ヒーローになれなかった少年の事情。
※初瀬祐視点
夜中に目を覚まして、その異常なほどの静けさに思わず眉根を寄せた。
耳を澄ましてみても、何の音も聞こえない。
ここは、こんなにも静かだったのだろうか。
時計を見れば、深夜1時を回っている。
普通であれば、この静けさは異常ではない。だって、夜中なのだから。
人間だけでなく、街自体が眠りについている時間帯だ。
それでも、この静けさが異常だと思うのは、隣の家から何の音もしないからだった。
最後に、そこから騒音が響いたのはもう数ヶ月前になる。
物が割れる音と男の怒鳴り声。確かに誰かに何かを言っているようなのに相手の声は聞こえなかった。
その音を耳にしたなら、誰もが何事かと思うだろう。
音源を探る為に家を飛び出してしまうほどの大きな音だ。
もしかしたら事件か何かかと、警察に通報する人もいるかもしれない。
けれど、隣の家に限ってはそうならなかった。
そんな音が響くのは日常茶飯事だったからだ。
はっと肩が震えるほどの激しい音がしているというのに、この付近に住む人間は、ほとんどが眉を顰めるだけだ。
ああ、またか。そんな顔をして、大抵の人間が知らぬフリを決め込む。
かくゆう己もそんな人間の内の一人だった。
カーテンを開き、低い位置にある隣家の屋根に視線を落とす。
我が家の庭が広い為に目を凝らさなければいけないが、そうすれば、隣の赤い屋根の下に2階のベランダがあるのが見えた。
『彼女』は時々、その小さなベランダに放り出されていた。
小さな体を、もっと小さくして、ベランダの隅で震えていた。
いや、震えていた、というのは単なる想像にすぎない。
ここからはかろうじて人がいるのが見えるくらいなのだから。
だけど、考えるまでもなく分かった。
あんな小さな体で寒さを凌ぐことなどできない。
吹きすさぶ風から身を守ることなどできやしない。
きっと、震えているに違いない。死ぬかもしれない恐怖に、おののいているに違いない。
勝手だけれど、そう、推察できた。
ここからじゃ、きっと声を掛けても届かない。
大丈夫?の一言さえ言えない。
親に、何とかしてもらおうか。
でも何て言えば良いかわからない。
親には、特に、父親には、隣とは関わるなと苦言を呈されていた。
対面を気にする父親のことだ。彼女、というよりは、彼女の母親に関する悪い噂が、我が家に与える影響を気にしていた。
隣に住んでいるだけでも、分が悪い。
そんな風に思っているようだった。
それでもベランダだけでなく、寝巻きのまま庭に放り出されている姿を何度も見てしまえばさすがに口を挟まずにはいられなかった。
一度、彼女と直接言葉を交わしてからは特にそうだった。
あのときは、ただ何となく、工事中の堀を越えて隣の家に侵入した。
行ってはいけないと言われた場所が、どんなところなのか単純に気になったのだ。
理由と言えばそれだけで、何かを深く考えて起こした行動ではなかった。
そこで彼女に会ったのは単なる偶然だ。
だけど、怪我をした両手が、土の上の素足が、単純に可哀想だと思った。
同じ年くらいだということは見れば分かったけれど、同じ幼稚園の子よりはだいぶ小さく、口も回らないようだった。あれでは、きっと助けを求められないに違いない。
母に「何とかしてあげて」と涙ながらに訴えれば、戸惑いつつも、さすがに放置できなかったのか児童相談所へ通報するという手段をとってくれた。
これで、あの子は大丈夫だと、ほっと息をついたのを覚えている。
事が公になれば、さすがに、常識というものをどこかに置き忘れてきたかのような彼女の母親も、素行を改めるだろうとそんな風に思っていたのだ。
それが、幼い自分の思い違いだということに気づいたのは、母に密告してから一週間と経たない夜だった。
我が家の玄関を、誰かが激しく叩いたのだ。
扉を開けたのは、幼い自分だった。
母が後ろから「開けちゃだめ!」と叫んだのを聞いた気がする。
だけど、既に扉は半分ほど開かれていた。
差し込まれるように入ってきた男の足は、挨拶もしないまま不躾に玄関内へ侵入する。
それを、ただ、ぼんやりと眺めていた。
入ってきた男が、いきなり「余計なことしてんじゃねぇよ!!」と怒鳴りながら、何か、銀色に光るものを振り回した。
目前を掠めたそれにぶつからなかったのは、母親が後ろから引っ張ってくれたからだった。
母の叫び声と、何が何だか分からないことを喚いている男。
あまりの恐ろしさに泣き出すことしかできなかった。
「いいか!今度余計なことしやがったら、お前も!そこのガキも!ただじゃすまねえからな!!」
どん、と足で蹴られて、軽い体が吹き飛んだ。
「祐!」「祐!」
