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例えば、そんなお弁当で。3

私は篠原早苗という人間を知らないし、顔を見たことさえないご当主について何かを語る権利もない。

だけど、白石の言っていることはよく分かった。

助けを求めることのできない人間というのはまさしく私のことだ。

声が出ないわけではないし、言葉を知らないわけでもない。

だけど、何を言っても無駄だということはよく理解していた。

母親の愛人から振るわれる理不尽な暴力に悲鳴を上げたときでさえ尚、誰もその声を聞き届けてくれなかった。


「……光成、大人しくしてるといいんだけど」


軽い足取りでリズムを刻むように、三波は私を抱えたまま階段を登って行った。

突き当たりは屋上へと続く鉄製の小さな扉だ。

普段は、誰も出入りできないように施錠された上に、扉の前には黄色と黒が絡み合う警戒ロープまで張られているのだが、現在は、ロープを残したまま扉だけが大きく解放されている。

三波は、膝くらいの高さでたゆんでいるロープを造作もなく跨いで屋上に出た。彼の腕に抱えられている私も当然、一緒だ。

薄暗い校舎から外に出て、思わずほんの一瞬だけ目を眇める。しかし、昼中だというのに日差しはそこまで強くなかった。じめじめしているが、私にとってはちょうど良い天気だと言える。この貧弱な体は、太陽光さえ拒絶することがあるのだ。世話になっている屋敷の縁側で日光浴をしていただけにも関わらず強い日差しに目を回した。吐き気まで催し、アレルギーにも似た症状を起こした皮膚は赤くかぶれてしまった。

『何事にも程度っちゅうもんがある』とは和久井医師の言葉で、要するに、日に当たりすぎたのだ。

だから、今日だってこんな天気でなければ屋上に誘われることもなかっただろう。

ほんの少しだけ雨の臭いがしているから、もう少しすれば降りだすのかもしれない。

「……他の奴らはどこにいんの」

ぽつりと呟いた三波の声が耳元で聞こえる。独り言なのだろうが、もちろん返事はない。

入口のすぐ向こう側はだだっ広いコンクリートの平地だった。それを囲うフェンスが存在するだけで他には何もない。ただ、そのフェンスの前で制服を着た男が胡坐をかいて座っているだけだ。

日の光も浴びていないというのに、その金色の髪は発光しているように見える。

ふと視線を上げた男は、その琥珀色の目を鋭く尖らせた。

そして、のっそり立ち上がるとこちらに歩いてきた。

やはり、どこか獣じみた動作をする男だと思う。それは、兄である孝仁に関しても言えることだが。

品格を体言しているかのような立ち姿で、それでも力強さを失わない彼ら。

背格好も顔形の造作も違うのに、兄弟だからなのか良く似ている。


「……遅い」光成が目前に立つまで身動き一つしなかった三波に、唸るような声を上げた。

「いやいや、十分急いだっつーの」

光成の地を這うような気迫に、他の人間であれば萎縮してしまうような場面だが、三波は大して気にした様子もない。軽い口調で「これ以上急ぐのは無理だろ」と、私を抱えなおすように揺すり上げた。

「……貸せ」

何を借りたいのかと首を傾ぐ間もなく三波の腕から離され、気付いたときには光成の腕に納まっていた。

制服越しにも伝わる、ごつごつとした太い腕の感触はこの体に馴染んでいる。篠原の屋敷では、それほどに世話を焼かれていた。

それは孝仁も同じであるが、彼らにとっては犬猫を可愛がるのと同じなのだろう。世話をしていないと私が死んでしまうと思っている節がある。

実際、数ヶ月前までの私はそうだったのだから否定しようにも説得力がない。

「あーあ、せっかく杏ちゃんだっこできたのになぁ」

ぼやく三波の声を聞きながら、揺らぐことなく足を進める光成に身を任せた。

「お前にその権利は無いな」

先ほどのような不機嫌さは鳴りを潜めて、普段通りの声音で光成が喉の奥で笑った。

「はいはい、どうせお前はそういう奴だよ。親友の働きにねぎらいの言葉もないだからさぁ」

そういう自分に辟易するのと同時に、どうせ今だけなのだからと自分自身を思い切り甘やかしてやりたい気分にもなる。彼らの善意を無為にしたくないし、それを享受していたいと思う自分が居た。

