叶え岩奇譚
『この時間が永遠に続きますように』。それは単純で、そしてかわいらしい願いだ。けれどそれは、『絶対に叶わない』という前提があってこそ。叶ってしまえば、進まない時間は牢獄へと変わる。年を取らない少年は、妖精の国の囚人なのだ。
時間は有限だ。だからこそ、そこには思いが宿る。
一
「ねぇ、キミ。キミよ」
後ろから肩を叩かれて、渋々振り返った。振り返った先にいたのは、おそらく同級生であろう女子生徒。薄情者と笑うなかれ、今は四月だ。全員把握するには、まだ時間が浅い。けれど、はっきりした目鼻立ちと綺麗に纏められた髪は、優等生や委員長なんて言葉が似合いそうだ。
「キミ、宮田雄介君でしょう?」
「ああ、そうだが」
「まだ、進路調査出してないでしょ。放課後までなんだから、早く出してちょうだい」
はい、と右手を差し出される。催促のジェスチャーだ。しらばっくれてこのまま帰ろうとしていた身としては、ばつの悪さで苦笑いが出る。
「悪い、えーっと……?」
「倉崎由里よ。何、無いの?」
「机の中に置いてきた。戻る」
そう告げれば、ため息と共に俯かれてしまう。仮にも同級生とは言え、今初めて会話した人間に対してそれは酷くないだろうか。悪いのは俺の方だが。
「私が玄関まで来た意味って……」
「だから悪いって。でもどうせ戻るんだろ」
「そうだけど。徒労に代わりは無いでしょう? まったく」
ぶつぶつと呟きながら付いてくるこの同級生は、どうやら第一印象とは違って、根っからの優等生ではないらしい。
「ああ、あったあった。ほら、これだろ」
一応記入してあった件の進路調査用紙を倉崎に手渡す。ほっとした様子でそれを受け取った彼女は、そそくさと立ち去ろうとしてた俺の鞄を掴んだ。
「手間を掛けさせた以上、キミにも手伝ってもらうわよ。宮田クン」
面倒な事になってしまった。
「おお、進路調査か。全員分か?」
「ええ。全員分揃ってますよ」
俺が三回確認したんだ、間違いない。だが、その間ニコニコしながら座っていただけの倉崎が我が物顔で答えているのは納得いかない。
「そうか。すまんな、助かった」
教師のお礼に答えているのも倉崎だ。俺の存在はどうやら眼中にないらしい。
「助かったついでにもう一つ頼んでいいか?」
教師が放ったその言葉に、俺も倉崎も一様に顔を引き攣らせた。
「……なんで私がこんなこと……」
「それは俺の台詞だ。お前が一人で確認して一人で提出すれば、俺はここにいなくて済んでいるんだからな」
「キミは、私一人でこの中に入っていけって言うの!?」
俺たちが頼まれたのは、使われなくなった備品を物置扱いされている旧校舎に運ぶ事。教師から渡されたのはどれもそこまでの重量を有さないもので、その点は手間が増えた程度なのだが。
問題は、運ぶ先が旧校舎だと言う事だ。独りでに動く扉、増える廊下、突如聞こえる笑い声など。この学校に伝わるという七不思議の、実に五つはこの旧校舎内のものだ。日当たりが悪く、古ぼけたこの建物は怪談の舞台としてもってこいなのだろう。
そして、俺たちは今からその怪談の巣窟に足を踏み入れねばならない。
「あ、キミ一人で行って来てくれる?」
「バカ言うな。この量は俺一人で持ちきれるものじゃないだろう」
面白いように怖がっている倉崎を先導するように、歩を進めた。あの教室なら、この廊下を左だ。
二
「雄介、 手伝ってくれる?」
こうやって仕事の手伝いを頼まれるのは、何度目だろう。数えるなんて馬鹿な真似をするつもりは毛頭ないが、何となくそう気になってしまう。
とりあえず、莫大な量であることは確かだ。
それでも、
