影を持つ、全くの別人だった。
いっそのこと他人だったと言われたほうが納得できたかもしれないと、後に彼は語る。
痩せていた。想像以上に、細かった。
里親の下を離れてから碌に食事をとっていないだろうと考えていたけれど、もしかしたら、それよりももっと前からまともなものを口にしていないのではないかと思えるほどに華奢だった。
父親が外国人であれば、骨格自体が日本人とは異なる。
本来なら、同年代の子よりも体格がしっかりしているはずだ。
それなのに、思わず掴んだその腕の、骨の細さに孝仁さんは柄にもなく大声で泣きそうになったのだと言った。ずっと前から、栄養の足りない生活をしていたのだろうと。そんなことが容易に想像がつくほどには、肉付きが悪かった。
『何て声を掛けるか、ずっと考えてたよ。それこそ何年も、毎日、毎日。馬鹿みてぇに思い描いてた』
日本に戻ってきた孝仁さんが、ぽつりと零した本音。
篠原の屋敷の大座敷に、たった一人座り込んで俯いていた。
連れ帰ってきた光成は早々に自室に引っ込んでしまい、出てこない。
深いため息と共に腹の底から疲れを吐き出した孝仁さんは、両手でグラスを握り締めていた。
『そうだよ、俺は多分、夢見てたんだ』
飽きるほどに想像していた再会の瞬間。
幾通りも、その瞬間を思い描いて夢にみていたに違いない。
赤の他人である、俺だってそうだった。
もしもこの先、もう一度会うことができたなら。そう思いながら生きていたのだ。
だから孝仁さんの気持ちは痛いほどよく分かった。
かける言葉を幾つも考えていたのだと、孝仁さんは遠い目をして唇を噛んだ。
その表情に滲む罪悪感を読み取れなかったわけじゃない。光成との再会は想像していた通りにはいかなかったのだろう。
そして、それをひどく悔いている。
それは未だにそうだった。
再会のときは、想像を遥かに超えて、自分がいかに無力であるかを思い知らされただけだったと。
光成の落ち窪んだ目とひび割れた唇を見て、ただ言葉を失ったのだと言った。
手が震えてどうしようもなくなって、抱きしめようとして躊躇ったのだと大きく息を吐き出した。
冷静に、冷静に。そんな風に何度も己に言い聞かせて、そして、選んだ言葉は。
隠していた拳銃で何をしようとしていたのかと、そんな、事情聴取でもするかのような問いかけだった。
既に、他の人間が口にしていたのと同じ言葉だ。
『自分のことを、クソみたいに思った』
こちらを見上げた光成の幼い顔を思い出すのだと、孝仁さんは言った。
大きな瞳がゆらゆらと揺れて、そして瞼の裏に消えたのだと。
再びこちらを見据えた光成の顔は、剣を帯びていて。
まるで天敵でも見るかのような顔をしていたようだ。
たった数分の出来事だった。
それだけの時間で、光成からの信頼を失った。
孝仁さんはそのとき、ただ己の愚かさに途方に暮れたのだと、まるで罪でも告白するかのように言葉を搾り出した。
篠原の人間は、その血筋のせいか幼少期から何かに秀でていて頭脳も明晰だ。
だから、己のことを他人と比較して劣っていると感じることもないはずだ。そんなことを思う機会もないだろう。
そんな孝仁さんが、まるで自身を憎んでいるような顔をした。
『あのときの自分を、殴ってやりてぇよ』
拳を震わせた孝仁さんは、何かを打ち消そうとするかのように握っていたグラスを漆喰の壁に投げつける。
ゴン、と鈍い音をたてて畳の床に転がったグラスは、僅かにひび割れただけだったけれど。
その歪に入ったひびがまさしく、俺たちと光成の間に横たわった無色の境界線のように思えた。
俺は、光成と孝仁さんの再会を見ていたわけじゃない。
だから、何があったのか正確には分からない。
光成がこの国を去ったときも、そしてこの国に戻ってきたときも、俺は完全に部外者であり傍観者だったから。
いくら孝仁さんが、俺のことを弟だって言ってくれても、赤の他人であることに変わりはない。
特に、血の繋がりに重きを置くこの国では。
俺は、この件に関しての関係者にすらなれなかった。
そんなただの赤の他人でしかない俺に手紙を送ってきた光成。
たった一言「かえりたい」とだけ記していたその心情を、俺たちはどこまで理解していたのだろうか。
きっと本当は、「助けて」と、「迎えに来て」と、言いたかったに違いないのだ。
だけど、光成にそれを言わせない「何か」があった。
本音を隠して、たった一つだけの願いを書き記したのだ。
選んで選んで選び抜いたたった一言が、ただの願いであったことにどんな意味があったのだろう。
*
「お前の言葉を、何度も、思い出してたよ」光成はそう言った。
それは光成が帰国してから数年が経過した頃だった。
篠原の家に戻ってしばらくは、日本語を忘れてしまったかのように口を閉ざしていた光成。
肯いたり首を振ったりするから、他人の言ったことを理解していないというわけではなさそうだった。
