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三波明による、昔話。2

『光成は、死んだ』


屋敷に勤める使用人を全員集めて、ご当主はそう言った。

白髪の交じった黒髪を後ろに撫でつけているその人は、屋敷の中では大体着流しを召している。

体格も良く、組んだ腕は筋張っていて太い。周囲を見据える眼差しは鋭く肉食獣という感じだ。

広い座敷の上座で胡坐をかくその姿は、まさに一国の城主。

篠原グループを率いるのに相応しい容貌をしていた。


その人の顔を見ること自体久しぶりだったが、相変わらず一目見たら忘れられないほど威厳に溢れている。

けれど、光成を目にすればいつだって口元を綻ばせていたのだ。

「早苗には言うんじゃないぞ」と、胸元に忍ばせていたお菓子を与えて、抱き上げていた。

いつも光成の傍に居た俺も、ついでみたいに撫でてくれて。

お前らは本当に仲がいいなと、大きく笑った。

それが日常だった。

優しい人だ。息子の為に、いつだって駄菓子を用意しているくらいには。

少なくとも、光成が居なくなるまではそう認識していた。

溺愛していた息子を失い、ご当主は変わってしまったのだと思う。

顔を合わせれば柔和に細められていた双眸が、いつからか暗い色を帯びて、日増しに鋭くなっていく。

まだ子供だった自分がそれを認識するくらいには顕著だった。


「光成は死んだ。葬式はしない。以上だ」


淡々と告げられた言葉が、宙に浮く。

誰一人として、その言葉を正しく理解できなかったに違いない。


部屋の隅からそれを眺めていた俺は、テレビでも見ているかのような心地でぼんやりとしていた。

すべてはガラス越しの出来事だ。現実味など、ない。

これを喜劇といわずして、何と言うのか。

ご当主の前には側近中の側近が数名並んでいるが、ご当主と対面しているわけではなく、部屋の隅に一列に並んでいる。

ちょうどお互いの顔を見合わせるような格好だ。

部屋の真ん中には何も置かれておらず、誰が通るのか、まるで花道か何かかのように開け放たれている。

テレビドラマか映画で見た、極道の会合に似ているかもしれないと暢気にそんなことを思った。

側近ではないけれど、それでも篠原では高い地位に居ると思われる人間も集められたようだが発言を許されていないらしい。

側近とは離れた位置に、当主と対面するような形でずらりと並んでいる。

俺は更に、その後ろに居た。

隅の隅のほうに、まるで座敷童子か何かのように正座している。

広すぎる座敷の隅でちょうど影になっているので注視しなければ誰にも分からないだろう。

本来なら、ただの小学生だった俺なんかが同席することなど有り得ない。

許されたのは、早苗さんがそう望んだからだ。

「貴方も、聞いておいたほうがいいと思うの」と普段と変わらない声音で言ったから。

何事かも知らされず、その場に居ることを強いられた。

その早苗さんは、ご当主の斜め後ろに控えて能面のような顔を晒している。


―――――それは、光成が米国に発ってから一週間後のことだった。


光成のことを天使と呼ぶ人間は多かったけれど、揶揄してそう言っていたわけではないのだと実感し始めたとき。

ご当主は、篠原の人間に光成の死を告げた。

その場に居た全員がその言葉を疑っていたけれど、有無を言わせない威圧にただ息を呑んだのだ。

早苗さんはきっとご当主が何を言い出すのか知っていたのだろう。ただただ無表情に室内を眺めていただけだった。

まるで、本当に光成が死んでしまったかのような。そんな静けさだった。

案の定、孝仁さんはその場に居なかったので異論を唱える人間もいない。

あえて、孝仁さんが不在のときを狙ってこの会合を開いたのだと思えた。

光成の突然の旅立ちに打ちのめされたその人は、空港で弟を見送った後、その足で寮へと帰ってしまい、それから屋敷には顔を出していない。