「今度はなんだ?」
承諾してしまうのは、ユリが余りに屈託ない表情で笑うからだろうか。
「この間のアンケートの集計よ」
また面倒なものを。そう呟いてみても、ユリには届かない。分厚いアンケート用紙の束を俺の机に落として、さっさと椅子を調達している。
「さ、始めましょ?」
そう笑顔で言われてしまえば、俺は頷いてしまうのだ。
「そういえば、雄介は進路、どうするの?」
アンケートの集計にも手馴れてきて、会話する余裕ができた頃。口火を切ったのはユリだった。
「進路、か。考えてないな。親は頭のいい大学に行けって騒いでるが。ユリの方はどうだ」
「私も同じかな。でも、『自分の将来』って言われても、漠然としすぎてて想像できないのよ。でも、今は、とりあえず大学でやりたいこと探そうと思ってる」
将来、か。俺は何をしているんだろうな。親くらいの年齢になったとき、どんな生活を送っているんだろうか。想像しようにも、はっきりしない風景しか浮かばない。
やりたいこともない。特別何がやれるわけでもない。辛うじて平均点の人間は、どんな将来を送るのだろう。
「俺は、そんなにはっきりと希望を持てないな。たぶん、普通に生きていくんだろうと思うが」
そんな言葉で茶を濁す。深く考えると絶望しか待っていないような気がして、考えるのをやめた。
「そうだね。私も、特にやりたいこともやるべきこともないから。普通に生きていくんだと思うな」
そう笑ったユリに曖昧な笑みで返して、集計用紙に正の字を足した。
「また明日ね」
「ああ、また明日」
小さく手を振るユリに片手を挙げて、横断歩道を渡る。
「将来、ね」
わざとらしく、気取るように呟いてみる。俺にとって今が全てで、十年後、二十年後なんて想像すらできない。二十八歳の自分は、三十歳を前に何をしているんだろうか。三十八歳の自分は、何を楽しみにして、何をしながら毎日を生きているんだろうか。
こうなりたいという願望もない。将来の夢の作文に、俺は何と書いたのか。今となってはもう思い出せない。
この毎日が、続いていけばいいのに。ユリと話したり、仕事を手伝ったりするこの学生生活が、永遠に続けばいいのに。本気と冗談が半分ずつ入り混じった感情で、そう願った。
三
「ねぇ、聞いて!」
俺の机に手を叩きつけたユリは、愕然とする俺に頓着したようすもなく、話したくて仕方がなかったであろう話を始めた。
「この高校にも、『七不思議』があるんだって!」
どうだ大発見だろう、と言わんばかりの表情に、苦笑が漏れる。そんなことをわざわざ俺に報告しに来たのか。なんとも、受験生にもなって暇な人だ。
「ああ、あるぞ。『勝手に開閉する旧校舎の扉』、『深夜に増える旧校舎の廊下』、『深夜の校舎に響く笑い声』、『勝手になるピアノ』とかな」
「その辺は真面目なのに、六つ目でオチをつけるなんてやるわよね」
は? オチ? 何の話だ。
俺の間抜け面から正確な情報を読み取ったのか、ユリは苦笑しながら話し出した。
「知らない? 五つは真面目にあるのよ。怪談が。けど、六つ目の七不思議が、『七不思議なのに七つない』って言うんだから面白いわよね」
知らなかった。というか、そんな話になっていたのか。俺が聞いたときとは随分変わったんだな。だが、七不思議なのに冗談を混ぜてくるとは、中々センスのある人間が考えたのだろう。
「けど、キミが知らないなんてね。四つは知っているみたいだけど」
「俺が知っているのとは違うものだろうな。俺のは、そんなジョークじゃなかった」
「なら、どんなのよ」
しまった。この話の流れは予想できただろうに、何を正直に打ち明けたのやら。この年まで生きてきて、ポーカーフェイスも学ばなかったのか俺は。
