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例えば、そんな現実で。2

「食べないのか、杏」


問われた言葉にびくりと肩を震わせて顔を上げれば、孝仁が心配そうにこちらを見ていた。

その顔を見ていれば「ん?」と目元を柔らかくする。


「食べて、いいの?」


問えば、白石が後ろから「あたりまえでしょう」と冷たい声で返してくる。

いや、実際は、冷たいのではなく、ただ単に、声色に感情が伴わないだけなのだが。


「それはお前の分だ、杏。ちゃんと『いただきます』して食べるんだぞ」


まるで小さい子にでも言い聞かせるように孝仁が言う。

言われた通り、手を合わせて「いただきます」と呟くのだが、その一連の仕草が何だか不思議で思わず首を傾ぐ。

自分の家で、ご飯を食べる前にそんなことをしたことはない。

母とその愛人が食べ残したものを、一人で、食べていたから。


ふと見上げれば、孝仁が楽しそうにこちらを眺めていた。


「坊ちゃん、視姦は駄目ですよ」

「卑猥な言い方してんじゃねーよ」


篠原の屋敷に運び込まれてから既に数ヶ月が経過していた。

一時は生死さえ危ぶまれたようだが、少しずつ、なだらかな線を描くように私の体調もだいぶ回復している。最近やっと普通食になったところだった。

最初の1ヶ月は意識が朦朧としていて、夢と現実をいったりきたりしていたので現状の把握というものが難しかったのだが、最近は、白石がかなりおおざっぱにぼんやりと概要だけ説明してくれたので、何とか自分の置かれている状況が分かるようになった。

白石いわく、孝仁は篠原本家の長男。光成は次男で、三波は光成の友人。篠原の家はかなり裕福で、土木を中心にかなり手広く事業を展開している。私が間借りしている屋敷は篠原本家で、ここには篠原一家と数名の腹心の部下が住み込んでいる、ということだった。