「それで一体、他の奴等はどうしたの」

身軽になったからか、我先にと歩いていく三波を追うように光成がゆったりとした歩調で進む。

「追い出した」

端的に答えた光成に、振り返った三波が不審げな視線を向けた。

「どうやって追い返したの。……てか、ちょっとぉ。コンクリの上に血が落ちてるじゃん!」

わざとらしく、ひいっと声をあげながら血痕らしき赤い点を避けるその姿は踊っているようにも見えて滑稽だ。ばっちぃ、ばっちぃと呟いてはいるが口元は笑っている。ひどく愉快そうに。

「後で掃除しとけよ」

「……っえ、俺がやんの?!」

「ああ」

「もー何でこういうときだけ常識人ぶるんだよー……」

三波はぼやきながら、「いいよいいよ、俺にだって可愛い舎弟がいるんだもんね!」と頬を膨らませた。

孝仁がここに居ればきっと、うざいと一蹴していることだろう。

「お、杏ちゃん」

ふと、三波が踵を返してこちらに近づいてくる。そして、半身を屈めて下から覗き込んできた。

「機嫌良さそうだねぇ」

にこにこ笑っているその姿に邪気はない。まるで子供のような人だと思う。

思わず見詰め合っていれば、「昼飯」と一言だけ呟いた光成が私を地面に下ろした。突然のことに力が入らず、崩れ落ちそうになったところをすかさず支えられる。縋りつくような格好で光成を見上げれば、視線だけで行き先を示された。

先ほど光成が座っていフェンスの前を見ていることに気付く。そこには、青いレジャーシートが敷かれていた。真ん中に乗っているのは重箱だ。

「ちゃんとお弁当見守ってくれてたんだね……」感慨深げに、うんうんと肯いている三波が我先にと駆け出して靴を脱ぎ捨てた。放り投げられたそれを光成が蹴り飛ばすようにして避ける。

そして、「俺たちも食うぞ」とごく自然に手を取られた。その温もりにほっと息を吐くのと同時に、この環境に慣れすぎるのは怖いと、漠然とそう思った。

元々は、手を繋ぐという行為に違和感しかなかったのだ。腕を掴まれて引き摺られることはあっても、優しく握られたことなど無かった。誰かと並んで歩くなんて、夢見たことさえない。