「いや、取り立てておかしなものじゃないからな。気にしなくて良い」
「嫌よ。気になるじゃない。話して」
ため息一つ。こうなってしまった以上、てこでも動かないのは身に沁みて知っている。話すしかないか。
「五つは一緒。六つ目は『地図と一致しない教室』で、七つ目が、『願いの叶う岩』」
ずきりと痛む胸の奥にふたをして、ユリの反応を窺う。ユリは黙ってその七不思議を吟味しているようで、俺の視線には気づかない。
「ふーん、『願いの叶う岩』ね。そんなのがあるんだ。何が元になってるの?」
「そこまではさすがに。ただ、この学校の敷地内にその伝説を持つ岩があるってくらいだ」
「へぇー。願いが叶うんだ。面白いね。じゃあ私、何を願おうかな」
記憶の中で、ユリの顔と何かが重なる。それは、見知ったはずの顔で、今は最も遠いものだった。不明瞭に重なったユリと俺が、まったく同じ言葉を紡ぐ。
「そうだ、幸せになれますように、とかどうかな」
「そういうのは、自分でなんとかするものだろ。ほら、勉強とか良いのか?」
「あー、はは……。そうだ、ねえ、その岩の伝説、探してみない? 今もあるかもしれないでしょ?」
「受験生が何をのんきな。ほら、チャイム鳴るぞ」
不満げな顔でぶつぶつと文句を呟きつつ、ユリが去っていく。その後ろ姿から目を背け、窓の外で生い茂る草木に目をやった。
四
「雄介! 見つけたわ!」
チャイムが鳴る寸前、けたたましい足音と共に教室に飛び込んできたユリは、全力で俺に駆け寄り、隣に位置する自席に腰を落とした。
「俺は十五分前からここにいたぞ」
「雄介のことじゃないわよ」
そう言い捨てたユリは、乱れた息を整えるためか数回深呼吸した後、声を潜めた。
「『願いが叶う岩』のことよ。本当に、そう呼ばれてる岩が、裏山にあるの」
「ほらー、全員席に着けー。ホームルーム始めるぞー」
更に何か続けようとしたユリだったが、折悪しく教室に入ってきた担任のせいでやむなく中断する。姿勢を正しざまに告げられた「放課後」という言葉に肩を竦めながら、俺も前を向く。
内心の高揚を、懸命に押し隠して。
「それで、その『願いが叶う岩』っていうのは本当にあったのか?」
窓から差し込む夕暮れでオレンジ色になった教室。俺とユリのみが残されたその空間の中で、ユリの前の席に反対向きで座った俺が口火を切る。
「間違いないわよ。今朝図書室を漁っていたら、これが出てきたもの」
優等生であるユリが遅刻ギリギリだったのは、そういうことだったのか。なるほど、時間を忘れて没頭したのだろう。
そんな納得はさておいて。ユリが持つ古ぼけた冊子を受け取る。
「七年前に発行された、文芸部の文集よ」
なるほど、年号は確かに七年前だ。けれど、それがどう関係しているんだ。
「それの真ん中辺りに、『魅塚高校奇譚』ってお話があるでしょう? それは、願いが叶う岩に願った人の話なんだけど。問題はあとがきよ」
立て続けに色々な固有名詞を聞かされ、慌ててぱらぱらとめくる。七年前の文集はめくりにくく、下手に扱えばすぐに破れてしまいそうだ。慎重にページをめくり、件の作者のあとがきにたどり着く。
「読んでみて」
そう指示され、薄れ、黄ばんだ文字に目を落とした。日当たりの悪い教室は薄暗いが、なんとか読める。
『こんにちは! 今回『魅塚高校奇譚』を書かせて頂いた東雲涼香です。今回のお話、実は我が飛坂高校に伝わる伝説の一つ、『叶え岩』をモチーフにしたものなんです。叶え岩って、知ってますか? 裏山のどこかにあるっていうつるつるで丸い岩のことで、それを見つけられれば願いが叶うと言われているそうです! それを耳にした時……』