そして、孝仁には悪い癖があって、とにかく色んなものを拾ってくるので困っていたと。

さすがに人間を拾ってきたのは初めてでしたが、と冷笑を浮かべた。

その顔を見て、きっと迷惑だったんだろうなと視線を下げれば、顎をぐいっとつかまれて、

『貴女は何も考えずにいていいんですよ。全ては、坊ちゃんがうまく取り計らってくれますからね』とまた冷たい顔で笑った。

「うまく取り計らう」というのが何に対してなのかは分からなかったが、考えてもどうせ分からないことなのだろうと、ただ、こくりと肯いた。お人形みたいに。


「ほら、全然食ってねーじゃねーか」


いつの間にやら私の正面に座した孝仁が箸につまんだジャガイモのかけらを差し出してくる。

とっさに口を開こうとして、すぐに閉じた。食べたくないわけではないのだ。

ただ、食べた後にまた吐くかもしれないという懸念が私の唇を固く閉ざす。


「駄目ですよ、坊ちゃん。無理やりは」

「だがよー、白石。こうでもしねぇと食わねーだろ」

「そうですねぇ。でも、急ぐ必要はありませんよ」


目の前でゆらゆらと揺らぐ箸を何となく目で追っていると、


「おやめなさい孝仁。行儀の悪い」


お盆にお茶を載せた早苗が双眸を細めて立っていた。

この屋敷に連れてこられた初日に孝仁と話していたこの女性は、正真正銘、孝仁の母親だ。

仕事で忙しくしていたのよ、と、再び合間見えたのは数日前になる。


「はい、杏ちゃん。お茶用意したからお飲みなさいね」


繊細な指がことりと湯のみを座卓に置いた。

相変わらずの和装で、膝を付く何気ない仕草でさえ所作が美しい。

孝仁のものとよく似ている纏め上げた豊かな黒髪から落とした一房がはらりと肩に落ちた。


「杏、お袋なんて見てないで良いから飯を食え」


指摘されて、彼女に見惚れていたことに気づく。


「あらあらあらあら、まあまあまあまあ」

「あらあらまあまあ、うっせーよ」

「まあまあまあまあ」

「だから、うっせーつーの」

「だって孝仁、可愛いじゃない。私のこと見てたの?可愛いじゃない。可愛いわ。とっても可愛い」

「可愛い可愛い、うっせーよ」

「坊ちゃんも奥様のこと言えませんよ」

「どういう意味だコラ」

「そのままの意味です」


孝仁が白石と軽口を叩きあっている間に、早苗が私の横にそっと座った。

座布団もないまま畳に座したので、自分の座布団を空けようとしたのだが片手を膝に軽く置かれて制される。

うふふ、と小さく笑った早苗が私の持っている箸を取り上げた。

それをただ眺めていることしかできない。

……やっぱりこれは私の為のご飯じゃなかったんだ。

ほっとしたようながっかりしたような、よく分からない感情のまま、はあと小さく息を吐き出した。

お膳の上には、煮付けと焼き魚とご飯とお味噌汁、添え物に佃煮が行儀よく並んでいる。

ぱっと見ただけでも誰かが丹精込めて丁寧に調理したものだということが分かった。

そんな食事が、私の為に用意されたものだなんて、そんなことがあるはずない。


「こらこらそんな顔しないの。ほら、はい、あーん」


つんつん、と切り分けた魚の白身で唇をつつかれて思わず口をあけると、そこにポイと投げ込まれた。

口の中に広がる魚の臭い。こみ上げる吐き気に、思わず、うっと胸をおさえた。


「やっぱり駄目そうだな」


いつの間にか私を見守る体勢をとっていた孝仁が僅かに眉根を寄せる。

飲み込まないと、そう思うのに喉にふたがされてしまったみたいに、ごくりと咀嚼できない。


「杏ちゃん、無理しなくて良いのよ。吐き出しなさい」


そう言って早苗が差し出したのは自分の手だった。

真っ白な手の平に血管が浮いているのが分かる。そんな綺麗な手に、自分が口の中に入れたものを吐き出すことなんてできない。

これは新手の嫌がらせなのだろうか。

視界が段々、歪んでくるのが分かる。

それが感情的なものなのか生理的なものなのかは分からなかったが、ひくりとしゃっくりみたいな音が漏れた。


「杏ちゃん、大丈夫だから口を開けなさい。飲み込めないものを無理して口に入れている必要はないのよ」


ふわりと顎をさらわれて、その細い指先が私の唇をそっと割ってくる。

ぎゅっと歯を噛み合わせて、思わず孝仁に視線を向けると、彼は座卓に肘を付いて気だるげに言った。


「いいから出せ、杏。お袋も指を突っ込むな」

「あらあら、卑猥な言い方ねぇ」

「アホなことを抜かすな」

「うふふ」


そんな親子の会話を聞いていると突然、背中を何かに撫でられて思わず口を開けた。

振り返ろうとした私の体を早苗が優しく抑えて、口の中に指を入れられて、するりと舌をさらわれる。

あ、と思ったときには既に遅く、魚のかけらを取り出された。


「おーナイスプレー」


にやりと笑った孝仁が私の背後に視線を送っている。

白石が「私と奥様の仲ですからね」と淡々と返した。背中を触ったのは彼のようだ。


「お前、そんなこと言ってっと親父に殺されるぞ」

「そうですね、それは怖い」

「あらあら大丈夫よ、私がきちんと説明しておきますからね」

「ありがとうございます」

「いや、そーじゃねーよ。お袋と白石はそもそもそういう関係じゃねーだろ」


一度他人の口に入ったものだというのに、嫌悪感を示すこともなく魚を欠片を指でつまんでいる早苗。

どうするのかと思えば、そのまま自分の口に入れて飲み込んだ。

目の前でとんでもないことが行われて、呆然と早苗の顔を見返すとにっこりと微笑まれた。

それを見ていたら、この美しい人にとんでもなく悪いことをしたような気がして途端に血の気が引く。


「あらあら、そんな顔をして。大丈夫よ、ちゃんと杏ちゃんが食べられそうなものも用意してるから。今、無理するともっと食べられなくなっちゃうわ」


私が食べ物を奪われたことにショックを受けていると勘違いしたらしい早苗が少し首を傾げて言った。


「ち、違います」


思わず、否定の言葉を口に出して、しまったと思ったけれど一旦外に出た言葉は戻らない。

一瞬にして全員がこちらを注視した。見られていると思うと途端に言葉が出なくなる。

はくはくと空気を噛むように唇を動かしていると、


「急がなくても良いですよ、杏。」


白石から淡々とした声を掛けられる。

その声音に気分が落ち着いて、


「誰か、別の人のものだったんじゃないですか?」

「……はい?」

「私、人のものもらったのに、ちゃんと、食べられなくて」


美しいお皿の上に飾られている料理はもはや芸術品だ。

きっと本当は、私以外の誰かの為に用意されたものだったのだろう。

聞きたかったことをやっと口に出すことができた。

すると、正面に座っている孝仁が僅かに目を瞠って少し困ったような顔をした。


「さっきも坊ちゃんが言いましたけど、この食事は杏の為に用意されたものです。別に、杏が誰かのものを横取りしたわけではありませんし、その食事を粗末に扱ったわけでもありません」


白石が、やはり感情の乗らない声音で説明してくれる。

励ますようにぽんぽんと背中を叩かれた。


「だいたいお袋が余計なことするからだろ。もういいからさっさと出てけよ」

「まあまあまあまあ」

「あんだよ」

「独り占めはいけないわよ、孝仁」


ほんの少し声をトーンを落とした早苗が、さっきまで浮かべていた微笑を消して言った。

笑っていない顔を見ていると、目も鼻も口も孝仁によく似ている。


「独り占め?馬鹿言うな。俺はこれでもかなり譲歩している」

「ええ、そうね。いつもの孝仁に比べれば」

「俺はいつも、博愛主義だ」

「良く言えばそうだけれど、それは何にも執着がないということでしょう?

