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17/23

例えば、そんなお弁当で。2

それはお昼休みに入る10分ほど前に発生した。


私の机の上にぽんっと白い塊が飛んできたのだ。

授業中であるから声は上げずに周囲を見回したのだが、誰もこちらを見ていない。

確かに誰かがこれを投げつけたのだと思うのに、誰一人としてそんな素振りは見せなかった。

全員が同じような姿勢で黒板に板書する教師の指を追っている。


ノートの切れ端と思しきそれは、四角く折りたたむのも面倒だったのかくしゃくしゃに丸められていた。

一瞬、間違って私の机に飛んできたのかとも思ったが、そうであれば誰か一人くらいはこちらを見ているはずだ。そして、間違って飛ばしてしまったことを教えてくれるに違いない。

そうではないということは。

これはやはり私宛なのだろう。

嫌な感じのする手紙だとは思ったが、読みもせずに捨てるのも何だか決まりが悪い。

捨てるにしろ、きちんと中身は確認しておきたい。

渋々ではあったが、その紙くずのようなそれを開いて確認した。


『昼休み、廊下に出て』


たったそれだけの指示書であった。

もはやお願いでも何でもなく、命令されているかのような一文。

宛名もなければ差出人もない。

無視することもできたのだが、この授業が終われば昼休みであるから必然的に廊下に出ることになる。

三波が重箱を持っているのだから、私が彼と光成の居るところへ出向かなければ昼食にはありつけない。

手紙の指示に従うわけではないが、自然とそうなってしまうだろうことに溜息を隠せなかった。

きっと私の動向を探っている誰かが近くに居るはずだから、チャイムが鳴ってすぐに逃げ出したとしても無駄だろう。

手の平の上で持て余している小さな紙が酷く禍々しいものに思えてくる。


これまでだって一度も呼び出されたことがないとは言えない。

しかし、そのどれもが大したことではなかった。

突き飛ばされたことはあるが、それも弾みでそうなってしまっただけで狙ってやったわけではそうだった。

予想外に勢いよく倒れこんだ私の姿に相手の方が驚いていたくらいだ。

暴力に慣れていない人間の示す反応なんてそんなものなのかもしれない。

だから、いつだってそれ以上のことをされることはなかった。

すれ違い様に暴言を吐かれることは日常茶飯事だが、彼らは恐らくそれで十分だったのだ。

言葉や視線がいかに相手を傷つけるものかを知っていた。

それが今回、こんな強硬手段に出たのは恐らく朝のことがあるからだろう。

それほどに光成と三波という人間の動向は注目を集めている。

本来なら、それなりに見目を整えていても彼らに近づくことは難しく、目に留まることさえ簡単ではない。

彼らを注視しているわけでもないのにその程度のことは知っていた。


あの日、孝仁に拾われていなければ私と彼らが接近することはなかったのだろう。

時々、学校内で光成が声を掛けてはくれたけれど、あれだって偶然会っていたに過ぎない。

いや、「会っていた」というのが誇張して聞こえるほどのたった一瞬の邂逅であった。

すれ違っていたと表現するほうが正しいかもしれない。

会話はいつも一方通行だったから。


全ては偶然の成り行きで、示し合わされたことではない。

孝仁が私を公園で拾ったことが全ての分岐点だった気がする。

もしも、あのままあそこに居たとしたら。

私はやっぱり死んでいたのだろう。


―――――ぼんやりと思考を漂わせていればチャイムの音が響いた。

ここは次のテスト範囲だからと言う教師の声が喧騒にかき消される。

終わった終わったと次々に教室から出て行くクラスメイトを尻目に、握っていた紙を机の中に押し込んだ。

教室の中に残った生徒はお弁当を持参しているらしく、各自で机の向きを変えたり椅子を移動したりして仲の良い友人と笑い合っている。

その姿を見るとも無しに眺めながらふと思い出した。

小学生の頃は給食だったので、さすがに昼食を抜かれることはなかったが私の近くだけ誰もいなかったことに。