母が泣きながら、俺の体を支えていた。
「いいか、警察なんかに通報するなよ。そんなことしたらどうなるか、分かってるよな?」
怯える母に、男が低い声で囁いた。
震える母の手が俺の体をぎゅっと握り締めて、「分かりました」と呟いた。
何が起こったか分からなかったけれど、その男が、最近、隣の家に出入りしている男だということは分かった。
それが分かれば、後は簡単に推測することができた。
彼の言う「余計なこと」をしでかしたのは母ではない。
――――――自分だ。
自分が余計なことを言ったのだ。
あの、隣に住む、小さな女の子を助けてあげて、と言ったのだ。
いとも簡単に吹き飛ばされた自分の体が恐怖に震えていた。
母の震えも相まって、一層、恐怖は大きくなった。
殺されるのかと思った。
男がこちらに向けた目は、そういう目だった。
怖い、怖い、怖い――――――
「だから、言っただろう。隣には関わるなって」
事の次第を聞かされた父親は、苦虫を噛み潰したような顔で淡々と言った。
その通りだと思った。
助けようとしたのに、助けてあげようとしたのに、こんな仕打ちは無い。
そう思った。
そんな風に思ってしまえば、可笑しなもので、彼女のことを庇護すべき存在だとは思えなくなった。
諸悪の根源、のように思ってしまったのだと思う。
あの子を助けようとしたせいで、こんな酷い目にあった。そう、思ってしまったのだ。
蹴り飛ばされたときの恐怖が、ナイフを突きつけられた感触が忘れられなかった。
あの子が、いつもこんな恐怖を味わっているのだという事実は置き去りに、目も耳も閉ざすことに決めたのだった。
そして、小学校入学式の日。
自分の口からとは思えない言葉が滑り落ちていた。
『汚い』『近寄るな』
それは、周囲の大人たちが彼女の母親に向けている言葉だった。
何で、あんな言葉が言えたのか、どうして、あんなことを言ってしまったのか、今となっては分からない。だけど、とんでもないことを口にしてしまったのだということは分かった。
彼女の、純粋に澄んでいた眼差しが、黒く濁る瞬間を確かに、目にしてしまったから。
そうしてしまったのが、自分だという自覚があったから。
自分で口にした言葉なのに、あの言葉を思い出す度に、心が痛めつけられるような気がする。
傷ついたのは自分じゃない。
痛みを負ったのは自分じゃないのに、なぜ、こんな思いになるのだろう。
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「今日も休みだって」
ぽつりと落とされた言葉に、思わず視線を向ければ、友人はどこか非難めいた眼差しでこちらを見ていた。
「何?そんなに気になるの?」
いらいらしながら書き込んでいたプリントを端に避けて聞いてみれば、
「気になるよ。もう2ヶ月も休んでる」
秀才と名高い友人「高岡」は、気落ちしたように前の席にどかりと座った。
背もたれを足で挟むようにして、逆向きに、つまり後ろに座っている俺と向かい合わせに座っている。
黒縁の眼鏡が嫌味なくらいに似合っていて、その向こうからの鋭い眼差しは、いつも他人の弱いところを真っ直ぐに見据えてくる。
「やっぱり打ち所が悪かったのかな・・」
ぼんやりと何か考え込むように言う高岡。
高岡は、廊下で杏が男子生徒からいわれない暴力を受けたことを知っている。
というよりは、この学校の全員が知っていると言ったほうが良い。
なにせ、多少なりとも「学園の王様」が絡んでいることなのだから。
――――――篠原光成。
彼は名実共に、この学園の王様だ。
成績は常に、学年トップ。リーダー気質で、彼がそこにいるだけで人が集まる。明るい性格なわけではないようだが、彼には人の心を動かす素質があった。
加えて、家柄がよく、篠原の実家である「篠原グループ」は土木を中心に手広く事業展開している超が付く大金持ちだ。
それに何より、あの容貌。
モデルもかくやという長身に整った顔。
王者の名にふさわしい人間だ。
そんな彼が、最近、気にかけている女子生徒がいる。
それが、杏だった。
杏が、篠原についてどう思っているかは分からないが、それが周囲の嫉妬と顰蹙、ついでに反感を買ったのは間違いない。
光成と親交を深めることができる人間というのはそれほどに価値があるのだ。
そんな人物が、よりにもよって、学園カーストの最下層ともいえる位置にいる杏を目にかけている。
篠原をどっかの宗教団体の教祖みたいに祀り上げている男子生徒も含め、篠原の恋人の座を狙っている女子生徒が黙っていないのは当然のことだと言える。
