例えば、そんな夢の中で。
沈む、沈む、沈む。
どこまでも沈んでいく。
もう、浮かび上がることはない。
もう、浮かび上がりたくはない。
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「目が、覚めたか」
薄暗い室内で、ふわりとミントのような香りが漂う。
見上げれば、染み一つない天井と凝った造りの欄間が見えた。
どこかで見たことがあるような広い和室で、私は、感触の良いふんわりとした羽毛布団に包まれている。
温かいはずなのに体の底は冷えていて、だけどそれと同時に、額に汗が浮くほど熱い。
寝返りを打とうとして、腰から胸にかけて何か分厚いものが巻かれていることに気づいた。
それが邪魔して身動きできない。外そうと腕に力を入れてみるも、肩から背中にかけてビリッと電撃が走ってうまくいかなかった。
はあ、と大きく息を吐き出して、そう言えば誰かに話しかけられたのだと気づき、声のしたほうに視線をめぐらせれば、あぐらをかいて座る男が一人。
横になっている私の顔を覗き込むように、前かがみになってこちらを見つめている。
琥珀色の瞳が、開け放たれた窓から差し込む月明かりを映しこんで鈍い光を放つ。
思わず目を細めると、鏡に映したかのように、その人も目を細めた。
見たことのある顔だ。
ああ、そうだ。確か、学校で「光成」と呼ばれていたはず。
「熱が高いんだ」
そう言いながら、慣れた仕草で私の額を冷たいタオルで拭っていく。
「何でここに」とか「私はどうしてしまったのか」とか「家に帰らないと」とか、色々思い浮かべてはみるけれどシャボン玉みたいにパチンと弾けて言葉にならない。
確かに、何かを言おうと口を開くのに、声が出てこない。
ああ、そうか。これは夢だからか。
知らない男が助けてくれたり、学校で何度か顔を合わせただけの「光成」や「三波」が出てきたり、不思議なことだと思っていたけれど、これが夢なのであれば辻褄があう。
夢だからこそ、不思議なことが起こるのだ。
だけど体調だけはやけにリアルで、狭くなった気道がひゅうひゅうと音をたてているのが分かる。
ぷかぷかと水に浮いているような心地で、ぼんやりと、ただ光成の顔を見つめていると正面から視線がかち合った。
近くで見れば、異国の血でも混じっているのだろうか、全体的に色素が薄いことが分かる。
風もないのにふわりと揺れる、金色の髪が星くずみたいにきらめいて酷く眩しい。
何度か瞬きを繰り替えしていると、その髪が滲んでぼやけてくる。
目がおかしくなったのだろうかと思えば、だんだんと距離を縮めてきた形の良い唇が額に届いた。
ひんやりとした感触が心地よくて思わず目を閉じると、
「まだ夜中だから、ゆっくり眠ってろ」
大きな手が頭を撫でる。
うとうとと意識が落ちかけたところで、これが夢なのだとしたら、眠りに落ちたとき私はどこにいくのだろうと思う。もしかして、現実に戻るのだろうか。
慌てて両目を開くと、少し驚いた様子の光成と再び目が合った。
眠りたくない。
そう伝えようと思うのに、やっぱり言葉が出てこない。
唇は確かにそう動いたはずなのに全然うまくいかずに、実際は、口の端がぴくりと震えただけだった。
光成は、そんな私の言葉を、まるで聞き漏らすまいとしているように、口も挟まずに、ただじっとこちらを見据えている。針の一本さえも見逃さない、そんな真剣な眼差しだ。
私の言葉を、待ってくれている。
たったそれだけのことなのに、もう既に潰れてしまったはずのものが震えた気がした。
「杏、俺はずっとここにいるから」
だから、大丈夫。
そう言われた気がして、ますます目を瞑りたくなくなる。
夢から覚めたくない。だけど、そう思ってしまうのが怖い。
夢からは覚めるものだ。必ず、覚めるものなのだ。
そう思ったら、もう駄目で。
瞬きするのさえ怖くなった。
光成は、そんな私をしばらく見つめた後、おもむろにごろりと横になって目線を同じ高さに合わせてきた。とろりと溶けた宝石みたいな琥珀色の目がただただ真っ直ぐこちらを見ている。
一つも身動きしないまま、どれくらいの間そうしていたか分からない。
