例えば、そんなお弁当で。
四角い箱に詰められた白飯とおかずを見やって白石に視線を移すと、その男は白皙の顔を僅かに傾いだ。
その動きに合わせて、銀縁眼鏡が怪しく光る。しかし、何かを企んでいるわけでない。…と思う。
「お、うまそーだな」
白石の背後から覗き込むようにして孝仁がその四角い箱に視線を落とす。
ミートボールと一緒に並んだ厚焼き玉子に手を伸ばして、「坊ちゃんの分もありますから」と白石に渋面を向けられている。
「馬鹿、他人の弁当盗むのが旨いんだよ」と言って、結局厚焼き玉子は孝仁の口の中に納まった。
一時期は「完全回復などありもしない夢は見ないこと」と和久井医師に言われた程なのだが、死ぬこともなく、何とか持ち越して今に至る。
緩やかに回復へと向かっていた体調だが、とうとう行き詰ったらしく、今のところはあくまでも現状維持という感じだ。
完全に良くはならないが、悪くもならない。
極端に悪化することがなくなっただけとも言える。
その為、約5ヶ月ぶりに登校することになった。
学校が好きなわけではないが、行かなければ卒業できない。卒業できなければ大学には行けない。
大学なんて考えてもいなかったけれど『杏ちゃんは大学に行った方が良いわ。だって、大学って楽しいのよ』という早苗の一言でなぜか進学することになっていた。
元々欠席が多く真面目に登校していたとは言い難いのに、5ヶ月にも渡る休学も、学校側の特別な配慮で課題を提出すれば良いことになっている。
このあたりも実は篠原が圧力を掛けたようなのだが詳細は分からない。
というより、教えてもらえなかった。
「有るものは使わなければ意味がないのですよ」と白石は笑った。
「お袋もたまにはやるなぁ。なかなか旨い」
「なかなか、ですか。了解です、奥様にご報告いたしますね」
「アホか。その前にお前の口を針と糸で縫いつけてやるぜ」
「おやおや」
「……おい、何でニヤついてんだよ」
登校する前に厨房に寄りなさいと早苗に言われたのでその通りにしたら、そこに白石と孝仁が居た。
個人の屋敷だというのに、料亭の厨房もかくやというほどの広さだ。
普段はプロの料理人が当番制で腕を奮っているらしいがすでに家人は朝食を済ませているため、他には誰もいなかった。
後片付けさえ済んでいる。
「いつまでたっても出て来ねーと思ったら何してんだよ」
一緒に登校すると言っていた光成が入口から顔を出して渋面を作っている。
そんなのは気にも留めない様子の白石がにこりと笑んだ。
「奥様がお弁当を用意してくださったんですよ」
「……え、マジですか?!」
光成の後ろから顔を出したのは三波だ。
喜色満面と言った風情で厨房の中に入ってくる。
「ぅへえ!旨そうぅぅ」
並んだ四角い箱を手に取ると三波が唸った。
「お袋が弁当…?雪でも降るんじゃないの」
三波の後に続いて中に入ってきた光成が不思議そうに顔を捻っている。
「つーか、何で重箱……?」
白石が手際よく同じ大きさの箱を重ねていく様子を眺めながら光成が呟いた。
「三人分ですからね。……はい」
重箱を風呂敷で包んで三波に手渡した白石が当然のように言ってのける。
「三人…じゃぁ、もしかしなくても俺の分も入ってんですか?!」
わぁい!とはしゃぎながら小花の散った風呂敷に包まれた重箱を頭上に掲げる三波。
「お前は朝っぱらからうっせーな。また泊まったのか」
孝仁が三波の頭を小突くと「光成の部屋には泊まってませんからね!ね?!」と訴えるようにして声を上げた。「どっちでもいーよ」と心底興味なさげに言っている孝仁を見るともなしに眺めていると、
「どうした、杏?」
光成に頭を撫でられた。
「?」特に何かを考えていたわけではないので質問の意味が分からず首を傾ぐと、
「眉間に皺が寄ってた」とため息を吐くように小さく笑われる。
だから、
「……家に帰らないと」
と唇から零れた言葉は意図していたわけではない。
途端に、しんと静まり返る。
「……あ?今、何つった?」
静寂を裂いたのは孝仁の不穏を纏った声だった。
