例えば、そんな現実で。
息が、できない。
「ごほっ、ごほごほっ、ぅえっ」
身動きさえできないから、胃から逆流してきた何だか分からない塊が喉に詰まる。
「杏!」
誰かに抱えられるようにして半身を起こされ、素早く体をひっくり返される。
バンバンと強く背中を叩かれて、口から、喉につっかえていた塊が飛び出した。
シーツに飛び散ったそれを見て、ただの液体だと知る。ほとんどが胃液だ。
その吐しゃ物にまみれるようにして、震える指がシーツを強く掴んでいる。骨と皮だけの枯れ枝みたいな指だ。
それが自分のものだと理解するのにしばらくの時間を要する。
吐き気は酷いのに、手足の感覚はほとんどなく、気分が悪いと思っている自分がいるのに、その肉体を受け入れることのできない自分もいる。
相変わらず、胸には分厚い何かが巻かれているし、左腕も動かないように固定されている。
「ぅ、うえっ・・」
伸ばすことのできない胸のあたりを触って、胸の下に巻かれているのがコルセットであることを思い出した。何日か前に説明されたはずだ。
「杏、息、できるか?」
聞き覚えのある低い声が、感情を押さえつけるような低い声で問う。
ただ肯くだけで精一杯の私の体を、掬い上げるようにしてその大きな体の上に乗せた。
抱えられて、その人がスーツを着ていることに気づく。
はあはあと息を整えながら見上げれば孝仁が何かを耐えるような顔をしてこちらを見ていた。
相手が、自分に攻撃するような人間ではないことが分かり、強張っていた体から力が抜ける。と、同時に、鼻腔を甘い臭いがかすめた。
女性がつけるような甘い香水の臭いだ。
それにまた触発されて吐き気が襲ってくる。
思わず、孝仁の胸を押していた。
「杏?」
「は、く・・ぉえ・・うっ」
背中をさすってくれようとしているのだが、いかんせん漂ってくる匂いが駄目だ。
「くさい・・こうすい・・」
そう言いきってから、また布団に黄色と茶色の混じった液体を吐き出した。
「坊ちゃん、ジャケットに女性物の香水が染み付いてます」
「あ?何だよ、早く言え」
ちっと舌打ちしてからジャケットを脱ぎ捨て、遠くに放り投げる。
皺一つない白いシャツだけになった孝仁に再び抱きかかえられた。
「言っとくがあの香水は俺の趣味じゃない。単なる移り香だ」
「ほうほう、臭いが移るほど女性の近くにいたんですね?」
「誤解を真似く言い方をするんじゃねーよ。エレベーター、そう、エレベーターでついたんだ」
「二回繰り返すところが怪しいですし、本日は一度もエレベーターには乗っておりませんが」
「話を混ぜっ返すんじゃねーよ。杏が誤解する」
「大丈夫です、どこで臭いがついたかなんてさほども興味ありませんから」
「馬鹿言うんじゃねー。杏は俺の一挙手一投足気になって仕方ないはずだ」
「ははは、ワロス」
「お前、そんな言葉どこで覚えたんだよ!」
布団には吐き出した吐しゃ物が残っているのに、孝仁はそんなのはお構いなしに、私の汚れた顔をぐいぐいとハンカチで拭き取りながら座り込んだ。
白石は、その脇に、控えるようにして正座している。
ぴんと伸びた背筋が美しく、彼だけ別世界にいるようだ。
「せっかく少し食べられたのに吐いちゃいましたね」
「そう言うなよ。また食べりゃぁいいんだから」
「確かにそうですが、栄養になる前に吐いてしまっては食べる意味がありません」
「まーな」
「スポーツドリンクも吐いてしまうようですし、和久井医師の助言通りしばらく入院させては?」
「おー」
「点滴ならここでもできますが、やはり万全を期すためにもそうしたほうが良いと思います」
「あー」
「誰かが付きっ切りで見ていると言ってもプロではありませんからね。この部屋では不測の事態に対処できません」
「おー」
「坊ちゃん、聞いてませんね?」
「おー」
「・・・」
二人の会話を聞きながら何となく白石を見上げると、うっすらと笑みを刷いて、
「取り上げてしまいましょうかね」
と、ひんやりとした声音で言った。
「おい、やめろよ。お前が言うと洒落にならん」
「シャレではありませんからね」
「悪かったよ、だって、ほら見てみろよ。すげー可愛いだろ」
「嘔吐して苦しむ様子を見て喜ぶ、とんだドSですね?」
「ばっかちげーよ。この涙目の顔とか、俺にすがり付いてくる手とか、このちっこい体とか、ぎゅっと丸まった足先とか」
「ストップ、ストップです坊ちゃん。犯罪の臭いがします」