私たちの間には遮るものは何もなく、言葉もなく、ただ共有する時間だけがそこにあった。
心臓の音が聞こえそうな静けさの中で、やがて、大きな手が視界を遮り私の頬を優しく撫でる。
そして時々、額の傷を労わるように指先でなぞられた。
「杏、俺はここにいるから。だから、杏もここにいて」
どこか哀切に満ちた声が私の耳を震わせる。
ここにいたい。その目に映っていたい。その声を聞いていたい。
いつまでも目を開いて瞬きさえすることもなく、ずっとその顔を見つめていたい。
だけど、ここにはいたくない。
ここに居ては駄目なんだと誰かが知らせてくる。
鳴り止まない警鐘が、今でも遠くで響いている。
「お願いだ、杏」
どうしようもなく、ここにはいたくない。
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――――――――世界は悪意に満ちている。
だけど、それと同時に善意に満ちているものだと思う。
彼女は、熱意溢れる新任教師だった。
希望に満ちた眼差しで強い意志を秘めていた。
だからこそ、私という異分子が目についたのだと思う。
『杏ちゃんは本当はとっても頭が良いのね!よし、先生と一緒に勉強しよう!』
始まりはそんな言葉だった。
家に帰りたくなくて、放課後もだらだらと教室に残っていた私に声を掛けてきたのだ。
他には誰もおらず、教室の隅っこに座り込んで本を読んでいた私を目敏く見つけた彼女。
「頭が良い」なんて、今なら、勉強が遅れがちで授業の半分も理解できていなかった私に対してどんな嫌味だろうと思うところだが、どうやら彼女は本気でそう思っていたらしかった。
真摯な眼差しがそれを語っていた。
『一緒にゆっくりやれば大丈夫だから』
にこにこ笑うその顔には慈愛が滲み、首を傾ぐ私の頭を撫でて『一緒に頑張ろうね』とますます笑みを深める。
『授業は皆のペースに合わせて進めるから一人の生徒にはなかなか時間をかけることができないけど、放課後ならゆっくりと勉強できるわ』
当時の私には、先生が何を言っているのかよく分からなかった。
塾に通うのが当たり前の時代に、幼稚園にも通えず、平仮名も算数も知らなかった私は、言葉さえ遅れがちで、相手の言っていることが理解できないことがよくあった。
そのときもそうだった。
そんな私に周囲の目はますます冷たかったけれど、その教師は怒ることも悪態をつくこともなく何も言わず、ただ微笑みを浮かべ『貴女は皆より、少し遅れているだけなのよ』と優しい言葉を紡ぐ。
それでも首を傾ぐ私に、若い教師はそっと息を吐いた。
『その本、図書室の?』
座っていた私の向かいににこにこと笑いながら腰かけた担任は、読んでいた本をそっと覗き込んでくる。
話を変えることにしたようだ。
私が読んでいた本は幼児向けの、いわゆる童話で、同年代の子はとっくに卒業している本だった。
『面白い?』
問われて、また、首を傾げる。
面白いと思っていたわけではない。ただ、最初から最後までつっかえずに読めるのがそれだけで挿絵が気に入っているだけだったのだ。
先生はそんな私の心を知ってか知らずか『この教室には他にも本がたくさんあるから、あれが読めるように頑張りましょうね』と勝手に目標をたてて意気込む。
「あれ」と指差されたほうに視線を向ければ、教室の後ろの棚に掲げられた「学級文庫」というプレートが目に入った。
私が手にしている童話よりもずっと分厚い本が並んでいる。
あそこから本を取り出すクラスメイトを見たことはあったけれど、私にとっては他人事だった。見るからに難しいことが書いてありそうなそれらの本は、手にすることさえ躊躇させた。それを読んでいる自分を想像することさえできなかったのだ。
黙り込んでいた私の不安を読み取ったのか、先生はふわりと微笑みを落とす。
『大丈夫よ』と、ただそう言って私の頭を撫でた。
『何も心配しなくて良いのよ』と。
そうしてその日から、私と先生の、二人だけの放課後が始まった。
前年の担任から何か聞かされていたのか、彼女は余計なことをしなかった。
『家に帰りたくない?』と問われ、ただ首を振った私に何か思うところがあったようだけれど、それ以上は何も詮索されなかったと記憶している。