無意識にもびくりと肩を震わせる。
男のこういった声には慣れていた。この後に必ずと言って良いほど手を上げられたから。
足が半分だけ後ろに下がったのは防御の為だった。
「坊ちゃん、いけませんよ」
何かにぶつかってそれ以上は下がれないとその障害物を確認しようとして、それが白石の腕だったことに気づく。
「…あー、わりぃ。つい、な」
無造作に伸びてきた孝仁の手が視界を過ぎったので、また、身を竦ませると、
「っち、」
今度は、舌打ちと共になぜか抱き上げられた。
突然の出来事に全身が石になったみたいに硬直する。
「お前をこんな目に合わせた奴を殺してやりてぇよ」
ぽんぽんと背中を撫でられる感触に、ゆっくりと強張りがほどけていく。
頬に触れたいかにも高級そうなジャケットが汚れはしないかと思う。
皺一つないように見えるそれが、私を抱えたことによって価値を損なってしまうのは、単純に嫌だと思った。
「坊ちゃん、杏をそんな風にした人間には何らかの制裁を加えるとして、事情を聞かなければ」
「……だからお前は、坊ちゃん言うなっつってんだろ」
「はいはい、孝仁坊ちゃん」
「分かってねーじゃねーか」
「……つーか、遅刻すんだけど」
孝仁と白石のいつものやり取りに割り込んだのは、光成だ。
私を抱えたまま孝仁が自分の腕時計を見やる。
「マジか」
そしてそのまま厨房を出た。
「で、何で急に家に帰りたいなんて?」
廊下を歩きながら後ろから光成が問うてくる。
「……お財布」
「は?」
「お金、入ってないから……」
呟けば、再び沈黙が走った。
「杏、大丈夫だ。金なら三波が持ってるから」
「……え?!」
光成が返事をすれば三波が心底驚いたような声を上げる。
「いやいやいや、良いですよ、別に良いんですけど、そもそも何でいきなりお金の話に……?!」
「それは、そうだな」
孝仁にやっと降ろしてもらったときには、すでに玄関まで来ていた。
当然、孝仁と白石はここでお別れだ。
孝仁は惜しむようにするりと私の頭を撫でて、ジャケットの内側から自分の財布を取り出した。
「で、いくら必要なんだ?」
「いや、違うでしょーよ!あんた子育てに向いてない……!そこは何に使うのかって聞くとこでしょ?!」
「ぎゃーぎゃーうっせーな。殴り飛ばすぞ」
「飛ばすんですか?!ただ殴るだけじゃなく?!」
「……兄貴も三波もうるさいんだよ。杏、金のことなんて心配しなくて良いから」
促されるようにして玄関の土間に用意されていた学生靴を履く。
そんな風にして、制服も教科書も学生カバンに至るまで、何もかもが誰かの手によって予め揃えられていた。
「そうだよ、杏ちゃん。この家にはお金なんて腐るほどあるんだから湯水のように使ってやれば良いんだよ!」
明るい声音でとんでもないことを口にした三波だが、誰も反論しなかった。
だからこそ、このままにしておくのもどうかと思い正直に告げる。
「小銭で良いんです、必ず返しますから」
「何に使うんです?特に必要なものはないでしょう?」
白石に問われて「今日の…お昼代……ないから……」と思わず答えたけれど、そもそも、彼らが私のお昼代を用意する義理なんてないのだ。
ここまで色々してもらって、それをお願いするのは気が引けてくる。
もぞもぞと言葉を紡ぎながら自然と尻すぼみになった。
「?何言ってるの、杏ちゃん!お昼なら早苗さんが用意してくれたコレがあるじゃない」
私が何か言う度に、ほんの僅かな緊張と沈黙が生まれる。
その心地よいとは言い難い空間に身じろぎすると、三波が先ほど用意してもらっていた重箱を勢いよく私の前に差し出した。
「馬鹿、振るなよ。中身が寄る」光成に頭をはたかれても気にならないのかにこにこ笑いながら「早苗さんの弁当旨いんだよ」とぐいぐいと押し付けるようにして重箱を私の胸元辺りに寄せる。
まるで、受け取れと言わんばかりの行動に戸惑いながら、彷徨う手を意味もなく上下させた。
早苗の作った弁当であれば尚更、私が受け取るわけにはいかない気がしたのだ。
