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三波明による、昔話。3

何があったのか詳細を知っているわけではない。

ただ一つだけはっきりとしていることがあった。


―――――光成は、実の父親に捨てられてしまったのだ。


米国に着いた早々、あの金髪の男は光成を自分の実家に置き去りにして姿を消した。

はじめからそうするつもりだったのか。それとも唐突に思い立ったのか。

日本に居た頃の献身ぶりからは全く想像もできないほど冷徹に、あるいは冷酷に、自分の息子を捨てたのだった。

その光景を目にしたわけではないし、目撃者も居ないのだから全ては想像に過ぎないが、父親の足に縋りつく小さな光成の姿が見える気がした。

「どこに行くの」「どうして行くの」「置いていかないで」と泣きながら、顔をぐしゃぐしゃにする様子が頭を過ぎる。まるで、その場に居たかのようにはっきりと。

あの琥珀色の瞳いっぱいに涙を浮かべて、紅潮した頬にいくもの涙を落としたのだろう。

小さな口で、それでも大きな声で父親に「行かないで」と言ったに違いない。

同意だったとはいえ、知らない場所に連れて行かれて、知らない人間に引き合わされ、置き去りにされるというのはどれほどの恐怖だっただろうか。

せめて日本であれば、光成の置かれた状況に気付く人間が居たかもしれない。

言葉が通じる場所であったなら、きっと逃げ場もあっただろう。

誰かに助けを求めて、篠原の家に帰って来ることだってできたはずだ。

だけど、当時の光成には助けを求めるための手段が何一つなかった。

光成が幼すぎたのも、逃げ道を失くした要因の一つだと言える。

大人のように筋道をたてて物事を考えることができないから、何をどうすればいいのか分からない。

助けを求める言葉を、誰かに教えてもらうことさえできなかったのだ。

言葉を知らないから。自分の声を聞こうとする人間は居ないから。

身振り手振りで伝えることもできなかった。

俺と光成は同じ人間ではないから、当然、考えていることは違う。発する言葉も、行いも、何もかも異なる。だけど、伊達に赤ん坊の頃から一緒に居たわけではない。

相手の考えていることくらいは何となく、分かる。


幼い光成には予想もできなかったに違いない。

まさか、父親が、自分を捨てるなんていうことは。


光成の実の父親が逃亡の旅に持ち出したのは、篠原の家から出された光成のための養育費だった。

そのお金は、篠原の当主が用意したものだ。ほかに、そんなものを用意できる人間など居ない。

光成が旅立つ前、ご当主は異様なほどに屋敷から距離を置いていた。深夜を過ぎて帰ってくることはザラで何日も帰らないことさえあったのだ。

きっと、自宅に帰ったときに光成と顔を合わせるのが怖かったのだろう。あれほどに豪胆な人であるのに、息子に対してはひどく臆病だった。

だからこそ、光成という愛息子を手離すための準備期間が必要だったのかもしれない。

距離を置くことで、別れに対する心構えができると信じていたのか。


実際は、いくら距離を置こうとも、どれほどの時間をかけようとも、愛する人を失う準備なんてできるはずもないのに。


そして、その一方で、光成のために何ができるのか考えていたのだ。

自分の手から完全に離れてしまった後、それでも光成を守れる手段を用意しておきたかったのだろう。

あの金髪の男は、お金に困っているように見えなかった。それこそが目くらましだったのかもしれないが、高そうな時計をしていたと記憶している。遠い記憶ではあるが、着ていたものも清潔だったと思う。