空港で、光成を見送って。弟にさよならさえも口にできなかった孝仁さんは、

『あんたらには、失望したよ』と、両親に言い放った。


篠原で何が起こっていたのかも知らなかっただろうに、孝仁さんは全て承知しているような顔をしていた。

光成が何を思い、どうしてああいう結末に至ったのかをきちんと理解していたのだ。

だからこそ、己の両親がどんな過ちを犯したのか手に取るように分かったのだろう。

結局、光成の手を離してしまったことがすべての始まりであり終わりであったに違いない。

そして凝りもせず、また過ちを犯そうとしている。


ただの小学生だった俺にも、これがとんでもない嘘だということは分かった。

光成は死んでない。異国の地で実の父親と生きている。

それを知っている。

だけど、篠原のご当主夫妻はそれを受け入れることができなかったのだろう。

恐らく、二度と戻ってこないだろうことを知っていたのだ。

実の父親に引き渡すというのはそういうことだった。

せめて日本国内であれば手の打ちようがあったのかもしれないが、海を渡ってしまえばどうしようもない。後を追うこともできないし、さり気無く接近するなんて夢のまた夢だ。

それならば、いっそ。そう思ったに違いない。

ほんの少しでも希望を残していたくなかったのだろう。

戻ってくるかもしれないと、そんな期待をしたくなかったのかもしれない。

だから、光成は死んだと思い込むことで見切りをつけようとしていたのだ。

深い悲しみと一刻も早く決別する為に。

光成は死んだことにして篠原の歴史からも消し去ろうとしていた。


だから、しんと静まり返った室内に落ちた「光成は死んだ」という言葉に全員が肯いた。

それを受け入れたのだ。


なんで、と呟いた俺の疑問に答える人間はいなかった。


*

*


光成が居るときは毎日遊びに行っていた篠原の屋敷にもめっきり顔を出さなくなっていた。

それでも月に一度は顔を出すように言われたので、しぶしぶそれに従った。

早苗さんがそれを望んだからだ。

己の息子のことは死んだことにしたくせに、それでもどうしても拭いきれない寂しさを息子と同年代の俺で埋めようとしているのが分かった。

それでも、俺の顔を見れば怯んだように視線を下げるのだ。

寂しくて悲しくてどうしようもなくて、仕方なく代替の俺を必要とするのに、実際に顔を合わせれば代わりではどうにもならないことを知って絶望する。

悪循環だと思ったし、馬鹿な大人だと思っていた。


それでも彼女の要望を受け入れてしまったのは、自分自身が光成の面影を追っていたからかもしれない。

死んだことにされたというのに、屋敷のあちこちに光成の臭いが残っている気がした。

座敷に隅に転がったプラモデルは、光成が居なくなってすぐに回収されたというのに。

目を凝らせば、組み立て途中だったそれが、まだそこにあるような気がしていたのだ。

ずっとその場で待っていれば、光成がふと玄関から帰って来て「一緒にくみたてよう!」と笑う気がして。

ふにゃりとした笑みを思い出した。

耳を澄ませば、蜜に溶かしたような甘い声が甦ってくるようだった。


赤の他人である俺でさえそんなだったのだ。

篠原の人間はどうだったのだろうか。


―――――あれは確か初夏のことだったと思う。

光成がいなくなって既に数ヶ月が経過した頃のことだった。

それが、夏休みだからと孝仁さんが寮から屋敷に帰ってきたその日に起こったのは偶然だったのだろうか。


いつものように早苗さんのところに顔を出して、自宅に帰ろうと玄関を出たときに視界の端に黒い煙が映った。少し離れた場所だったけれど、確実に篠原の敷地内だ。

火事か何かかと、慌てて玄関前の手入れをしていた庭師に問えば「燃やしてるんですよ」と苦笑する。

燃えているわけではなく、燃やしているのだと。

何だかひどく嫌な予感がした。

庭師は「危ないから近づいてはいけませんよ」とますます笑みを深める。