「何でだよ、現代日本で可愛いは正義だ」
「現代日本がどうのと言うよりも私は坊ちゃんの人格というか性癖というか、そう、性癖が心配です」
「何で二回言うんだよ」
「非常に、非常に気になったところなので」
「だから何で二回」
まだ半分、夢の中にいるような心地で二人の会話を聞き流す。
何度も夢と現実をいったりきたりして、ここ数日で、混乱していた頭の中が少しずつ整理されてはきたけれど未だにぼんやりとしてしまうことが多い。
それでも、だいぶ正気を取り戻していた。
今では何となく、こちらが現実だと分かる。
それほどに、彼らは傍にいて尽くしてくれたのだ。
食べ物さえ受け付けられず、流動食さえ何度も吐き戻す私の存在は、他人であれば絶対に面倒だと思うはずのに、必ず誰かがが付き添って世話をしてくれた。
今現在も、なお。
そして、いつ目を覚ましても必ず誰かが傍にいて、一人きりじゃないと教えてくれる。
「どちらにしても、いつまでもこのままでいるわけにはいかないでしょう。
明日もう一度、和久井医師に診てもらってから今後の方針を決めましょう」
「ああ」
「とりあえず、汚れを落としたほうが良いですね。お風呂が沸いていますから入れてあげてください」
「そうだな」
「軽く流す程度ですよ。入浴は体力を使いますから」
その間にこちらを片付けておきますから、と白石は今まで正座していたとは思えない優雅な仕草で立ち上がり、廊下に面するふすまを少しだけ開けて誰かに声を掛けている。
孝仁は抱えた私をそのままに、ゆっくりとした動作で立ち上がった。
「次、風呂入れるときは光成に声掛けるって約束したからなぁ」
ぽつりとこぼしてそのまま廊下に出る。
白石は部屋に残るようで付いてこなかった。
代わりに、廊下で待機していたらしい橋本という男が何も言わずに後を追ってくる。
目が覚めたときに何度か目にしたことがある顔で、孝仁と白石、光成と三波、和久井医師以外で唯一、私の前に顔を出す男だ。
この屋敷は、確かに複数の人間の気配がするのに、私の前には決まった人間しか顔を出さない。
どうやら孝仁の母親らしい、最初に見た和服の女性もあれ以来見ていなかった。
運ばれてくる食事や日用品でさえ、部屋の前の廊下にいつの間にか準備されている。
姿が見えないのに、確かに誰かいる。それはまるで物の怪の屋敷のようで、実際、そういった風情もある。
だからこそ、夢の中だと勘違いしそうになるのだ。
いまだって長すぎる廊下を孝仁に抱えられて進んでいるが、誰にも会わない。
これだけ広い屋敷なのだから、家族だけが居を構えているとは考えにくい。実際、橋本は住み込みで働いているようだし、他の人間の気配も、確かにある。
「孝仁」
やがて、浴室の前の廊下に出ると、そこで光成が待っていた。
フードの付いた紺色の上着に中はTシャツを着ている。普段着のようだが外出する為の服ではないようだ。
そもそも今は何時頃なのだろうか。
夜なのは分かるが、夜中ではない気がする。
「おい、誰だよ。光成に密告したのは。お前か橋本」
「いいえ、恐らく白石さんかと」
「くそ、白石め」
光成は微笑みを浮かべて孝仁に向かって両手を差し出した。
ふい、と私を抱えたまま上体を逸らせる孝仁。
「『兄貴』抜け駆けは駄目だよ」
背後から光成の声が聞こえる。
あくまでも優しい物言いなのに、なぜか有無を言わせない迫力がある。頭の上でチッと孝仁が舌を打った。
「長風呂禁止だからな」
「ああ、分かってる」
「くそ」
悪態をついた孝仁が私の体を荷物みたいに光成に受け渡す。
突然のことに思わず、光成の首にしがみついた。
力強い腕がしっかりと私の体を支え、上体を安定させる。ほっと息を付くと、
「杏、男は皆、狼だからな。油断するなよ」
噛んで含むような物言いで孝仁が私の髪を撫でる。
「孝仁が言えたことじゃないな」
「確かに」
「認めるのかよ」
「事実だからな」
体力がなくてぐったりと光成にもたれかかった私の体を揺すり上げて抱えなおし、光成は、耳元でふ、と息を落とした。
「こんな時間に風呂ってことは、また、吐いたのか?」
「ああ」
「何か、また軽くなった気がする・・」
「そうだな、明日、和久井のじいさんに診てもらうから」
「入院、させるのか?」
「白石はそっちのほうが良いと言っている」
私の背をぽんぽんと軽く撫でながら洗面所に入る光成を追うようにして、孝仁と橋本が付いてくる。
「孝仁もそう思ってるのか?」
