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例えば、そんな日常で。

※冒頭から暴力行為あります。ご注意ください。

きっかけは何だったのか分からない。そもそもそんなものがあったかどうかも分からない。

キッチンで夕飯の準備をしていた私の、長くも短くもない髪が突然後ろに引っ張られた。

予想もしていなかった出来事に、思わず左手が重力に逆らおうと宙をかき、コンロの火にかけていた雪平鍋の柄にひっかかった。

鍋の中に投入予定だった、まな板の上の大根やにんじんが視界の端を掠める。

出しを取っている最中だったので、昆布と煮干が出し汁と一緒に勢いよく鍋の外に飛び出すのが見えた。

あ、まずい。

そう思って両手がそれを受け止めようとするのだけれど、間に合うわけもなく、成す術もないままフローリング上に転がった。


ドン、ガシャン、ガラン!!


何の音なのかもはや判別できないほどの騒音だった。

私が床に打ちつけられる音だったかもしれないし、鍋が転がる音だったかも、もしくは、私を引き倒した人物がたたらを踏んだ音かもしれなかった。


「チッ!」


頭を打った衝撃なのかぼやけた視界の隅で、誰かが舌打ちをする。

いや、誰かなんて考えるほどのことでもなかった。こんなことをするのはアイツしかいない。

最近、我が家に入り浸っている母の愛人だ。

それでもやっぱり、泥棒とかそういった類の不審者の可能性も捨てきれないので、確認しようと倒れたまま振り返ろうとした。

けれどそれが適う前に、背中に強い衝撃が走った。

蹴られた。そう思う間もなく、第二波が背中の別の場所を襲う。

受身も取れず、蹴られた勢いのまま前に滑った体がシンクの下のキャビネットに激突した。

「ぅっ・・・」

一瞬、息が止まってうめいていると、それが気に入らなかったのか今度はわき腹を踏みつけられた。

顔を攻撃しないのは、こんな風に暴力を振るいながらも理性を捨てていないからだ。

誰かに見咎められるのを恐れている。

別に、怒りを感じて激情のままに振舞っているわけではないのだ。

この男は最初から、私に暴力を振るうことを決めている。その上で、どんなふうに蹴って、どんなふうに殴って、どのタイミングでどこを狙ってどうやって痛めつけるか予定をたてて行動している。