教室の中で数人ごとに班を作り、その班ごとに机を向かい合わせにして給食を食べるのが決まりだった。

だけど、私はいつだってその班からあぶれていて。

担任はいつも、もっと積極的に皆の輪に入れてもらいなさいと言っていた。

初めはクラスの皆に対して仲間はずれは良くないと熱弁をふるっておきながら、最終的な矛先はいつだって私に向いていた。

やがては、消極的なお前が悪いと眉間に皺を寄せ、他の皆に合わせなさいと声を荒げる。

そして、その担任の声に触発されるように、輪から弾き出しておきながら、なぜ歩み寄らないのだと白けた視線を向けるクラスメイト。

いざ手を伸ばせば払いのけるくせに、受け入れる素振りさえ見せないくせに、近づいて来いなんて無茶振りにも程がある。


「……おい…!てめぇ、ぼさっとしてんじゃねーよ!」


乱暴な物言いに対して妙に甲高い声が喧騒の中を駆ける。

思わず振り仰げば、教室の扉の向こうから女生徒が半身を乗り出すようにしてこちらを見つめていた。

恐らく、先回りして廊下で待ち構えていたのだろう。

射抜くような目が真っ直ぐに私へ向けられている。

大きな目に長い睫が印象的だが、その色素の薄い瞳は人工的なものだ。

光成のような透明感はない、と無意識にも比較している自分がいる。

たった数時間前に別れたばかりなのに、あのガラス玉のような目が懐かしく思えた。

人間のものというよりは、獣じみているあの眼差しはいつだって私を真っ直ぐに見据える。

腕や足に絡み付いて離れず、私が獲物であったならまさしく視線で捕縛されていただろう。

毎日、何時間もあの目に見つめられていたというのに。

今はもう、やけに遠いもののように感じられた。


「早くしろよ……っ!」


女生徒とは思えないほどの力で引き上げられて若干ふらつきながら椅子から立たされる。

今日という日に備えてリハビリをしてきた肉体だけれど、当然、休学前と同じではない。

思わぬところに力が入ったり、それとは逆に、力を入れたい部分が弱っていたりしてうまくバランスが取れないのだ。

あ、と思ったときには遅く。

椅子の脚につま先を引っ掛けてたたらを踏めば、引きずられるように傾いた椅子が机を巻き込んで倒れた。

盛大な物音に一瞬、教室の中が静まり返る。

しかし、その音を追うようにしてこちらに向けられた視線が私という存在を捉えた瞬間、何事もなかったように元の喧騒を取り戻した。

これが他の誰かであれば、心配して手を貸してくれたりするのだろうか。


「どんくせー」


誰が口にしたのか、私を掴んでいる女子生徒とは別のとこから声が飛んでくる。

今にも倒れそうになっていた半身をそのままに、前傾姿勢のまま強引に引っ張られて腕が悲鳴を上げた。

篠原の家に運び込まれて最初の数週間はほとんど寝たきりだったので筋肉が凝り固まり、身動きするだけで悲鳴を上げるほどになっていた。

だから、私の肉体はいつまでも満身創痍というやつなのだ。


ぎりぎりと絞られるように腕を握られて、口の端から零れそうになる声を押さえ込み奥歯を噛み締めた。

痛みに慣れていたはずの心と体は、この数ヶ月ですっかり弱りきっている。


まず、足を踏ん張ることができない。

朝、教室に入るまで光成が手を繋いでくれていたのは、恐らく、補助の意味合いもあったのだろう。

ただ手を繋いでいるだけだったのに、まるで道筋を示してくれているかのような安定感があった。

彼がどれだけ私に気を配って歩いてくれていたのかが分かる。

背後からそれを見守っていただろう三波だって、私に何かあれば手助けしようという意思が見えた。


「……あー、やっと来た」

「ほんとウザいんだけど」

「調子乗ってんじゃない」


教室の中を引きずられるように引っ張られ、突き出されるようにして廊下に出されると、そこには数人の女子生徒が居た。

私を教室の中に迎えに来た女子生徒と同じように、恐らく一般的には目立つ顔立ちをしていると思うのに、見れば見るほど能面を被っているように見える。