「入院させたとしてもどうせ大したことはできんだろう。病持ちってわけじゃないんだからな。
ここで受ける治療と変わらないだろう。ただ、病院に居れば不測の事態に対処しやすいというだけで」
「不測の事態に対処しやすいのなら、それに越したことはないんじゃないか?」
「それはそうだが、この状態で不測の事態が起こるというのは、最悪なことが起こるっていう意味だ」
「死ぬかもしれないということか?」
「そこまでは言ってないだろう」
「じゃあ、どういう意味だ」
憮然とした物言いの光成に、少しだけ驚く。
学校では酷く大人びて見えた彼がどこか幼く見えた。
「質問ばっかりだな、光成。ガキの頃に戻ったみたいだ」
「・・・」
何となく不穏な空気が漂った気がして視線を彷徨わせると、入口のところに控えるようにして立っている橋本と目が合う。
切れ長の双眸には何の感情も見えない。思わず見入っていると、
「うちの子を誘惑するな、橋本」
私の視線を遮るように、孝仁が橋本の前に立つ。
見たところ、橋本よりも年上だと思わせる孝仁だが、体格はだいぶ橋本のほうが勝っている。
取っ組み合いにでもなれば、孝仁の方がねじ伏せられる気がした。
それでも、橋本は絶対に孝仁に逆らったりすることはない。
「申し訳ありません」誘惑するような顔でもなかったというのに、橋本は棒読みで謝辞を表明した。
「狭量だな、孝仁」
私の着ているシャツとズボンを手際よく脱がせながら光成がくつくつと笑う。
胸のあたりに巻かれていたコルセットも器用に外して、腕の包帯の上にビニールを巻いている。
いつの間にか張り詰めたような空気は霧散していた。
「当たり前だろう。それは俺の猫だからな」
『それ』のところでほとんど裸になっている私にちらりと視線を送る孝仁。
間髪いれずに、
「俺のでもある」と言いつつ光成が私を抱き上げた。
「確かに」
浴室の引き戸をがらりと開け放つと、
「流すだけにしとけよ」と孝仁が念を押してから、橋本と共に洗面所を出て行った。
この家に来てから既に何回か入浴していたのでさしたる動揺はない。
私をお風呂に入れるのはもっぱら孝仁で、たまに白石が入れることもあったが、彼らの誰も私に性的な関心を示したことはなかった。
さながら、幼児をお風呂に入れるのと同じ感覚なのではないだろうか。
もしくは老人介護のようなものだろうか。動物を洗う仕草にも似ているような気がする。
さっきは『男は皆、狼』なんて言っていたけれど、彼らが私に向ける眼差しは、母の愛人が母に向ける目や、その男たちがごくたまにこちらへ向ける欲の混じった目とは違う気がした。
実際、彼らの内の誰も、私を入浴させるときに自分の服を脱ぐことはなかった。
一方、私のほうは、と言えば。
この屋敷に連れて来られてから、自分の中の何かがごっそり抜け落ちてしまったような気がしていた。
それは例えば、羞恥心というやつで、よく知りもしない男たちに服を脱がされても何も感じなかったのだ。いや、何も感じなかったというのは語弊がある。
恥ずかしいという気持ちが沸いてこなかった自分に、少なくとも驚きはあった。
アダムとイブが善悪の実を食べて、初めに得たのが羞恥心であったなら、それを失った私は、一体、何になったというのだろう。
「杏、大丈夫か?」
背中にちょうど良い湯加減のシャワーを当てながら光成が聞いてくる。
正面に置かれた縦長の曇った鏡に、光成の顔が映っている。
肯くと、光成は大きな手の平で私の肩をこすった。
ビニールをまいているとは言え、腕が濡れないように気を遣っているのが分かる。
嫌な顔をせず甲斐甲斐しく面倒を見てくれる光成をぼんやり眺めていると、
「なあ、杏」
私の背後に映りこんだ光成がおもむろにしゃがみこんだ。
フックにかけたままのシャワーヘッドから出っ放しのお湯が光成の頭に降り注ぐ。
ざあざあという音が雨みたいに浴室内に響いていた。
「もし、死ぬんだったら俺を殺してからにしろよ」
暗い眼差しが射抜くように鏡を見ている。
げっそりと痩せた貧相な私の顔が、その琥珀色の目を見返した。
「もう、お前を失ったら生きていけない」
水音にかき消されるように呟かれた声は確かに私の耳に届いていた。
光成の目には、肉欲は灯っていない。
だけど、それ以上の何かがある気がする。
そう思うと、ごっそりと抜け落ちてしまった「何か」のところに、他の何かが芽生えてくる気がした。
そして、そんな予感に、全身が震えた。