それ以降は作品裏話のようなもので、『叶え岩』は出て来ない。そう判断し、俺は読むのをやめた。
自信満々に、さあ褒めろと言わんばかりの笑顔でこちらを見るユリは、大発見の自信に満ち溢れている。思わず苦笑いを浮かべてしまいそうだ。
「なるほど。これが『願いが叶う岩』の原点だって?」
「ええ。裏山は三年前に開発されて、今は三分の一以下になってるみたいだし、今度探してみない?」
「ユリ……俺たち受験生だぞ?」
呆れたような俺にも、ユリは負けじと反論する。
「だからって、朝から晩まで勉強してたら身が持たないでしょ? だから、息抜きよ。一時間か二時間くらい探して、なければ帰ればいいし」
力説するユリの顔を、俺は知っている。これは、てこでも動かない顔だ。
極めつけに、この計画に賛同している自分がいることも、わかっていた。
「……わかった。いつにする?」
「思い立ったが吉日よ。今日の八時、校門の前ね」
どこまでも強引な人だ。俺が暇だったから良いものを。
「了解だ」
夕日が照らすユリの顔は、満面の笑みだった。
五
「雄介!」
絞った声で叫ぶユリに片手を挙げて、小走りに駆け寄る。校舎の外壁に付けられた時計は暗くてよく見えないが、八時前後だろう。そうなるように家を出たのだから。
「待たせたか?」
「ううん、大丈夫」
互いの鼻や頬は赤くなっていて、吐き出した吐息は靄となって広がる。この寒さの中でじっとしているのはぞっとしない。そんな考えはユリも同じだったのだろう。急かすように俺のコートを引き、正門を乗り越える。俺も後に続いて敷地内に飛び降りた。
「さ、探検に出発!」
「はいはい」
いつになくはしゃいでいるユリの後に続いて、校舎の横をおっかなびっくり駆け抜ける。ここで警備員や残っていた教員に見つかっては、せっかくの計画が台無しになってしまう。
俺の心配などどこ吹く風で駆けるユリの背中を見ながら、小さく笑う。堂々としたその姿に、怯える自分がバカのように思えてきた。
「裏山、到着!」
「だな。こっからどうする?」
「この道を入って、左側は美術部とかが活動でよく入るみたいなんだ。だから、たぶんあるとしたら右側じゃないかな」
言われてみれば、左側は道がある程度整備されている。片や右側はと言えば、どこまでも獣道だった。
「……入って大丈夫か、これ」
「大丈夫大丈夫! 遭難しても、裏山だし」
問題はそこではない気がするが、黙っておこう。今のユリは、目に見えて楽しそうだから。その喜びに水を差すのは、野暮と言うものだろう。
「まあ、行ってみるか」
「そうそう、前進あるのみ!」
「そうだな。裏山だしな」
にやりと笑ってそう言ってやれば、不満げにこちらを見つつ小さく舌を出された。
「こっちじゃない?」
そう言って、ユリは道なき道に分け入っていく。裏山に忍び込んでから既に一時間と三十分が経過していて、その間に見覚えのある景色はなかった。つまり、着々と進んでいるのだろう。それが正解かどうかはともかくとして。
「うーん。こっちかな?」
そろそろ、遭難云々が冗談ではなくなってきたかもしれない。ここから帰れと言われればまだなんとなくわかるが、これ以上進んだら、本当にわからなくなりそうだ。
「なあユリ、そろそろ……」
諦めて帰らないか。そう言いかけて、口を噤む。あれだけ楽しそうだったユリの顔は、今、真剣そのものだったから。
まだ、もう少し頑張ってみるか。
そう決意し、少し先を進むユリに追いつこうとスピードを上げた――――――。
――――ん? 今、何かなかったか?