彼女が何を思ってそうしたのかは分からない。
だけど、私にとってはそのほうが都合が良かった。
前年の担任が余計なことをして、母の愛人から拳が返ってきたことは教訓として胸に刻まれていたから。
彼女は『何か困ったことがあったら言ってね』と気にする素振りは見せたけれど、家庭環境には口を出さないと決めていたようで、その後はただの一度も言及されなかった。
『杏ちゃん、明日の授業の為に予習をしましょうか。今日の復習もした方がいいわね』
ある日の放課後、彼女は私が持っていた童話を取り上げて、机の上に国語と算数の教科書を並べた。
知らずうちに顔をしかめていたのだろう。そんな私を可笑しそうに見て小さく笑った教師は、『理解できないから面白くないのよ。理解できればきっと面白いわ』そう言って、授業中よりももっとゆっくり丁寧に教えてくれた。
彼女の言うとおり、理解できれば、算数も国語もとても面白く興味を引いた。
段階を踏んで分かっていく自分が、それまで他人に蔑まれる一方だった自分が、何か違うものに変わっていく気がした。生まれ変わってくみたいに、自分を覆っていた皮が剥がれ落ちていくみたいに、内側から何かが生まれてくる。それを、実感していた。
それに何より、褒められたことなんてほとんどなかった私に、先生はいとも簡単に『素晴らしいわ』と言葉をくれた。
綺麗に整えられた繊細な指が、前日もその前の日もお風呂に入ることが許されなかった私のべたついた髪を撫でる。
ほんの躊躇いもなくそうした後に、『偉いね』と微笑む。
『よく頑張ったわね』と目を細めて、更には、時々、自分で作ったのだというお菓子を分け与えてくれた。
当時の私にとって、その放課後の時間だけが唯一の心休まる時間だった。
そして、知るのだ。
いかに自分が普通でなかったのかを。
優しくされて微笑みを与えられて、殴られたり蹴られたりしない時間を送って、そうしてくれる人がいることを知って、それと同時に、自分がいかに理不尽な環境にいるのかを少しずつ理解していった。
先生は毒を流しこむみたいに、ゆっくりと、常識を語る。
さりげなく私に教え込んだ。
暴力はいけないことだと。親は子供を守るものだと。友達は楽しいもので仲間はずれは良くないのだと。
それが普通なのだと。それが、当たり前のことなのだと。
『もしも、杏ちゃんが誰かに何かをされて嫌だと思ったら、助けを呼ぶのよ』
優しく諭されて私は肯いた。それを見てやっぱり満足そうに微笑みを浮かべる先生。
生徒に正義を教えることは悪いことではない。そこに躊躇を覚える理由などない。
何も知らずに生きている幼い子供に常識を教え込むのは、大人の義務であるとも言える。
だけど、他にも一つ言えるなら。
そう。あれは、本当に毒だった。
私はいつの間にか、教えられたそのままに「普通」を理解していた。
道端ですれ違う親子が手を繋いでいる姿を思わず、目で追うほどに。
あれが本来、私が与えられるはずのものだったのだと、そう思うくらいに。
小さな胸に去来する得体の知れない感情に戸惑いながら、私ははっきりと思い知らされていた。
私だけが、何も、持っていない。
――――――そうやって半年くらいが過ぎた頃、先生はあっさりと言った。
『こうやって杏ちゃんと過ごすのも後少しね』
意味が分からず首を傾ぐと、
『保護者から苦情が出ていてね』と残念そうに言う。
一人だけを贔屓するのはよくないんじゃないかって言われてしまったの、と。ただ、残念そうに。
『誰かに見られちゃったのね。内緒にしていたわけではないんだけど……』
困ったように下がった眉と悲しげに歪んだ赤い唇が語る。
『学年主任の先生にも怒られちゃったわ。生徒は平等に扱うべきだって』
正直すぎる告白に、内容の半分も理解できない。
『言われてみれば、そうかもしれないわね』
誰が、何を言ったの?もう一度言って。私に分かるように話して。
そう思うのに、言葉出てこない。
杏ちゃんはもう一人でお勉強できるから大丈夫、と何を根拠にしているのか分からないがそんなことを言う。頭が良いから他にもたくさんのことを学べるわ、と。
――――――頑張る?