そんな怪しい顔をされて無視するわけにはいかない。

走り出せば、それを制そうとする声が追いかけてきた。だけど、止まることなんてできない。

広い庭だから、すぐ近くで燃やしていると思ったのに想像以上に離れた場所で。

意味も分からず泣きたくなっていた。

煙が上がっているほうに近づけば「―――――やめろ……!!」という叫び声が聞こえる。

それが孝仁さんの声だと気付くのに時間はかからなかった。


「やめろ、やめろ!やめろ!!」


普段の飄々とした人を喰ったような声音とはあきらかに違う焦燥の募るものだった。

泣き声のような、悲鳴のような、慟哭に近いものがあったかもしれない。

そう、あの孝仁さんが。

どんなときでも誰に対しても同じ態度で、ふざけているのか真剣なのかもよく分からない孝仁さんが。

光成を見送った空港で見せた一面にも驚いたが、今回はそれの比じゃなかった。

俺がその場に駆けつけたときには、白石さんに背後から取り押さえられている孝仁さんが居た。

白石さんの腕から逃れるように身を捩り、煙を上げるドラム缶に次々と放り込まれる何かに手を伸ばしている。

屋敷に着いたばかりなのか制服のままだ。しかし、なぜか靴下だった。靴を履いていない。

どれだけ焦ってこの場に来たのだろう。

玄関に回る余裕もなかったのか。きっと座敷から縁台に出て、そこから飛び降りたのだ。

庭で燃やされる何かを見つけてしまったから。


燃え盛る炎の中に何かを投げ入れている使用人の足元にはダンボールが置かれていて、衣類が飛び出している。それをトングで掴んで、燃やしているのだ。

孝仁さんはそれを必死で止めようとしていた。

距離にしてたった数歩のところだ。


「……何でだ!白石!離せ!!」

「駄目です、孝仁!火が燃え移る!」


普段と違うのは白石さんもだった。

学年は違うけれど、白石さんは孝仁さんと同じ学園に通っている。孝仁さんの帰省に合わせて彼もこの屋敷に帰ってきたのだろう。

いつもからかうように「坊ちゃん」としか呼ばないくせに、焦っているのか孝仁さんを呼び捨てにしてその顔に滲んだ焦りを隠そうともしていない。

実際、白石さんが引きとめていなければ孝仁さんは火の中に腕を突っ込みそうな勢いだった。

何が起こっているのかよく分からない。

使用人は孝仁さんの方をちらりと見やるが手を止める様子もなく、どこか申し訳なさそうに、それと同時にどこか優越感に滲む嫌な顔をしていた。

なにせ、篠原の嫡男が誰かに押さえつけられている姿など滅多に見れるものではない。

しかも、只事ではなく、明らかに錯乱している。

あまりに暴れるので、白石さんが上から押さえ込み、片方の膝は地面に落ちていた。


常であれば、孝仁さんが一言「やめろ」と口にすれば使用人はただちに手を止めたに違いないのだ。

それをしないということは。

ご当主から直々に命を下されているということだ。


生ぬるい風がさっと通り抜けて、はためいたそれが昼中の太陽を反射して目に焼きついた気がした。

紺色の光沢のある生地だった。洋服だ。いや、違う。制服だ。


光成の、園服だ。


「やめろ!やめろ!やめろ!光成!光成!!」


園服には名札がついたままだった。

青いチューリップをかたどったそれの真ん中には「しのはらみつなり」と書かれていて。

既に卒園していたにも関わらず、早苗さんは、後生大事にどこかにしまっていたのだ。

ふと見やれば、ダンボールの中のものがすべて光成の洋服だったことに気付く。

光成を可愛がっていたご当主が何枚も買い与えたから。中には色違いの同じシャツもあったはずだ。

光成の部屋の洋服箪笥はいつも新品の洋服がしまわれていて、それが少し羨ましかったのを覚えている。

きれいに畳まれて整頓されていたはずだ。

それがダンボールに無造作に詰め込まれて、まるで襤褸切れのように扱われていた。

あれほどたくさんの洋服を燃やすには時間がかかっただろう。