だから、その顔には当然、見覚えが無い。

囲まれるようにして、同性だというのに私よりもだいぶ背の高い彼女たちを見上げていれば「見てんじゃねーよ」と小突かれる。

それでも、下を向くのには何だか抵抗を覚えてただ視線をずらすだけに留まる。

そうすれば舌打ちした誰かに肩を押された。

そして、そのまま促されるように囲まれたまま廊下を進んで行く。


女子の集団が廊下を歩いて移動している姿なんて特に珍しくもない。

だから、誰も気にしないし誰もこちらを見ない。

こちらを見たところでやはり視線を逸らすのだろうけど。

私はきっと、ここでは亡霊と同じなのだ。

普段は誰の目にも留まらず意識もされないのに、一度誰かに認識されるとただそこに居るだけで不快なものとなる。

私を直接、目にしたことのない人間まで噂を耳にしただけで嫌悪し近づくことさえ厭う。


いや、違う。それはここだけの話ではない。

幼いときからずっとそうだった。家に居ても家の外でも、入ることさえできなかった公園を眺めていたあのとき、私はどこにも存在していなかった。


それなら、いっそ、本当にこの世界のどこにも存在していなければ良かったのに。


だけど、私の両手は確かにここにあって。

肉体は滅びることなくここにある。

痛めつけられたところで、細胞が修復と再生を繰り返し、元には戻らないまでも立ち上がることができるようになった。


―――――それが、なぜなのか。

今更、疑問に思うことでもない。


こちら側に引き留められた。私の意志など関係なく。


「あんた光成さんの何なわけ!何であんたみたいなのが引っ付いてんの?!」

「三波君だって迷惑してんだよ!」


教室から連れ出されて最終的に辿り着いたのは第二校舎に渡るために設けられた鉄製の扉の前だった。

普段は閉ざされているその場所は、滅多に人が通りかからない。

そして、廊下側からは若干死角になっていた。

獲物のように端っこに追い詰められて、猟犬に囲まれる。

ぎゃんぎゃん吼えられて、身を竦めるというよりはただ呆然とその姿を見ていた。

次々に何かを言われて理解が追いつけない。思考が停止する、とはこのことを言うのか。


「聞いてんのかよ!」


すると、私の反応が気に食わなかったらしい女子生徒が声を荒げて肩を掴んできた。

思わず、身を竦めてしまったのは条件反射だ。

やはり、誰かに手を振り上げられると自然とこういう格好になってしまう。

ひゅっと息を飲んだ自分の呼吸が耳に響いたそのとき、


「ちょっとちょっとぉ、光成のものに手を出そうなんて随分度胸があるんだねぇ」


すとん、と頭上から何かが落ちてきた。

それと共に発せられた声は酷く聞き覚えのあるもので。

落ちてきた「何か」が人であることを認識した瞬間、振り返る間もなく抱き上げられた。

突然のことに僅かに強張った背中を慰めるように優しく撫でられる。

その、はっきりと知っている感触に息を吐き出せば、私を抱えている人がふにゃりと笑った。

しかし、その顔のまま正面を向いた彼の瞳は酷く暗い色を伴っていて、直視することさえ躊躇われる。


「あのねぇ、僕は自分で言うのも何だけどフェミニストだし間違っても女性に暴力なんて奮いたくないんだけどさぁ。時と場合にもよるんだよね」


声音も、いつもの陽気な雰囲気とは全く違う。

一瞬にして周辺の空気が薄くなったようで、私を囲んでいたはずの女子生徒達は苦しそうに呼吸をしている。その姿を眺めていれば、視界を塞がれるように体勢を変えられた。


「僕はさぁ大切な人のためなら何でもする人間なんだよね。自分のものに手を出されるのも、光成のものに手を出されるのも、すっごくすっごく嫌なわけ」


間延びした独特の喋り方はいつもと同じような気がしたけれど、深く沈んでいくような声がいつもと違う。

相手に肌に刻み付けるような陰惨さを伴っていた。

篠原の家で、三波という人間はいつだって軽快さと愉快さの狭間にあって暗闇なんて見たこともないような顔をしている。孝仁に邪険にされようと白石に辛らつなことを言われようと、さして気にも留めていない。