「ユリ!」
数メートル先を歩くユリに声を掛け、視界の端を横切った何かを見定めようと、一歩ずつ来た道を戻る。
「何? どうしたの?」
「今、何かが見えた気がしたんだ」
「そう? 何が?」
ユリのその問いは、ほとんど頭に入ってこなかった。何が見えたのか、その答えが、目の前にあったから。
「……あっ、た……」
そこだけ木々が開けて、月明かりが差し込んでいる。冬の澄んだ月光を受けてつやつやと輝く表面はまるで磨かれたようで。そして、楕円形だった。今にも転がり出しそうなほど。
「『叶え岩』……本当にあったのか」
「だから言ったでしょ! 見つかったよ!」
興奮した口調でそう叫んだユリが、一目散に駆けて行く。呆けた視界でそれを見とめ、慌てて後を追った。
「『裏山のどこかにある、つるつるで丸い岩』。その通りだね」
これ以外に、つるつるの表面をした丸い岩が裏山にあるとは思えない。これは、こんな片田舎に何個もあるような、そんなものではない。それを、俺は直感で理解した。
「ね、何を願う?」
「ユリこそ、何を願うんだ?」
質問に質問で返した俺に何を言うでもなく、ユリは小首を傾げる。そして、数十秒後に手を叩いた。決まっていなかったのか。
「永遠の若さにしよう!」
「悪役みたいだな」
「いいじゃない。全ての女性の夢よ」
そうなのか。まあ、ありがちな話ではあるが、それゆえに普遍的なのだろう。そう思うことにする。
「で、雄介は?」
自分のエゴをさらけ出すつもりにはなれず、俺は視線を逸らす。
「そうだな。幸せになれますように、とかか」
「いいわね。幸せ」
そう言ったユリの顔は、少し寂しそうだった。
「ほら、さっさと願って帰ろう。そろそろ二時間経つ頃だ」
「あ、そうなの? じゃあ」
焦ったように岩の前に膝を付いたユリに倣って、俺も跪く。両掌を合わせ、目を閉じた。
――――この幸せな時間が、永遠に続きますように。
将来への不安を抱えながらも、まだ遠い未来だと漠然としたまま目を逸らして。それでも、ユリとふざけあって、はしゃぎあって、『幸せ』という単語の意味を俺に教えてくれたこの時間が、永遠に。終わらないでいてくれますように。高校生活が、後数ヶ月もしないうちに終わるなんて、そんな寂し
い事がありませんように。
荒唐無稽な願いだけれど、吐き出してしまえばそれが俺の中でしこりになっていたのだと気づく。
「さて、帰るか。もう遅いからな、家まで送るぞ」
「そうだね。じゃあ、お願いしようか」
不思議と頭は澄んでいて、月明かりの中、間違えることなく裏山を下った。
六
「キミ! そこ! ああもう! 宮田クン!」
背後から乱暴にかけられた声を無視して、俺は教室に足を踏み入れる。冬の日は短く、既に半分以上暮れている。しかもここは旧校舎、西向きとは言え薄暗い。かろうじて表情を判別できる程度。そんな暗がりで、慌てて追ってきた足跡が教室に踏み込んだのを聞いてから、振り返った。
「なんでこんなところに。というか、なんで避けるの?」
「ユリが怒ってるからな」
はぐらかすように答えれば、見る見るユリの眉間に皺がよっていく。
「私は、昨日こなかった理由が聞きたいだけよ」
いかにも怒っていますといった声で紡がれる不機嫌な言葉に、こんどは俺が眉根を寄せる。
「俺は言ったぞ。『やめた方がいい』ってな。それを聞かずに無理やり七時に待ち合わせしたのはユリの方だろう」
「っ! けど!」
それ以降の反論はない。ユリも、自分の方に非があるのはわかっていたのだろう。その上で、俺を問い詰めていたわけだ。
そこまでは、予想通り。ここから、ネタばらしだ。
極力内心を悟られないように、外の桜の木に目を移す。蕾はまだ、固そうだ。
「なあ、ユリは元気か?」
「は? 私はここにいるじゃない」
「違う」
ああ、わかってない顔だ。少しくらい、気づかれる可能性も考慮していたのに。良かったのか悪かったのか。
「どういう意味よ」
「小百合の方だよ。柳小百合。今は倉崎小百合か」
ユリ――――由里が、愕然とした。口を半開きにしたまま、視線だけで問い詰めてくる。が、俺はそれを黙殺し、もう一つ問いを投げかける。
「なあ、この旧校舎がいつまで使われてたか知ってるか?」
「じゅ、十五年くらい前だって聞いてるけど……?」