私はいつも、道の真ん中に一人きり。置き去りにされて泣き叫んだところで誰も来ない。

それが、日常だったのに。


そういえば、遠い昔。母親の愛人にどこか分からない場所に連れ出されて置き去りにされたことがあった。

あれは多分、私が小学校に上がる前のことだ。

その頃は自室に軟禁されているも同然だったから、家の周辺さえも良く分かっていなかった。二、三件隣まで家が並んでいることは知っている。

だけど、その先はまさしく未知の領域で。

知らない街に置き去りにされてしまっては成す術もなかった。当然、警察署なんてものは知らないし、大人に助けを求めることもできない。

普通の子が、当たり前に受けているはずの教育を受けていなかったから。

それは例えば、迷子になったときの対処法だったり、困ったときに助けを求める方法だったり。

声の上げ方さえ知らなかったのだ。殴られても声を出すことさえ許されなかった。

抵抗は、罪だと思っていた。

いつもしていたように唇を両手で抑えて周囲を見回す。すると、誰もが不審そうに私を見下ろしてきた。

その視線さえ恐ろしくて呼吸がままならなくなる。

泣けば拳が飛んでくるから、ずっとそうだったから、泣くわけにもいかない。

逃げ出すように走り出した私を捕獲したのは―――――母親の愛人だ。

置き去りにされて戸惑う私を、離れたところからずっと見ていた。そして、嗤っていたのだ。

そう、嘲笑っていた。


「杏?」

背後から呼ばれて顔を上げる。

光成が眉を寄せて私の顔を覗き込んでいた。

「全然食ってないな」

胡坐をかいた光成の膝の上、という若干安定感の悪いところに納まった私は箸を持ったまま戸惑っている。

目の前に広げられた重箱は、早苗が自ら用意したものだと聞いた。料理が得意なのだとも。

世の母親が、どういう役割を果たしているのかよく知らないが。

息子とその友人の為に、これほど手の凝ったものを用意してくれるものなのか。

「何から手をつけていいか迷っちゃうよねー」

そんなことを言いながら既に卵焼きを口の中に放り込んでいる三波。

「春巻きかぁ、朝から頑張ったよね。早苗さん」

正面に座っている彼は、にこにこしながらせっせと箸を動かして次々に頬張っていく。

「ねぇ光成」と同意を求めた三波は、半身を丸めて、見上げるように私の背後を覗き込んだ。

その顔は、ただ単純に早苗を褒めているのとは少し違う。

そう、言うなら、鼻で笑うような。そんな顔だった。

「……」光成は何も言わずに、小さく息を吐き出すだけだ。耳の横を通り抜ける柔らかなそれは、三波の言葉を肯定しているわけではない。

「家に帰ったら、ありがとうって言わなきゃねぇ」

独り言みたいにぽつりと落とされた言葉。それにもやはり、返事はない。

振り返れば、光成がどんな顔をしているのかを確認することができる。

だけど、なぜか、そうしてはいけないような気がした。

「……杏、いいから食え」

私の心情を読み取ったかのようにそう言った光成は、私の手から箸を奪っておにぎりと器用に小さく切り分けた。私用に誂えてくれた小ぶりの箸は、光成が持つと玩具のようにも見える。

長い指には不都合かと思ったが、そんなことはなく、その美しい所作がぶれることがない。

育ちがいい、というのはこういうことだと無言で訴えてくる。箸の持ち方さえ知らず、孝仁に「こうやって持つんだ」と言われて教えられたとき、私は本当に何一つ与えられなかったのだと知った。


『杏が、どんな箸の持ち方をしようと、そんなことはどうでもいいのです』と白石は言う。

『持ちたいように持てばいい。だけど、私たち以外の人間はそうではありません。

きっと、杏が最も傷つくだろう言葉を選んで指摘するでしょう。育ちが知れると、』

箸の持ち方もなっていない、と。

『それによって、杏が嫌な思いをすることが耐えられないのです』と薄く笑った。


私の心はとうに潰れて。だから、誰かに何かを言われたところで傷ついたりはしないだろうと思っていた。

―――――そう思って、生きてきた。

だけど、私はどこまでも正気だった。

いっそのこと何もかもが分からなくなるくらいにおかしくなっていれば良かったのに、そうではなかった。

他人の言葉を理解できないほどに錯乱していたわけではない。

言葉の意味が分かる。意図的に私を攻撃しようとして発せられたものだということが分かる。私を傷つけようと、打ちのめそうと、その機会を狙って的確に投げつけられたものだということが分かる。

凶器とも言える言葉の刃に、抵抗すらできない。ただ見ているしかなくて。胸の真ん中に突き刺さったそれを引き抜きこともできない。


平気だなんて、そんなのは嘘だ。


だけど、白石の言葉が真実であるなら。私が嫌な思いをすることで、彼らに影響を与えるのだとしたら。

私は絶対に、傷つくべきではない。だから、さっき、教室で俯いていた自分を許してはいけないのだ。

彼らが慈しんで大事にしてくれた私という存在を、否定するべきではない。

どんな目で見られようと。どんなことを言われようと。


「っていうか、光成だって食ってないじゃん」


箸を咥えたまま三波は首を傾いだ。

「俺はいいんだよ」と、そっけなく言った光成の手に視線を落とせば、拳の皮がめくれている。

たいした傷ではないようなのでよく見なければ分からないが、少し血が滲んでいるようだ。

なぜ、今まで気付かなかったのだろう。迂闊すぎる。

「……怪我、してる」

ただの感想とも言える言葉が口から零れた。

「怪我?誰が?」

柔らかく吹き抜ける風音に掻き消されるほどの声量だったにも関わらず、しっかりと聞き取ったらしい三波が不思議そうに首を傾いだ。

「怪我してるのか?」

おもむろに脇の下に手を差し込まれて、光成の膝の上で方向転換させられた。

鼻と鼻が擦れそうなほどに近い位置で、琥珀色の瞳が不審そうに揺れている。

「誰に、何された」

普段よりも何倍も低い声で問われて言葉を失った。私が怪我をしていると思い込んでいるようだ。

「ちょっとちょっと光成。そんなおっかない顔してたら杏ちゃんが怖がるでしょー」

僅かに半身を逸らせば、背後から三波の声がかかる。

光成は返事もせずに、ただ私の顔を見つめてくるだけだ。言葉も出せずに、ただ首を振れば、

「……悪い」と視線を逃がした光成が再び、私の体を回転させた。

背後から抱き込まれる形になって、はっきりと安堵を覚える。篠原の屋敷でも、こうやって畳の上に座りこんでいることが多かった。光成は私を膝に抱えたまま、新聞や本を読み、合間にぽつりぽつりと話しかけてきた。天気の話だったり、広い庭に群生している草花の話だったり。本当に何でもないことだったけれど。

誰かと会話らしい会話をしたこともなかった私は、戸惑いつつも嬉しく思っていた。

そう、嬉しかったのだ。

光成の膝の上で、光成がやることを見るともなしに眺めて。時々、自分に向けられる優しい眼差しに動揺したりして。平静を装うために必死に握り締めた指先は、微かに震えていた。