むしろそれを楽しんでいるかのような態度であった。


それなのに、これは。

私を抱えているこの人は、まるで別人だと思う。


「死ぬよりもよっぽど辛いことがあるんだって、身をもって知れば、杏に手を出すのをやめるのかな」


ぽつりと落とされた言葉にも関わらず、妙に耳に残った。

しんと静まり返った空間は、そこだけが日常から切り離されて取り残されているようだ。

私はそれを、テレビ画面でも眺めるように、目には映らない隔たりの向こうから眺めている。


「……杏ちゃん」


ひたひたと廊下を踏む、一人分の靴音が響く。

呆然と立ち竦む女子生徒の間を抜けて、今は、誰もいない廊下を進んでいた。

私は相変わらず抱き上げられたままで降ろされる様子もない。


「お弁当は屋上で食べることにしたんだ。光成が先に行って待ってるからちょっと急ぐね」


先ほどのことなど一切触れずにそんなことを言う三波の横顔に視線を向ける。

しっかりと抱き寄せられているので相当に体を捩らないとその顔は見えない。

だから、結局、どんな顔をしているのか確認することができなかった。

決して誤魔化そうとしているわけではなく、本当に、たった数秒で忘れてしまったのではないかと思えるほどにおっとりとした声音だった。


「早苗さんはすごく料理が上手なんだよね。昔からそうだったけど、光成がちょっと家を出てたから……その寂しさを紛らわせる為に料理に没頭しちゃって。それからは、プロ並なんだよ」


ふふふ、と堪えきれず笑みを零すのは昔を懐かしんでいるからだろうか。

まるで、幼児に御伽噺でも聞かせるように体を揺すられて眠気を誘う。


「実は…あんな顔して白石さんも料理ができるんだ。可笑しいよね、何にも興味ないって顔してるのに」


そうなんだ、と返事をする代わりにこくりと頷いた。

すると、三波はまた一つ笑みを零したようで、耳元を温かい空気が抜けていく。

くすぐったくて眠気眼のまま身を捩れば、抱きしめる力が強くなって少しも動けなくなった。

そしてしばらくの間、人気のない廊下を只黙って歩いていく。


生物室や化学室などの普段は誰も使っていないような教室が並んでいる寂れた場所なので他には誰もいないようだ。


「……杏ちゃんが呼び出されたって聞いて、光成が手に負えないくらい怒り狂って。あれは……何人か病院送りになるかもしれないなぁ。アイツはさ、ああ見えてすげー沸点が低いの」