「ここはさ」
俺の横にある、窓側一番後ろの席を軽く撫でる。
「三十年前、俺の席だったんだ。隣がユリの席で」
またしても、由里が絶句する。というよりも、先の見えない話にいい加減苛立ってきたというところか。まず何を言うか、悩んでいるのだろう。
だが、俺にそれを大人しく待つ気はない。
「俺はお前の母親、旧姓柳小百合の幼馴染だった。四十八年前から丁度三十年前まで、ずっと一緒に過ごしたんだよ」
ようやく硬直から戻ったらしく、由里が口を開く。
「そ、そんなこと信じられるわけないでしょう!? 大体、それが本当ならどうしてキミは今高校三年生なのよ!」
努めて、飄々とした態度を装う。
「見た事ないか? 聞いたことないか? 小百合が子供の頃の写真を探せば、たぶん、高確率で俺も映ってるが」
由里の顔が疑念に、そして驚愕に変わっていく。大方、幼い頃の記憶でも思い出したのだろう。
「どうして? お母さんは、卒業後に失踪したって……」
懐かしい。『そういうことにした』んだった。唐突に、何の前触れもなく失踪した事に。
「こんなことが知れたら大問題になるし、厄介事だって莫大な量になる。だから、『そういうこと』にしたんだよ。俺と、小百合で話し合って。幸い、つじつま合わせはしてくれているようだしな」
もって回った言い草に業を煮やしたか、由里が苛立ちを隠そうともしなくなる。そろそろだろうか。
「いい加減にして! どうしてお母さんの幼馴染が今も高三なの!? ちゃんと説明して!」
潮時か。今、由里は俺の言葉を信じている。荒唐無稽だとわかっているはずなのに、信じずにはいられなくなっている。なら、今がチャンスだ。この与太話の中で、最も荒唐無稽な部分を話そうか。
「三十年前の冬。俺と小百合が高校三年生だったとき、俺たちはふとしたことで『願いが叶う岩』の伝説を知った。そして、小百合は由里、お前とほとんど同じ方法でその存在の裏づけを取り、俺に探しに行こうと提案したんだよ。そして俺は、それに乗った。受験勉強の息抜きと、卒業前の思い出作り、そんな気分だった。軽い探検でもして、少し肩の力を抜こうってな。そうして夜八時に裏山に忍び込み、月明かりの中で岩を見つけた。で、願った。小百合は『永遠の若さ』を、俺は『幸せな学生生活の永続』を」
そこで言葉を切る。いつしか苛立ちも忘れたように棒立ちになっていた由里は、俺の視線を受けて、強く頭を振った。
「それで、どうしたのよ。その後、何があったの?」
けれど俺はまた、はぐらかすように問う。直接何かを告げることを避けて、もったいぶった言い方で。
「なあ、お前の母親、つまり小百合は、今年四十八だろ」
「だったら何よ」
「その割には、外見が若すぎないか?」
無言。図星か。
俺は、知っている。小百合は『卒業生』という立場を利用して、そして三年前からは『生徒の親』という立場で、学校内に入れる機会は逃してこなかった。そのたびに、俺とあの岩の前で少しだけ会話して、去っていく。だから知っているのだ。小百合の外見が、三十年前からまったく変化していない事を。
「……まさか……叶った……?」
「ああ、そのまさかだ」
荒唐無稽な学生の妄想が、叶ってしまった。適当なノリの切実な願いが。
「だから俺は、まだ高校三年生だ。三十年前から変わらず。未来永劫な」
ちなみにこの体不死身なのだが、それを言う必要はない。
「学校の敷地から出られず、卒業もできず、ただ延々と『三年生』を繰り返す。後輩が同輩になり、そして卒業していくのを見送って、自分はまた『三年生』をもう一度」
ただただ、繰り返される一年。老いて去っていく教師と、羽ばたいていく後輩たち。その後ろ姿を見送るだけの俺。この場所に縫い付けられたまま、身動きも取れずにただ生きる。かつての同輩が就職して、結婚して、真っ当に日々を生きていく中、俺は高校の中に閉じ込められている。
「……そんなの……」
「楽しい時間は有限だから楽しいんだ。終わりが見えているから、今に精一杯傾倒できる。精一杯楽しめるんだ。永遠は、永続は、苦痛でしかないんだ。進めもせず、戻れもしない。それは、死んでいるのと変わらない」
一息に、言い切る。これが、俺が伝えたかった全てだから。