何を、どう頑張れば良いの?
何を言われたのかもはっきりと理解できないのに、二人で勉強するのはこれでおしまいだということが分かる。
こんなにも簡単に、終わってしまえることなんだ。
先生、私は、一人で、どうすれば良いの?
そんな言葉が胸の奥までせりあがってくる。
どうしてやめるの、と唇から零れそうになった声を飲み込んだ。
自分の思い一つうまく言葉にできず、明日からは皆と一緒に頑張りましょうと笑う先生に肯くことしかできない。
彼女はここに居るのに、どこかに行ったわけでもないのに。
たった一人、教室に置き去りされた気分だった。
じゃぁ明日ね、と何の未練もなく自宅へ帰る先生を見送ることしかできない。
握り締めていた鉛筆がころりと床を転がる。
拾い上げることもできずに呆然としていた。
そうやって、先生と過ごした非日常はあっけなく終わりを告げ、一人きりの、当たり前の日常が戻ってきた。
先生は相変わらずいい人間で、生徒全員に好かれているのではないかと思うほど慕われていた。休み時間には彼女を囲んで大きな輪ができる。
楽しそうな笑い声が響く教室で、近づくことができないのは私だけだ。
そう、それは、先生が現れる前と何ら変わらない日常のはずだった。
だけど、それまでとは、何かが大きく違っていた。
近づきたいと思うのも、近づけないと落胆するのも初めてで。
一人きりで過ごしていたときよりも、ずっと、孤独だった。
喜びを知ってこそ、悲しみを知る。そういうことなのだろう。
誰かに褒められる喜びを知って、誰にも褒められない悲しみを知る。
誰かに優しく撫でられて、殴られる痛みを知る。
甘いお菓子を与えられて、満足に食事を与えられない理不尽さを知る。
自分の置かれた環境の異常さを知らず、あくまでもそういうものだと思っていたから、私は自分が可哀想な子供だとは思っていなかった。
だけど、それは決して普通ではないのだと教え込んだ人がいた。
そして教えるだけ教えて、その人は離れて行った。
彼女は、悪意を持って私に勉強を教えてくれたわけではない。
善意を持って、彼女は自分が正しいと思うことをやったのだ。
実際、誰の目から見ても彼女は熱意溢れる良い教師だったと思う。
放課後に自分の時間を割いて、日常の業務をこなしながらたった一人のために勉強を教えるなんてなかなかできることではない。
遅れていた勉強を、短い期間で、皆と同じ位置まで持ってくることのできた彼女の手腕は称えられるべきものだった。
彼女は善人で、ただ善行を積んだだけ。
悪意なんかない。ただ、考えが及ばなかっただけで。
無償の優しさを与えられた、可哀想な子供の気持ちなんて考えもしなかっただろう。
言葉を知って、意味を知って、理解して。
日常は、先生と過ごした非日常を経て、異常に変わる。
悪意に満ちた暴言の意味を理解して、それが暴力の一つなのだと知る。
その分だけ私は地の底に落ちていくのに、差し伸べられたはずの手は、私が手を伸ばすよりも前に消えていた。
皆、勝手に優しさを振舞って、それで満足して去っていった。
優しさを与えられた私がとるべき正しい行動は、頭を下げて感謝することだ。
ありがとう、と、そう言うべきなのだろう。
だけど、どうして、こんなにも苦しいのだろう。
どうして、与えられた優しさは、いつも私を傷つけていくのだろう。