しかし、日本語を口にすることは拒んでいた。
その姿はまるで、篠原の家そのものを拒んでいるようで。
ご当主はただひたすらに困惑して、そしてやはり口を噤むことを選んだ。
仕事で忙しくしている孝仁さんは、何とか光成の心を開こうと懸命に話しかけていたけれど上手くはいかなかった。
視線さえ合わせることもなく、だけど、決して俯かない光成。
真っ直ぐにどこかを見つめるその視線は、どこか暗く歪んでいた。
今でも時々、そんな眼差しをしていることがある。だから俺は、あの頃の光成を何度も何度も思い出す。
帰国子女として俺の通う中学校に転校してきた光成は、その類稀な容貌から否応なしに周囲の注目を集めていた。転校生としては、非常に中途半端な時期にやってきたのも注目を集める理由の一つだ。
米国から戻ってすぐの光成は、手がつけられないほどに凶暴で。
手負いの獣そのものだった。
何とかコミュニケーションをとろうとした孝仁さんの腕に噛み付いたのもその頃だ。
あのやせ細った肉体のどこに、そんな力を秘めていたのか。
肉を抉られたその腕は、今でも皮膚の一部が変色している。後少しで神経をやられていただろうと見解を示すのは篠原お抱えの老医師だ。
とにかく、何もかもを拒絶して歯をむき出しにする光成は、本当に帰国を望んでいたのかも疑わしいほどだった。
そしてそれに関して一番過剰に反応したのはやはり、篠原のご当主夫妻だったと思う。
「……アメリカに帰るか?」
それまではほとんど無関心を貫いていた……いや、無関心を装っていたご当主が視線を逸らしながら言った一言に光成は一体、何を思ったのだろうか。
俺は、光成の心を読めるわけじゃないから、はっきりとそれを理解していたわけではない。
ただ、積み上げていたものがガラガラと崩れていくような、そんな既視感に襲われた。
はっきりと、何かが壊れたのだと、そう感じたのだ。
一度目を伏せた光成が、「いいえ」とはっきり口にしたのを覚えている。
それが日本語だということに気付いたご当主がほんの僅かに口元を緩めたことさえ、はっきりと思い出すことができた。
だから、そのときの光成が、琥珀色の瞳に暗い色を浮かべたことを見逃すことはなかった。
あのとき、光成の中を占めたのはどんな想いであったのだろうか。
光成はその日以降、それまで反抗的だったのが嘘のように大人しくなった。
頑なに拒んでいた日本語の勉強も熱心に取り組み、篠原の人間が話しかけても無視することはなくなった。
人が変わるというのはまさしくあのときのことを言うのだと思う。
まるで、幼少期の光成が戻ってきたようだった。
けれど、孝仁さんだけは「……あれは、良くない」と言葉を噛み潰すようして言った。
それを見た白石さんがどこか心配そうな顔をしていたのも、何か理由があったのだろう。
そして、彼らの懸念通り。
光成はある日突然、大きく変貌した。それも悪い方へと。
転がり堕ちていくのとは少し違う。
だって光成は、最初から高いところになんて立っていなかった。
口元まで沈んだ水中で、ただひたすらに地面を求めてもがくみたいに、かろうじて両足を踏みしめていたのだ。大きな波がくればあっけなく沈んでしまいそうなほどの水位で、それでも、必死に息を繋いでいた。
ご当主の「アメリカに帰るか」という言葉は多分、一つ目の大きな波だったのではないだろうか。
あのとき、光成は、水に沈んでしまったのだ。
息を吸い込むことができなくなり、呼吸が止まった。恐らく、そういうことだ。
だって、光成は米国から日本へ「帰りたい」と意志を表明した。
それはつまり、米国は光成にとって帰る場所ではないということだ。
あそこは一時的にその身を拘束されていただけの場所であり、故郷などではない。少なくとも光成はそう思っていたはずだ。
だから当然、「アメリカに帰る」などという選択肢はない。
それなのに、
それなのに―――――。
赤の他人である俺さえ、それが分かるのに、身近な人間ほど光成の心情が見えなくなるようだった。
誰もが手を差し伸べて、助け出そうとしていたのは分かっている。
光成がどんな環境で育ったのかを知っているからこそ。
拳銃を隠し持っていなければ、そんなものを頼りしなければ生き抜くことができない場所に居たのだということを聞いていたからこそ。
周囲の人間が、不安定な光成を見守ろうとしていたのも、分かっている。
だけど多分、誰もが急ぎすぎたのだ。
光成の、潰れた心が再生するのを待つことができなかった。
「早く立ち直れ」とか、「いつまでそうしているのか」とか、誰もそんなことは言わなかったけれど、それが結果的に、重圧を与えることになったのだ。
誰か一人でも、それを口にしていたなら、光成にも反論する機会があっただろうに。
ただ「見守る」という形になったことが、あの小さな少年を追い詰めた。