更に、その柔和な相貌だけを見れば、到底悪い人間には見えなかった。

誰だってよく知りもしない人間を、いきなり「悪人」と決め付けることはないはずだ。

篠原のご当主だって、そうだろう。

いくら人間を見る目に長けているとしても、あの男がまさか光成を捨てるなんてことは分からなかったはずだ。

だからこそ、光成を任せたのだろうから。

当然、外部に調査もさせただろうし、それなりの根拠があって信用したのだ。

けれどまさか、お金を持ち逃げされるとは考えなかった。それが、全てだ。

考えが足りなかったといわれればそれまでだが、ご当主の気持ちは分かる気がした。


だって、光成の父親なのだ。

血を分けた、親である。


悪い人間であるはずがないと、思い込んでいた。

いや、そうであると信じたかったというほうが正しいかもしれない。

血縁関係のことを抜きにしても、単純に、光成があれほど懐くのだからいい人なのだろうという思い入れもあった。

その時点で、全てが偏った方向に流れていたのに誰もそれに気付かなかったのだ。

地面に膝を付き、額を土にこすり付けて「ミツナリを返してください」と泣いたその姿に、その後の裏切りを予想できる人間なんて居ただろうか。

もしも居たとしたら、それは光成の実の母親だけだ。

愛した人の子供を産んだのだろうに、絶対にその名を明かさなかったという彼女。

せめてその男がどういう人間なのか言い置いてくれればよかったものを。

結局、彼女も自分のことだけを考えて死んだのだ。

愛する男との思い出を穢したくなかったのか、それとも思い出したくもないほどに憎んでいたのか。

墓の中に居る彼女を問い詰める術はないけれど、光成の幸福を願うなら、言い含めておくべきだった。


実の父親が迎えに来たとしても、絶対に、その手を掴んではならないと。

たった一言。それだけ言い置いてくれたなら、光成は日本に残っただろうに。

だけど、彼女を含めて誰もが肝心な一言を口にしなかった。


*


―――――あの日、遠い異国の地から俺宛に手紙が届けた光成。


自分の家に手紙を送らなかったのはなぜなのだろうかとずっと考えていた。

孝仁さんも『何で三波宛なんだ』と憤っていたくらいだから、誰もがそう思ったに違いない。

光成にそれを聞いたのは、高校に入る前のことだ。

光成が日本へ帰って来てから実に2年が経過していた。

聞かなかったのではなく、聞けなかった。聞いていいことなのかどうか分からなかったのだ。

篠原の家ではなく、わざわざ俺を選んだその理由に、意味がなかったとは思えない。

だけど、それを追及するのは憚られた。

そこに隠された真意を知らされるのが怖かったのだ。


けれど光成の反応はあっさりしたもので。


『ただ単に自分の家の住所が分からなかったから』と、何の感情も乗らない声音で言った。

単純明快だ。

だけど、それならなぜ俺の家の住所は覚えていたのだろうか。

他人の住所なんてそれほど簡単には覚えられないはずだ。

首を傾いだ俺を見て、光成は薄く笑った。「昔お前に葉書を送ったことがあるから」と。


『覚えてないか?ガキの頃、国語の授業でやったやつ』


言われて初めて思い出し、ああ、たしかそんなこともあったと自室の引き出しを探ってみる。

黄ばみを帯びているのはそれだけの年月が経過しているからで、字が滲んでいるのはその葉書を見ながら泣いたことがあるからだった。

光成が居なくなってすぐの頃は、よくそれを見ていた。


またあした、あそぼうね。


小さな葉書からはみ出すほどの大きな字。

緑と赤のクレヨンで楽しげに踊るいびつな文字は、見ているだけで心を和ませる。

国語の授業で葉書の書き方を習い、「仲のいいお友達に送りましょうね」と担任が宿題を出した。

だから、俺と光成はお互いに葉書を出し合うことにしたのだ。

自分が何を書いたかは覚えていない。だけど確かに光成の家に届けた。

孝仁さんが「お前はもうちっと字の練習をしろ」と苦笑していたから間違いない。

光成の手紙が届いたのは、光成が実の父親と日本を発った後だった。

なぜ、その日だったのか。

意味があったのか偶々だったのか俺は知らない。

ただ、もう会わないと分かっているのに「また明日」と書くような光成ではないと知っているから。

もしかしたら、この葉書を書いたときは父親に着いていくつもりがなかったのかもしれないと思った。

ぎりぎりまで悩んでいたのだろうか。最後まで決心できなかったのかもしれない。


あの葉書がもっと前に届いていたなら。

俺は何が何でも光成を止めただろう。泣いて縋って大声で泣き喚いて、ぶん殴ってでも行かせなかった。

そう思うから、いつからか葉書を見なくなったのだ。

辛かった。どうしようもなく、悲しかった。

年月をかけて平静を取り戻していく篠原の家を尻目に、どうしても光成を忘れることができない自分も嫌で。何とかして、忘れようと足掻いた。


だけど何もかも全て、過ぎ去ってしまったことだ。どれほど望んだって、今更、変えようがない。



「光成は、こっちではいかにもダブルって顔してるだろ。まぁどっちかって言うと外国人寄りだな」