たまに何かに執着したと思えば、潰れそうなくらいに抱き込んで」

「さすが奥様、その通りです」

「余計な口を挟むんじゃねぇ、白石。」

「申し訳ありません」

「白石に当たるんじゃありません、孝仁」

「お袋も黙っとけよ」


孝仁が珍しくむっと双眸細めた。

すると、そのとき、


「失礼します、卵粥お持ちしました」


何だか分からないが一触即発とも言える雰囲気の中に硬い声が割り込んだ。

声がした方に視線をむければ、襖がすらりと開かれる。

廊下に膝をついた橋本が頭を下げてお盆を部屋の中に置いた。

お盆の上には小さな茶碗が一つ。


「いや、お前も中に入れ」


そのまま襖を閉めて立ち去ろうとする橋本に孝仁が声を掛けると「はあ」と気の抜けた返事をして、橋本が再びお盆を手にして中に入ってくる。

体格が大きいというのに足音一つしない動きを何となく目で追ってしまう。


「あら、美味しそう。お粥もねぇ、硬さの按配が難しいのよね」


座卓に音もなく置かれた茶碗を早苗が手にとって、ふわりと笑う。

先ほどまで漂っていた変な空気は既に散っていた。


「このお膳のことは気にしなくて良いのよ。余ったら誰かが食べるんだから。ね、橋本」

「はい。有り難く頂戴します」


座卓に茶碗を置いて、いそいそと部屋の隅に戻った橋本が頭を下げる。


「お前が食うのかよ」


あーあ、と言いながら孝仁があぐらをかいたまま背中を伸ばしている。

「私もお相伴に預かりましょう」

しれっとした顔で白石が言って、私の前に置かれていた膳を座卓の端に避けた。


「杏ちゃん、これならちょっとは食べられるんじゃない?」


お茶碗から小さな蓮華でお粥をすくった早苗が首を傾いだ。

湯気をたてているそれに、ふうと息を吹きかける。


「はい、あーん」


当たり前のように、赤い蓮華が目の前に運ばれてくるのだが、やはり口が開かなかった。


「お袋はもう、頼むから席を外してくれ」


心底疲れきった様子で孝仁に言われて、早苗は品良くため息をついた。


「馬鹿ねぇ、こういうのは母親の役目でしょう?」

「いや、母親じゃねーから」

「あら、私は正真正銘、孝仁の母親のつもりだったけど?」

「いや、確かに俺の母親で間違いねーけど、今はそういう話してるんじゃないだろ」

「あらあら、じゃあどういう話なのかしら?」

「うぜー・・」

「あらあらまあまあ」

「マジでうぜー・・」


孝仁のことを軽くあしらいながらニコニコと微笑んでいるその姿は、容姿だけすれば、優しくて美しいのに、孝仁によく似ているその眼差しはどこか鋭さを帯びている。

時々こちらに向けられる観察しているような目は気のせいではないだろう。

私は、あの目を知っている。


ふと、早苗が、孝仁から私のほうに視線を移したので、思わず俯いてしまった。

悪いことをしているわけではない。だけど、私は、この家にとって「良い存在」ではない。


「奥様、お時間です」

「――――分かったわ、ここは男性陣に任せるとしましょう。いいこと?しっかり食べさせるのよ」


白石の時間を告げる言葉に肯いて、座るときと同様に、和装とは思えないしなやかさで立ち上がった早苗がニコリと笑みを浮かべて私以外の人間に視線を向けた。


「かしこまりました」


返事をしたのは橋本だけだったけれど、孝仁も白石も重々しく肯いている。

「じゃあまたね、杏ちゃん」部屋を去るそのときに、ふわりと頭を撫でられた。

毎日きちんとお風呂に入れられて、サラリと軽くなった髪が揺れるのを心地よく思う。

うっかり気を抜きそうになったところに掛かる声。


「本当に、可愛いこと」


ぽつりと落とされた言葉の真意は知らない。

優しい声だった。空気を含んだ、今にも溶けてしまいそうな声だった。

だけど、それだけではない声だった。


そう、だって、あの目は。

何かを判じようとしている目、だ。

是か、非か。善か、悪か。


―――――私が、何者かを見極めようとしている目なのだ
























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