「だ、だから何よ。私がそれを願うつもりだって言うの?」
「ああ」
「そんなの、わからないでしょ」
「わかるさ。お前は、俺と同じだから」
将来への不安を過大評価して、自分の力量を過小評価して。そうして漠然とした『未来』から目を背けている。あの時の俺と同じ目をしているから。
言外に、そんなことを含める。それは、正しく伝わっただろうか。
「人間は年を取って、成長して、老いて、そして死ぬ。それは、人間にとって、そうすることが一番の幸せだからだ」
由里は、何も言わない。ただ俯いているだけ。その表情を俺が窺い知ることは叶わなかった。
「だから、由里。お前もそうやって生きるんだよ。高校生活が幸せなのも、将来が不安なのもわかる。だがな、幸せな時間からあえて手を離してみるのも、必要な事だ」
自分にできなかったことを由里に強要している。それは傲慢な事かもしれないが、今は目を瞑って欲しいところだ。
「前を見ろ。自分の未来から目を背けるな。お前の周りには、そうやって生きてきた人間が一杯いるだろう? 案外、何とかなるものなんだよ」
悟ったような言葉。楽観的な意見だと思う。目を背け、囚人と化した人間の言葉ではないだろう。だが、だからこそ説得力も宿るというものだ。
沈黙した由里とすれ違い、教室から出る。
「さよならだ。『叶え岩』のことも、俺のことも、忘れろ」
本当なら、こんなに深入りすることはなかった。他のクラスメイトと同様に、同じ空間で学んでいる人間の一人、ただそれだけのはずだったのに。
「なんでこんなことをしたんだろうな」
余計なおせっかいも甚だしいだろうに。
窓の外で膨らむ蕾はまだ、固そうだ。
七
校舎の向こう側から、言葉にならないさざめきが聞こえてくる。晴天に恵まれた今日、玄関から校門までの数十メートルには全校生徒がひしめき合って、言葉や抱擁を交わしていることだろう。なんと言っても、卒業式なのだから。
とはいえ、裏山の深くにあるここからすれば遠い世界の出来事だ。泣き声も、笑い声も、ここまでくれば意味を持たない音でしかない。まさしく、外界から隔絶された場所なのだ。
そういえば、由里はどうしただろうか。
「ちゃんと、前を向けたみたいよ」
不意に聞こえてきた声は、聞き慣れたものだ。それ故に、唐突でも驚かない。そろそろだと、わかっていたから。
「なら、良かったな。それにしても、ここにいていいのか? ユリ。今日は娘の卒業式だろう」
「由里なら、友達に囲まれて泣いてたわよ。親がそこに入るのは野暮でしょう」
そういうものか。
「元気そうだな。半年ぶりか?」
「それくらいになるわね。学校祭以来だもの」
三十年前と変わらない容姿に大人びた服装の小百合は、俺の顔を見とめて小さく笑った。
「変わらないわね」
「呪いだからな。お前も一緒だろう?」
「ええ。この外見も困ったものよ。どこへ行っても未成年扱いだもの」
あなたほどではないけれど。と茶目っ気たっぷりに付け足して、小百合が俺の隣に腰を下ろす。
「いいの? 『卒業生』さん。みんなのところに行かなくて」
「行っても、無駄だからな」
どうせ俺は、来年もここに通うのだから。
「そんなものかしらね。そういえば、私もここに来る機会は少なくなるわよ」
「生徒の親って特権がなくなるからな。わかってる」
薄々わかっていた。この三年間が特殊なのだと。来年からは、俺は本当の意味で独りになるだろう。
「寂しくなるわね」
「旦那に聞かれたら問題だぞ」
「あら、今はいないわ。今日は仕事だもの。娘の晴れ姿が見られないって、泣いて悔しがってたわよ」
まるで三十年前のような、ふざけた会話。この時間も、おそらく二度と来ない。俺のような大馬鹿者には、ふさわしい罰だろう。
「そろそろ時間かしらね。それじゃあ、またいつか」
「おう、じゃあな」
ユリが木々の向こうに消えていく。その後ろ姿を見送って、大きく息を吐いた。
背後に鎮座する、楕円形の岩を振り返る。日光を受けて燦然と煌くその姿もまた、三十年前から変わっていない。時の流れで淘汰されたその存在は、しかしまだ、同じ場所にあった。
「……なあ、『叶え岩』よ。もう一度願ったら、お前は俺を普通に戻してくれるのか?」
当然のごとく、返事はない。
小さく笑って、草の上に寝転がった。