孝仁さんはぼんやりと庭を眺めながら言った。

スーツのまま縁台に腰掛けて、片手には赤い酒の入っているグラスを持っている。

整えられていたはずの髪がほんの僅かに乱れているのは、自分でかき回したからだろう。

仕事を終えて屋敷に帰ってきた孝仁さんは、まず、自分の髪を崩す。どうやらきっちりしているのが性に合わないらしい。

「これはなかなか旨いな」と、屋敷の料理人が用意した酒のつまみを箸でつついている。

洋酒に塩辛という選択が、変わり者の孝仁さんらしいと思う。

時々、こうやって縁台で酒盛りをしているのだ。大抵、白石さんが傍に居るが今日は一人きりだった。


名前も知らない虫がジンジンジリジリと鳴いている。人によってはいいだと笑うだろう。

だけど、俺は全然好きじゃない。ただうるさいだけだ。

そんなことを思いつつ、何となく耳を澄ましていれば。

「向こうでどうだったか知らないけどな、アジア人に分類されてたかもしれないな」と、孝仁さんは小さく笑った。

本当に可笑しくて笑っているわけではない。嘲笑といった類のものかもしれなかった。

それが何を意味しているのか分からず、ただ首を傾ぐ。


「人種間の軋轢っつーのは、どこの国でもあるもんだと思うぜ。大なり小なりな」


仕事から帰ってきたばかりなのかネクタイを緩めながら孝仁さんは器用に片方の眉を上げる。

相貌は疲れきっているのに、くだびれたように見えないのは容姿が整っているからなのか。

それとも、纏っているいかにも高級そうなスーツが成せる技なのか。

「……あの頃、俺はなんで中坊だったのかって思うよ」

孝仁さんは、ぽつりと零して中庭に視線を向けた。

広い庭の片隅で、光成の洋服が燃やされたのはもう随分前のことになる。

鬱蒼とした雑木林の向こうに煙が流れていくのを眺めていたあの日、光成はもう二度と戻ってこないのだと思い知った。

孝仁さんが、大きな声で何かに縋っている様子を見せたのは後にも先にもあのときだけだ。

彼は自分のことを博愛主義だというが、元々、愛情深い人間なのだろう。

本当は、たった一つのものに過分な愛情を傾けてしまうから、そうならないように全てのものに均等に愛を振り分けているのだ。そんな風に見える。

篠原の当主夫妻に育てられた人だ。それも当然だと言えた。

光成は、自分が篠原の養子だということを知らなかったけれど、孝仁さんは知っていたはずだ。

光成が篠原の屋敷に来た当初は小学校の高学年だったはずだから。もうごまかしのきかない年頃でもある。

ある日突然現れた光成という存在い戸惑ったりしなかったのだろうか。

いや、それよりも。

この人なら、ひたすらに喜びそうだ。

弟ができたと満面の笑みを浮かべて、可愛いと言って何の躊躇いもなく抱き上げたのだろう。

俺のことさえも、昔は弟だと公言していたくらいだ。


「……だから、もっと早く大人になりたかったんですか?」


問えば、孝仁さんは庭に向けていた目をちらりとこちらにやって「まぁな」と言った。

「ガキのやれることには限界があるからな」とも続ける。

光成が篠原を去って数年後、大学へ進学した孝仁さんは在学中にご当主の秘書となり仕事のノウハウを学んだ。周囲は、卒業してからでも構わないのではないかと反対したのが孝仁さんは受け入れなかった。

それには、少しでも早く社会人になりたいという焦燥さえ感じられた。


孝仁さんはきっと、光成を迎えに行くつもりだったのだろう。


連絡を絶ってから数年、既に居場所も定かではなかったというのに、捜しだすつもりだったのだ。

だけど、学生のできることはそう多くない。手を貸してくれるような人脈があったとしても、学生という身分ではどうしても信用を得られない。

親に庇護されている存在だという印象が強いからだ。

学生をしながら、ご当主から仕事を学び、そして光成に関する情報を得ようと奔走していた。

だからこそ一刻も早く、大人になって光成を見つけ出そうとしていたのだ。


「だが、それこそ馬鹿だったと思うよ。もっと形振り構わず、光成を捜せばよかった」


グラスに注いだ酒に視線を落としながら、ふうと息をつく。

孝仁さんの言っていることは分かるが、それこそ無理な話だ。

今でこそ、篠原グループの人間を意のままに操れる孝仁さんではあるが当時はそうじゃなかった。

篠原の嫡男だという、ただそれだけで誰もが手を差し伸べてくれるような甘い世界ではなかったのだ。

一刻も早く実力を示す必要があった。だから、休みを返上して深夜も遅くまで仕事していたようだ。

学生との両立は疲労を伴うものだっただろう。遊ぶ暇などなかったはずだ。

孝仁さんは、光成を失ったあのときから、一切余所見をせずがむしゃらに努力し続けてきた。


―――――そうやって下準備を重ねているときだ。光成から手紙が届いたのは。


差出人の名も住所もなかったから、捜しだすのには相当骨が折れたようだ。

現地の人間にも協力してもらったが、光成は既にあの男の実家から出ていたので情報一つ掴むにも様々な伝手を必要とした。だから、人から人へと情報が伝わる中で錯綜してしまい、現地に向かってみて無駄足を踏むことも多かった。