のっしりと歩く金色のライオンを思い出せば、短気だという話は俄かに信じ難い。

孝仁にからかわれるようなこを言われても、不機嫌そうな顔つきになるくらいで声を荒げることなどほとんどなかった。むしろ黙り込んでいたことのほうが多い気がする。


「俺が思うに、杏ちゃんはもう自由だよ」


杏ちゃんの家のことは篠原が何とかするから、誰にも何も言わせないと思うよと優しい声音が紡ぐ。

篠原の家でいつも聞いていたような明るく溌剌とした声とはまた少し違う。


「杏ちゃんが望めば、篠原のご当主と早苗さんが何でもしてくれると思う。それこそさ、ここから遠く離れてみるのも良いかもしれないね」


それは、私に、ここではないどこかへ行けとそう言っているのだろうか。

きっと、そうだ。

私という人間は、誰にも必要とされていないのだから。

不要だと判じられてもそれは仕方のないことなのだ。

それなのに、怪我が治るまで面倒を見てくれて世話をしてくれた。

一人では起きだすことさえできなかったのに、今ではこうやって学校に行くことができるほどになっている。これ以上、彼らに迷惑をかけることはできない。


それはよく分かるのに。

どうしてか目頭が熱くなって、瞼を強く閉じなければ零れ落ちそうになる何かを止めることができなかった。


「篠原が本気を出せば、一人の人間を隠すのなんて簡単なことなんだよ」


そんな私の心情を悟っているのかそれとも、知らずにそうしているのか。

三波の手が、慰めるように私の背を撫でる。


「だけど、杏ちゃんがいなくなったら、きっと誰かが死ぬだろうね」

「……え?」


唐突に告げられた不穏な言葉に思わず声を漏らせば、ふふ、と吐息だけで笑った。


「怒り狂った光成が暴れまくって誰かを殺すか、それを止めようとした俺が殺されるか、もしくは歯止めの利かなくなった弟をどうにかするために孝仁さんが手を下すか……、杏ちゃんを見つけ出すのに手段を選ばないだろう白石さんが何かするかもしれないよね……」


上がった語尾からして疑問系なのにも関わらず、同意を求めているわけではなさそうだ。

静かな廊下に響く、感情を忘れてきたかのような三波の声音がますます静寂を誘っているようだった。

一人分の足音と、独り言を口にしているかのような声と、たったそれだけしかないのが寂しく思える。


「だから、杏ちゃん」

「……」

「杏ちゃんには覚悟してほしい」

「……覚悟?」

「そう、覚悟」


「杏ちゃんが選ぶ道によっては、誰かが死ぬかもしれないってこと」


ここから立ち去るなら、それくらいの覚悟が必要だと笑う。

だから、結局どこにも行けないのだと。どこにも行かなくて良いのだと。

驚きに目を開けば、堪えることのできなかった水滴が目じりから滑り落ちる。

一つだけ零れたそれは頬を伝って三波に肩に吸い込まれていった。


「俺たちと……いや、篠原の家に居るのが辛いのはちょっと分かる気がするけどね。

あそこは、ずっと居られるような場所じゃないし」


きっと三波は、私の涙のことなど気付いていない。

人間一人を抱えているとは思えないほどの身軽さで階段を登っていく。

光成が屋上に居ると言っていたから、きっとそこに向かっているのだろう。


「住む世界が違うっていうより、人間が違うというか……その本質が違うって言うのかな。

孝仁さんと光成は、きっとこちら側だろうと思うけど、」


ご当主夫妻は、いつだって他人を見下ろす立場にある人達だから。と言い淀むようにぽつりと言った。

悪意があって言っているわけではないことくらい分かる。

事実としてそうなのだ。


『助けが必要ならそう言いなさいね』


私の大学進学について話があると呼び出されたそのとき、早苗は事も無げな顔をして首を傾いだ。

孝仁と光成によくよく頼まれているから、貴女が望むなら援助を惜しまないと微笑む。

室内には二人きりで他には誰もいなかった。

孝仁と光成が居ればきっと余計な口を出してくるからと困った顔をする。

だけどその目には慈愛の色が見えて、私は動揺を隠せなかった。

何を言えば良いのかも分からず、ただ黙り込んで是も否も口にはできなかった。


しばらくして白石が現れなければ、私は呼吸困難にでも陥っていたかもしれない。

あの部屋は、酷く空気が薄かった。


助けて欲しいならそう言いなさいと菩薩のような顔をするその人にただの一言も返せずに、白石に促されるまま逃げるように退散した。


『あの方は、私たちとは……違いますから。気にすることはないのですよ』


白石はそう言って私の頭を優しく撫でて、

『助けてと、それさえも口にできない人間が居ることを知らないだけなのです』と、どこか遠い目をして言った。







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