それは、多分。篠原の屋敷にいるときはいつもそうだった。

優しくするのが当然だという顔をして、全てを与えられる。そのこと怖くて怖くてどうしようもなかった。

いつか失うものだということが分かっているのに、まるでそれが永遠に続くみたいに思えて。


「あ、てゆーか。お前じゃない?光成」

「……あ?」

「ちょっとぉ、凄まないでよ!怖いから!」


三波が大げさなくらいに半身を仰け反らせる。そのまま倒れてしまいそうだ。

だけどその表情は、愉しんでいるようにも見える。本当に光成を恐れているわけではない。

普段は、自分の存在を光成よりも下に置いているような態度を取っているが、彼らに上下関係があるわけではないことを知っている。


「ほら、それ。光成の指!」


体勢を整えた三波が指で示せば、光成も自分の手に視線を落とした。

それを見て「お、」と片方の眉を上げた彼は「何だ、これか」を至極興味なさげに呟く。

怪我をしているのは自分なのに、痛みさえ感じていないようだ。


「いいんだよ、杏ちゃん。光成のそれは……大したことないんだから。本当に」


日常茶飯事だからね、と付け加えて「いいから食べよう。時間なくなっちゃうよ」と笑う。

確かに今、不穏な言葉を口にしたはずなのに、一見それとは分からない。

光成の手の甲にできた傷は、何かを強く殴ったときにできる傷だ。

昔、母の愛人にそういう人間がいた。他人を殴ることを生業としているような男だ。顔中傷だらけにして帰って来ることも多く、その手が血まみれだったことも少なくなかった。

母は、甲斐甲斐しくその男の面倒を見ていたけれど。

それを見ていた私に『お前も、殴ってやろうか?』と男はにやりと笑った。


「ほら、杏」


光成は何事もなかったかのように、重箱の上で厚焼き玉子を箸で切り分けた。そして、私の口元に運んでくる。だけど、口が開かない。

食欲も戻ってきたというのに、時々、こういった症状が発生する。

ご飯を食べた後は未だに嘔吐する可能性があり、肉体に刻まれたそのときの感覚が「食べる」という行為を拒絶する。

吐き気を覚えたときは、全身が震えるような嘔吐感は苦しくて仕方ないし、血の気を失うような感覚は気力を奪う。

だから、肉体が勝手に嘔吐する可能性を排除しようとしているのだ。

何も食べなければ、そんなことにはならないだろうと。


「……吐いてもいいから」

口を閉ざしたまま固まっていると、何もかもを承知でいてくれる光成が声を掛けてくれる。

「そうだよ。吐いたらまた食べれればいいんだし」と陽気な声を出すのは三波だ。

他人の吐しゃ物を片付けるのは決して気持ちのいいものではないだろうに、彼らはいつだって嫌な顔一つしない。その服や手を汚したとしても、まず一番に私の身を案じる。

これまでは、風邪を引いたときでさえ放置されていた。高熱で動くこともできないのに、さっさと学校へ行けと家を放り出された。ただ、家の中に居ては邪魔だというそれだけの理由で。

何度も休憩を挟みながら歩いた学校への道筋で、見知らぬ女性が声を掛けてきた。

『貴女、どこの学校?こんな時間に何してるの?遅刻じゃないの?最近の子は全く……』

質問しておきながら私の言葉を聞くつもりもない。学年とクラスと名前を言わされて、学校に連絡を入れるとまで言われた。それは私を心配してのことではない。素行の悪い生徒の名前を、学校に通報する感覚だったのだろう。

誰も聞いてくれないのなら、言葉なんてないも同じだ。

だけど。


「もっと口にしやすいものを買っておくべきだったね。ゼリーとか」

「……だな」

「一口入ったら、二口、三口は何とか頑張れるかもしれないよね」


授業をサボると白石さんがうるさそうだから、帰りに買おうねと三波が腕時計に目を落とす。

結局、欠片ほどの厚焼き玉子を口にしただけだ。

それでも、お腹がいっぱいになった気がした。


そろそろ教室に戻ろうと立ち上がって、ふと空を見上げればぽつりと雨が落ちてくる。

まるで、私たちが食べ終わるのを待っていたかのように。

そう思えば、不思議と口元が緩んでいくようだった。

そんな私に視線を移した光成が、ゆったりと目を細める。優しく、優しく。


言葉にしなくても伝わるものがあるのだと、そう思った。














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