それでも今まで、暴力事件にまで発展しなかったのが、この学校が一重に全国でも有数の進学校だったからに違いない。将来のことを考えてこの学園を選んだ生徒が、輝かしいはずの将来に影を落とすような出来事を率先して引き起こすわけがない。
その代わり、絶対にバレないと自信があることは姑息な手段を使ってやりとげる狡猾さがある。
そういうことがわかっていたから、油断していたのかもしれない。
まさか、あんなに人目のある場所で杏が殴られるなんて思いもよらなかったのだ。
しかも、それをやったのが、自分の属するグループの人間だったから、驚きも倍だった。
何を使ったのか、素手ではなく物で殴っているところを目撃した。
慌てて駆け寄れば、杏は面白いほどあっけなく廊下に倒れこんだ。ろくな受身もとれずに、体を強く打ちつけたようだった。
平均よりもだいぶ小さな体が転がる様を見て、血の気が引いた。
助けようと、思ったのだ。
だけど、足が動かなかった。
何かしなければと思うのに、助け起こさなければと思うのに力が入らなかった。
そして、ただ見ていたのだ。
倒れこんだ杏を男子生徒が囲むのを。
『ビッチ!』『キモいんだよ!』『光成さんに近づくんじゃねえ!』『調子に乗ってんじゃねえよ!』
罵倒が飛び交って、ようやく半身を起こして俯く杏は無抵抗だった。
どんな顔をしているのかも分からない。ぎゅっと握り締めた右手が、白い床よりも、もっと白く青冷めて見えた。
『おい、聞いてんのかよ!!』
誰が何を言っているのかも分からず、何が起こるのかもわからない状況で、
―――――――リンチ
頭の中をそんな言葉が過ぎった。
そして、呆然としている内に、いつの間にか自分が、杏を囲む人間の一人になっていたことに気づく。
そうしようと思ったわけじゃない。ただ、流れでそうなってしまっただけで。
杏は、自分の足元に倒れていた。手を伸ばせば届く距離だった。
だけど、ある意味正気を失っている生徒たちの中で、自分だけが違う行動をとればどうなるか想像に容易い。
できない、助けられない。自分は、正義の味方じゃないから。
頭の中を、そんな言葉がぐるぐると回っている。
今でも、喉元に、ナイフが突きつけられているのではないかと錯覚する。
手を出すな、と誰かが、警告してくる。
『おい、何やってる!!』
そして、どのくらいの時間が経過したのか、やっと体育教師が現れた。
無意識に視線を巡らせれば、高岡がいて、
『最低だな』と、真っ直ぐな目で射抜かれた。
教師を呼んだのは、高岡だったようだ。
だから、だ。
高岡は、俺のことを軽蔑していて、それと同時に杏のことを気にかけている。
「保健の先生は、頭の傷は大したことないだろうって言ってたよ」
あの日、早退した杏のことが気になってもしかして救急搬送でもされたのかと思い、保健室へ確認しに行ったのだ。
養護教諭がこう言った。
『頭の傷は大したことないだろうと思うのよ、ただね―――――』
そのまま言葉を濁したが、俺には分かった。
他の人間には分からなかっただろう。養護教諭にだって詳細は分からなかったにちがいない。
けれど、杏の事情を知っている俺には、養護教諭が何を言おうとしていたのか手に取るように分かった。
杏は額以外にも怪我を負っているのだ。そして、恐らく、そちらのほうが重傷なのだろう。
廊下で殴られた前日は欠席で、その前の日は、いつもより激しい音が隣家から響いていた。
思わず、夕飯のおかずを差し入れだなんて誤魔化して様子を見に行ったほどだ。
足を、怪我していたようだった。
他にも、怪我していたところがあったのかもしれない。
養護教諭が示唆していたのはそういうことだったのだろう。
でも、やっぱり、自分は何もできなかった。
いや、違う。
知っていたのに、気づかなかったフリをして、何も、しなかったのだ。
幼い頃と何も変わっていない。
どれだけ肉体が成長しても、彼女を助けられるだけの勇気は持てなかった。
だから、あの暗い夜道で彼女の姿を見かけたとき、どうしてもそのまま行かせることができなかった。
馬鹿な俺は、まだ、間に合うのだと信じていたのだ。
血に塗れて、息も絶え絶えな彼女を前にして、それでも、未だに助けられると思い込んでいた。
『何で、今更』
静かな声だった。
だけど、悲鳴みたいな声だった。
苦しくて、どうしようもなくて、やっと搾り出したみたいな、絶叫に似ていた。
『助けてなんて、ほしくない』
遅かったのだと、今更、気づいて。
助けられる機会は何度もあったのに、あえて、見過ごしてきた。
自分の身が可愛かったから。傷つくのを恐れていたから。
――――――――ここには、救えるものなんて何もない。
ああ、そうだ。それは、俺が一番良く分かっていた。




