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nove

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 まさかこんなところで一緒に暮らしていた女の顔を見るとは。

 さっきまで見ていた『自転車で行きたいお店特集』のページには懐かしい顔があった。あの頃とまったく変わっていない……。あのビアンキを持ち込んだ客の男と一緒にどこかの飲食店の前で、あの頃と同じ……いやもしかしたらあの頃よりキレイな笑顔で写っていた。

 あの客が乗ってきたビアンキを見たときは本当に驚いた。自分が乗っていたビアンキではないか。同じモデルということも考えられるが、一瞬でわかってしまった。これといって特徴があるわけでもないし、目印がついているわけでもない。でも長年、使い込まれた自転車には不思議とオーラがやどる。

 それとなく車体番号を確認してみたが、間違いはなかった。

 アイツの元にこれを残していったのは、せめてもの償いのつもりだった。当時の自分にはあの自転車以外、金目のものなんてなかった。あれは売ればそこそこの値段が付く。珍しいモデルだ。

 アイツと付き合っていた頃は、毎日が本当に楽しかった。しかし、ある時から不安で不安でたまらなくなった。何の能も持たないこんな自分とは不釣り合いなくらいアイツは美しい。自分が彼女の貴重な人生の一部を奪っているのではないか? そう思いはじめたが、もう遅かった。すでに多くの時間を彼女から奪ってしまっていたのだ。

 ある夜。後悔と不安が、幸せな時間と釣り合いが取れなくなる。天秤が悪い方向に傾いた。そして、自分は彼女が寝ているうちに部屋を出た。

 ビアンキは置いていくので、好きにしていい。というメモ書きを残して。

 すでに売り払ったと思っていた。それを手に入れた客が偶然にも自分の元にメンテナンスを依頼してきたと、最初はそう思った。

 その客からこの自転車を手に入れた経緯を聞き、予感がした。いい予感なのか、悪い予感なのか、それはわからないが。

 そして、その客が取材を受けたという雑誌を取り寄せた。

 まさか、ずっととっておいたなんて……。

 誰もいなくなった店内のメンテナンススペースで、煙草に火をつける。

 窓を開けると。夜の冷たく湿った風が流れ込んできた。りーんりーんと、虫の鳴き声がする。そうか、自転車に乗るのにいい季節になってきた……。

 今の自分にはあの頃よりちゃんとした収入がある。あの頃手放してしまった幸せを、あの頃よりしっかりと守ってゆく自信もある。しかし、もう遅い……。

 間違っていた。そう思う。

 これでよかった。とも思う。

 確かなのは、あのビアンキはもう自分のものではない。自分から手放してしまったのだから。そう、アキと一緒に……。

 それでも、先日あのビアンキは徹底的にやってやった。今の自分が持てるすべての技術をつぎ込んでメンテナンスした。あの客が依頼してきたこと以上に手をかけた。まっとうに時間工賃を請求したらとんでもない額になるだろう。

 それでもそんなサービスにあの客が気づくことはないだはずだ。あと十年は乗れるようにしたつもり……。

 なぜそこまでしたのか自分でもよくわからない。

 愛着や、懐かしさからそうした。それもあるかもしれない……。

 いや。そうだ。せめて十年……、もう自分の前に現れないでくれ。今のアキを知っているお前の顔など見たくもない! そういう嫌な感情もあったかもしれない。

 あと十年で自分が何か変われる根拠はない。彼女を忘れられるはずもない。しかし、あの頃の自分と、今の自分は違う。十年というのは充分な時間に思える。良くも悪くも何かを変えるためには……。

 そういえば、あの客の紹介だという、ロードバイクを買いに来た女の子。いや、女の子と呼ぶ歳ではないのかもしれないが……。あの子はどことなくアキに似ていた。最初は紺色のロードバイクが気になっていた様子だったが、別なものを勧めてしまった。「あなたなら赤が似合うと思いますよ」とか言って。我ながら似合わないセリフを口にしてしまったものだ。そんなことは初めてだった。

 そう。紺色の自転車はアイツのものだから……。

 まったく。大人げない……。

 雑誌をゴミ箱に投げ入れた。


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