ダンボールは既に一つだけだ。


「光成を、」


「光成を殺すな―――――!!」


悲鳴というよりは絶叫のような孝仁さんの声が響いて。

一瞬、辺りが静まり返った。

ここ数ヶ月、自分の中に渦巻いていたもやのような良く分からない感情が解けていくのが分かった。

そうだ、俺はずっと、この言葉を口にしたかったのだ。

誰もそれを許さなかったから、決して言葉にしてはならないとそう思い込んでいた。

篠原のご当主夫妻が決めたのであればそれに従うしかないのだと。

だけど本当は、伝えたくて仕方なかった。

光成は、死んでない。

なぜ、殺す必要があるのかと。


使用人は何も言わずに、ダンボールを逆さにして、その中身を一気に火の中に放り込んだ。

本当は、ダンボールを抱えている使用人を抑えればそれで良かったのかもしれないが、彼を制しても孝仁さんは火の中に腕を突っ込んでいただろう。

もう既に燃え尽きていると知っていても、諦め切れなかったのだ。

その気持ちがよく分かった。

パチパチと燃え盛る炎の向こう側。

天に昇っていく煙が、まさに光成そのものに見えた。

アイツはここから居なくなったのだとまざまざと思い知らされるような気がして。


いつの間にか、俺は、声を上げて泣いていた。


そこで初めて俺の存在に気付いた孝仁さんは、力尽きたように抵抗を止めた。

白石さんの腕を振り払い、そして、己の制服に付いた泥を払いながら立ち上がる。

一つだけ大きく息を吐き出したのは、もう既に遅いと悟ったからだろう。


「……っくそ!」


ぎりぎりと歯軋りさえ聞こえそうなほどに唇を噛み締めていた。

ドラム缶の中で燃え尽きようとしている弟の園服をじっと見つめて、耐え切れなかったように嗚咽を漏らす。それを見ていた白石さんが顔を背けて泣いた。


鼻を付く、灰の臭いが周辺を漂っている。

行きたくないと、どこにも行きたくないのだと、そういって纏わり付いているように思えた。

なぜ行かせてしまったのかと、そればかりを考えた。

光成はあれほど訴えていた。どこにも行きたくないと。

縛り付けてでも傍に置いておくべきだった。

だけど、俺たちは光成を失ったのだ。もう手の届く場所には居ない。


だから、どうにもならない現実の前でただ立ち尽くすしかなかった。


悲しみへの対処法は、結局のところ一つだけなのかもしれない。

向き合い、立ち向かったところで、忘れることができなければ意味がない。

時間が解決するのではなく、時を経て記憶が薄れていくことで対処できるようになるのだ。

だから、ご当主の行いにもある意味では共感できた。

長年苦しみ続けるよりも、より早く、忘れられるほうを選択した。

自分のことだけを考えるなら、ああするしかなかったのだということも分かる。


そうやって忘れ去られていく光成が、あのとき、どんな場所にいたかも知らずに。


光成。

お前は、俺たちを恨んでいい。


―――――光成から一通の手紙が届いたのは、それから約5年後のことだった。

小学校の最終学年。あと半年で卒業だと、何となくすっきりした気分で過ごしていたその頃。

相変わらず、篠原の屋敷に行くのは止めていなかったけれどその回数も減っていて。

半年に一度顔を出せばいいほうだった。

皆、乗り越えたのだ。

光成の不在を、乗り越えた。


そう思い始めた矢先のことだった。

その手紙は、篠原の屋敷ではなく、俺の自宅に届いた。

差出人の名前も住所もない。

英語で記された宛名に俺の名前。外国の切手と消印。

よれよれの封筒が一通、ぽつりと郵便受けに入っていたのだ。


震える指で開封したのを覚えている。

薄汚れた便箋に、歪んだ日本語で。


たった一言―――――



「かえりたい」と記されていた。















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