「おい、立て。」

「・・・。」

「立てっつってんだろ。」

「・・・。」


背中が痛い。言われた通りに起き上がろうとして失敗した。

再び打ち付けられた床が、断熱材を入れているわけでもないのに熱を持っているのは、ぶちまけられた出汁がいまだに湯気をたてているからだろうか。

それとも、蹴り上げられた私の体が熱を持っているからかもしれない。

唯一はっきりしているのは、熱湯をかぶった左腕がジンジンと脈打っていることだけだ。

薬箱の中にやけど用の軟膏は入っていただろうか。

ふと、そんなことが頭を過ぎる。


「おい!」


男のつま先が私の額を軽くこずく。

死んだとでも思ったのだろうか。

視線だけを向けると、どうやらそれも気に食わなかったらしい男がまた私の髪をつかんだ。

あまりに頻繁に髪を鷲掴みにされるものだから、つい先日、腰まであった髪を肩口で切りそろえたのだけれど、それも全く意味がなかったことを知る。

乱暴に引き上げられて、そして今日はじめて男の顔を目に映した。

黒い眼差しが、確かに私の姿を捉えているはずなのに、特に何の感慨も抱かなかった。

何の特徴もない顔だ。漠然と思った。

これまでに何人もいた、母の愛人の、そのどれとも同じ気がしたし、全く違うような気もした。

不細工というわけではないだろうし、かと言って整っているわけでもない。

ただ、目と鼻と口があるだけ。それだけだ。

きっと道端で会っても私はこの人を認識できないだろう。

これまでだってそうだったし、これから先、急に他の人と判別できるようになるとは思えなかった。

「チッ」

そんなことを考えている私の顔に何か思うところがあったのか、男はバックでも投げるかのように私の髪から手を離した。

また蹴られるんだろうか。

床に転がったまま男を見上げると、何の前置きもなくゆったりとした動作でしゃがみこんできた。

嫌な目だ。

さっきまでとは違って、はっきりとそう思った。

そして、その男の節くれだった指が私のスカートに伸ばされるのをただ眺めていた。


それは、さすがにまずいのではないだろうか。


これから起こるだろう出来事に思わず眉をひそめる。

ここにきて初めて表情筋を活躍させた私を見て、男は満足気であったが、別に私は恐怖を抱いていたわけではない。

ただ、何となく面倒くさい自体になるのではないかと、それを危惧した。

私の母は、年齢の割りに若く見えるし美しいけれど、それを鼻にかけていて誇りにも思っている。

そして、娘である私をどこかライバル視しているところがある。

自分の愛人が娘に暴力を振るうことには関心を寄せないのに、少しでも私に対して優しい態度をとると、途端に激高する。

愛人に対しても、娘に対しても、わけの分からない暴言を吐きながらフライパンや包丁を振りかざすのだ。そういうときの母には何を言っても無駄で、手に負えない。

警察沙汰にならなかったのが不思議なくらいだ。

そしてそういうことは、これまでに何度かあったのだ。


男の汗ばんだ指先を太ももをすべる。その気色の悪い感覚に彷徨わせていた意識を取り戻す。

抵抗すべきなのだろうけれど、力が入らなかった。

身動きすると、ますます男の指の感触が伝わってくるので、ただ、じっとしている。

するとそのとき、


「何、してるの?」


ひんやりとした冷気を伴った女の声が響いた。

――――――――――母だ。


娘の前だというのに肌の透けるベビードールを着ている。

シチュエーションさえ違ったなら妖艶ささえ感じただろうけれど、場合が場合なだけに、そんなものは微塵も感じない。

むしろ、髪の毛が逆立っているような錯覚に寒気を覚えた。真っ赤な唇が幽鬼のようにも見えて背筋が震える。

「何、してるの?」

再び口にされたその問いは、もちろん私に向けられた言葉ではない。

そもそも、この人は娘に声をかけるなんてことは何年も前にやめてしまった。


「い、いや、これは、お、おいちょっと待て・・!」


男がもごもごと言い訳を口にしようとしたとき、母の手が床に投げ出された小さな雪平鍋を拾い上げた。

その薄っぺらな鍋では、大した打撃は与えられないだろうと楽観視していたのだけれど、振りかざされたそれは、描いていた軌道を外れて食器棚のガラスを突き破った。

ガシャーンッ!という激しい音と共に寝転がった私の上に、ガラス片が飛んでくる。

体を丸めて顔を伏せることしかできない。

その間にも、母が愛人を責めたてる声が響いている。

「なんで」とか「どうして」とか「よりにもよってこんな女」とか「浮気なんて許さない」とか、ほとんど悲鳴に近い声だった。

男は何度か口を挟もうとしたようだったけれど、母は聞く耳も持たずにずっと何かを叫んでいる。

「裏切り者!」「こんな汚物に手を触れるなんて!」

「これはごみなんだから、貴方が触っていいものじゃないの!」

それは、いい加減その暴言を聞くに堪えかねた男が家を出るまで続いた。

母はしばらく一人で泣いていたけれど、やがて、ベビードールの上にコートだけを羽織って男を追って出て行った。