お弁当というのは、母親が子供の為に用意してくれるものだと知っていたから。
「……さっき、私、三人分って言いませんでしたっけ?」
白石が珍しくも眉を寄せながら惑うような素振りを見せる。
「ああ、だな。だが、はっきり言わなきゃ分かんねーだろ。
杏、難しく考えるなよ。三人分っつたら、同じ学校に通うお前らの分以外には考えられねーんだから」
「そうですよ。えー、光成様、三波君、そして杏の三人分です」
「……ちょっと待て。何で光成が『光成様』で俺が『坊ちゃん』なんだよ」
「だから、杏のお昼ご飯はきちんと用意してありますからね」
「おい、無視すんな」
目の前に差し出されたそれを、ただ見つめることしかできない。
今まで、一度も、私の為にお弁当が用意されたことはなかった。
キッチンの小さなテーブルにむき出しで投げられていたお札、あるいは小銭。
それが私の食事だった。
今よりずっと幼かった頃は、お金の意味も価値も分からなくて、何かを買いに行くということさえ思いつかずひたすらに空腹を我慢して。
たまにおこぼれのように与えられるおかずに手をつけた。
それだって母の愛人の遊びのようなもので、途中で取り上げられることもすくなくなかった。
小学校で初めて行った遠足。
母親の作ったお弁当を輪になって食べる同級生の横で、食べるものさえ用意できなかった自分は誰にも見つからないように膝を抱えてただ時間が過ぎるのを待った。
その次の年から遠足には行かなかった。
「…じゃ、ま。解決だな。三波、重箱はお前が持てよ」
「はーい」
慰められるように頭を撫でられて、光成に手を引かれる。
いってらっしゃいと白石に言われて、思わず「いってきます」と呟いた。
そう言って良いのか分からないのに、無意識に零れた言葉を拾うように「おー、気をつけてな」と孝仁が返事をする。
ただ、それだけのことなのに。
無償に泣きたくなった。
*
*
久しぶりの学校は、いつもと同じようでいつもとは少し違った。
まず、私の手を引いている光成の影響かもしれないが、暴言が耳に飛び込まない。
こそこそ何事かを囁く声は聞こえるが、それが何なのかは分からなかった。
光成と私の後ろを少し遅れて着いて来る三波が鼻歌を口ずさんでいるからかもしれない。
陽気なその歌が緊張を解いていくような気がした。
教室の前まで来ると、どこか名残を惜しむように握っていた手がゆっくりと解放された。
昼休みに向かえに来るからと言い置いて、別れ際にくしゃりと髪を撫でられる。
やはり兄弟だから、孝仁と指先の感触が似ている。
思わず目を細めると光成は少し可笑しそうに口元を歪めてから「後でな」と言った。
「まったねー」と陽気に手を振る三波を連れ立って悠然と歩いていくその後ろ姿はまさしく王様だ。
二人が歩くのを廊下の隅に避けて見守る他の生徒たちと同じように、何となしに見送った。
数ヶ月ぶりの教室は何だか懐かしい臭いがして、それでいてどこか不快だった。
元々他の生徒たちに好かれていたわけではないから、嫌がらせの一環で、もしかしたら、私の机と椅子はなくなっているかもしれないと思ったけれどそれも杞憂だったようだ。数ヶ月前と何ら変わりなくそこに並んでいる。
らくがきもされていないし、花が置かれているなんてこともない。
なぜかしんと静まり返っている教室の中を横切って、自分の席に向かった。
数ヶ月も寝込んでいたからすっかり体力が落ちていて、ただ椅子を後ろに引くだけの動作にも力がいった。
椅子の足がぎぎっと床を擦る音が妙に響く。
ふう、と息をついてから座り込んだ。
そうして落ち着いてからふと見回せば、クラス中の生徒が私を注視していたことに気づく。
何か、おかしなところがあるのだろうか。
篠原で用意してもらった真新しい制服に視線を落とす。
皺一つないそれは着せられている感が半端ないが、私にはどうしようもない。
休学する前よりも少しは肉がついたと思うのだが、まだ、みすぼらしいのだろうか。
それとも首に残った傷跡が予想外に目立っているのかもしれない。
今までは気にならなかったのに。