調査したところによれば、実の父親の実家に預けられた光成はそれから程なくして施設に入っている。

光成の祖母が、病で倒れたのだ。

親戚も知り合いも近くには居なかったので、やむなく施設に入ることになった。

それからしばらくして里子に出されたようだ。

光成の父親は相変わらず行方不明で、あまりの情報の少なさに、恐らく死んでいるのだろうと結論付けられた。人は、何の痕跡も残さずに生きていくことはできないのだから。

莫大なお金を持ち逃げした割りには小物だったので、使い道を間違ったのだろう。

何の努力もせずに他人から得たお金だ。遣いどころを間違えば、そういう目に合うのは分かっていた。

気付かなかったのは本人だけだろう。つまり、何かの事件に巻き込まれた可能性が高かった。

しかし、光成の父親のことなどもはやどうでも良かったのだ。

彼を見つけたからと言って光成を捜し出せるわけでもない。

ここはプロに任せるのが一番だろうとお金に糸目をかけず、使える人脈は全て使った。


それでも光成を保護するまでに1年近くを要したのだ。


日本に居てはまず、名前を聞くこともないような土地で。

光成は路地裏に潜んでいた。

見つけられたのがまさに、奇跡と言っていい。

里親の下を逃げ出して、既に数週間が経過していたという。

ちょうど光成と同じくらいの年代の子が居るという目撃情報があった。

光成に関する情報の少なさに、現地の人間が「打つ手なし」と判断し捜索の範囲を狭めたそのとき。

光成は突如として、捜索隊の前に姿を現した。

米国を転々としていたはずの光成が、最終的に実の父親の実家近くにまで戻ってきていたのは何の因果なのか。

幼稚園に通っていたときの写真しかなかったため、確証はなかったらしいが日本語で話しかければ相違なく正しい反応を示した。米国で捜索願いの出されている日本人なんてそう多くは無い。しかも、少年だ。

年代からしても間違いないだろうということで、ひとまず、篠原の人間に引き合わせることとなったのだ。


迎えに行ったのは、孝仁さんだ。


当初、光成との面会を打診されたのはご当主だったけれど、あの人はやっぱり拒否した。

光成に関してのみ、どこまでも意気地なしになる。ほんの一時とは言え、父親だったというのに。

光成かもしれないと期待して違ったときの絶望に耐えられないからと、その重大な役を息子に託したのだ。

旅立つ孝仁さんにそれとなく「怖くないのか」と問うてみれば、

「知らないほうが、ずっとこえーよ」と軽口でも叩くみたいに笑った。

実際、その指先が細かく震えていたのを覚えている。

やっと、光成を見つけたというのに。

喜びよりも戸惑いとか恐怖とか、不安とか、そういうものの方が大きかった。

それはきっと、孝仁さんだけではなく。俺も同じだった。

あのとき、光成が生きていたという情報を耳にした全ての人間が同じ反応を示した。


だけど孝仁さんは言ったのだ。

どうしようもない絶望に直面するよりも、知らないままで過ごすほうがずっと怖いと。

そうして向かった異国の地で、光成と孝仁さんは再会を果たしたのだ。


「光成様は、ジャケットの内側に拳銃を隠し持ってたんですよ」と、明かしてくれたのは白石さんだった。

米国に向かう孝仁さんに同行して、現地の警官に話しを聞いたのだという。

どこで手に入れたのかと問えば、ゴミ箱の中から拾ったと言う。

本当かどうかは分からないが、そういうことが有り得る場所だった。銃声が響くのは日常茶飯事。

人が一人撃ち殺されてやっと新聞には掲載されるけれどトップニュースではない。そんな土地だ。

日本に居ては、まず経験することはないだろう劣悪な環境。


その拳銃で何をするつもりだったのかと聞けば、光成は流暢な英語で答えたそうだ。


人を殺す以外に、どんな用途があるのか。と。












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