「あんたなんか、死ねば良いのに。」


と、ろくに身づくろいさえしなかったのに、ご丁寧にも捨て台詞だけはしっかりと残して。

数年ぶりに娘にかける言葉がそれなのか。

期待なんてしていなかったけれど、そのとき、かろうじて私と母を繋いでいた何かがぷつりと切れてしまったような気がした。


母が出て行くと、さっきまでの喧騒が嘘のように静まり返る。

とりあえず、ガラスを片付けなければと痛む背中をかばいながらのっそりと身を起こした。

母とあの男が帰ってくるまでに片付けておかなければ、今度は何をされるか分からない。

なるべく、付け込まれる隙を作らないようにしておかなければならないのだ。


ほうきと塵取りを出そうと思ったのだけれど、我が家には元々そんなものがなかったことに気づく。

それならと思い立ち、軍手かゴム手袋を探すけれど、当然そんな気のきいたものがあるわけもない。

結局、大きなガラス片は手で取って後は掃除機で吸うことにした。

そうなると、ガラス片を集めるためのゴミ袋が必要だ。

使用済みのレジ袋を出そうと、すぐ傍の引き出しに手を伸ばしたところ、足の下でパキリと音がした。

嫌な予感に足を上げる。

やはり、小さなガラス片が足の裏に刺さっていた。

血で汚れた床にため息を落として、今度は雑巾を探すのだけれど、つい先日、使い古した雑巾を処分したのを思い出す。

「何もない・・・」

仕方なしに、とりあえず左腕の手当てを優先することにした。

先ほどからじくじくと痛むのだ。それに足の裏も消毒しなければいけない。

キッチンから自室へ移動して、ベッドの下に常備している薬箱をあさった。

小さな薬箱のふたを開いて、盛大なため息がこぼれた。

目当ての軟膏が切れている。

というか、薬箱の中に入っていなければならないものがほとんどない。

頭痛薬も胃薬も風邪薬も絆創膏も体温計さえ入っていない。

あれをしなきゃ、これをしなきゃと思うのに、それをするための道具がない。

この家には何もないのだ。

なぜだ。

いつからこんなふうになってしまったんだろうと、寸の間、途方にくれる。

何となく窓の外に視線を滑らせると、暗く沈んだ藍色の空にぽつぽつと小さな星が瞬いているのが見えた。

夕飯を作り始めたときはまだ夕日が顔を見せていたのに。

これが最後とばかりに強い光を発していたオレンジ色の夕日は、いつの間にか闇の中に消えていた。


―――――――――ピンポーン


何だかやる気をなくしてしまって、薬箱を抱えたままベッドに座り込んでいると、玄関のチャイムが鳴った。

一瞬、母が戻ってきたのかもと焦りを覚えるが、母ならばチャイムを鳴らすようなまどろっこしいマネはしないだろうと考え直す。

単なる来客だ。

このまま居留守を使おうかとも思ったけれど、宅配便であった場合、ここで受け取ってしまったほうが手間が省けるだろう。

手早く用事を済ませてもらおうと玄関に急ぐ。

相手もろくに確認せず扉を開く。

すると、そこには思いもよらない人物が立っていた。


隣人兼幼馴染の、初瀬ハセ タスクだ。

相手も、突然扉が開くとは思っていなかったのだろう。少し面食らっている。


「何?」


そんな幼馴染の様子も特に気に留めず、挨拶も交わさないまま尋ねると、


「これ、母さんが持っていけって。」


相手も特に気にした様子なく、無愛想に告げてくる。

彼は、両手で少し大きめのホーロー鍋を抱えていた。


「良かったら食べてって。」


断る理由もないので、有難く頂戴する。

ちょうど先ほど作りかけの味噌汁も台無しになったし、片付けの済んでいないキッチンではまだ夕飯作りが再開できない。

それに、味噌汁を作っていたところで冷蔵庫には碌な食材が入っていないので今晩のおかずはどうしようと真剣に悩んでいたのだ。

正直、助かった。

鍋を受け取ろうと両手を差し出すのだが、なかなか鍋がこちらに渡ってこない。

幼馴染に視線を移すと、


「さっき、すごい音がしたけど何かあった?」


と、先ほどと全く変化のない仏頂面で聞いてきた。

それを聞いた私は、少し首を傾げて、


「何もないけど」と返す。


本当に何もなかったみたいに。

幼馴染は、それに「ふうん」と呟いて、あっさりと鍋を渡してきた。

きっと始めから興味などなかったのだ。

恐らく、初瀬のお母さんに様子を見てくるように頼まれたのだろう。

そうでなければ、この男が私に、ましてや私の家族に興味を抱くわけがない。

幼馴染とは名ばかりの間柄なのだから。


「おばさんによろしく言っておいて。私も自分で言うけど。」


そう言うと、初瀬はむっつりと頷いて玄関ポーチから表に出た。

来たときと同じように、さよならも交わさずに帰っていく。

扉が閉まる瞬間、初瀬の目がちらりと私の足元に移ったのは気のせいに違いない。
















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