なぜか、今日は自分の姿が気になって仕方なかった。
「何で、アイツが光成さんとか三波君と一緒なわけ」
その時、耳に飛び込んできた甲高い声音とその言葉。
それで納得した。
ああ、そうか。
私は恥ずかしいのだ。
こんな自分が、恥ずかしいのだ。
あの目立つ人たちの隣に立つ自分があまりに貧相で。
自分の足で立つことも歩くこともままならない私は、みっともなくてあまりに惨めだ。
この貧弱な体は支えを失えば途端に倒れてしまうだろう。
彼らに手を引いてもらわなければ真っ直ぐ歩くことさえできない。
羞恥心なんて失ったと思っていた。確かにそうだった。
篠原の人間に対しては未だにそうだ。
お風呂だって入れてもらうし着替えだって手伝ってもらう。裸を見られたって平気だ。
あの閉ざされた屋敷の中で、私は、羽毛に包まれるようにして守られていた。
起き上がることさえままらない私を抱きかかえて手ずから食事を与えてくれて、
何度も吐き戻す私を心配して夜中でも嫌な顔一つせずに付き添ってくれた。高熱が出れば当たり前のように熱心に看病してくれて、私自身が何度も諦めようとしたのに、彼らは決して諦めなかった。
その優しさに、生かされたのだ。
そんな彼らに対して羞恥心など抱くはずがない。
神を前にして己を恥じるのは、良くないことだ。それを自分自身が許さない。
だとすれば、私はなぜ今、自分を恥じているのだろう。
なぜ、彼らと対等ではない自分を、恥ずかしいと思うのだろう。
落とした視線の先で自分の膝が小刻みに震えているのが見えた。
何かが剥がれていく気がする。
彼らに出会う前の私は、こんなにも弱かっただろうか。
呼吸が、浅くなる。
誰か。
誰か。
「……良かった、来たんだね」
ふと、机の上に影が落ちてそんな声を掛けられた。
顔を上げれば、眼鏡を掛けた男子生徒がこちらを見下ろしている。
荒くなっていた呼吸を口の中でかみ殺す。平然を装ってその顔を眺めていれば、眼鏡の奥の切れ長の目が少しだけ柔らいだ。…ような気がした。
「廊下から、座ってるのが見えたから。怪我は大丈夫?」
「……」
優しい声で話しかけられても、どの怪我のことを差しているか分からない上に、知らない顔の人間だった為、ふつふつと警戒心が沸く。
クラスメイトだろうか。それとも、誰かの友人が遊びに来ただけなのだろうか。
けれど、視線を巡らせて見ても、教室の中は俄かにざわめきを取り戻しただけでこちらに寄って来る人間など一人もいない。
先ほど注目されていたのが嘘のように全員が我関せずといった素振りだ。
視線を戻し、机を挟んで正面に立つ男子生徒を黙ったままその顔を見つめていると、彼はやがて苦笑を浮かべた。
「……無事だったんなら良いんだ」
と一つ肯き、名乗ることもなくそのまま教室を出て行く。
どうやら他のクラスの生徒だったらしい。
わざわざ私の様子を見に来たのだろうか?そう思って、いや、そんなはずはないと思い直す。
そんな奇特な人間が居るはずがない。
去っていく背中を視線で見送り、いつの間にか収まっていた震えにほっと息をつく。
強く握り締めていた拳をそっと開いて手の平に浮いた白い爪痕を眺めた。
そして、無意識にも『誰か』に助けを求めた数分前の自分を思い出す。
私は、いつだって追い詰められていた。その感覚はあった。
崖の上の一番端に立ちながら、自分で飛び降りるほどの勇気はなく、誰かがその背を押すのを待っていた。
いっそのことそうなれば良いと思っていた。その方が楽だと。
だから、誰かに助けを求めたりはしなかった。
―――――それが今。
私は確かに誰かを求めた。
手を、伸ばそうとした。
駄目だ。
こんなことでは、駄目だ。
だって、知っているではないか。
この手の先には誰もいないんだってことを。
この手は誰にも掴んでもらえないのだということを。
だから、慣れてしまっては駄目なのだ。あの人たちの優しい手に、縋りついたままではいけないのだ。
ほんの一時、気まぐれに与えられただけの温もりに裏切られる痛みを、嫌というほど知っているから。




