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8/12

otto

 レース会場は埼玉県にあった。南区から戸田市にかけて広がる、洪水時の増水による被害に備えて作られた、荒川第一調節池。その中にある貯水池、彩湖の外周を走るコースだ。

 昨日までの天気予報によると、今日の降水確率は六十パーセント。雨のはずだった。しかし予報は大きくはずれた。空には青空が広がり。所々にちぎったパン生地のような雲が、海の方角から吹く風にたなびいていた。

 池にかかる橋を渡りきると、最終コーナーに向かい下り坂。ギアを一段重くする。このボテッキアにはチームで使うマシンと同じ変速機が取り付けられているはずだ。しかし、変速時のなめらかさが何故か大きく違う。チームのカーボンフレームのマシンはチェーンがスプロケットからするっとなめるように外れ、次のスプロケットに、ロープ投げの達人のようなしなやかさで、いつのまにか掛かっている。それに比べこのボテッキアは、ガシャガシャと大げさな音をたて、変速が完了するとペダルは信じられないほど重くなる。まるでボテッキアが、もっともっとペダルを踏め! と催促してくるように感じる。

 あの頃はもっともっと踏めると信じていた。自分が成長すればするほど、鍛えれば鍛えるほどこいつはどこまでもスピードをあげて、俺を知らない世界に連れていってくれると思った。

 しかし、今は自分の限界を知っている。自分が出せる最高速度も知っている、それを維持できる時間も理解している。もう知らない世界などない。その限界を出し尽くしてみても、この日本を飛び出すことは叶わなかった。グランツールと呼ばれる自転車競技の最高峰、ジロ・デ・イタリアやツール・ド・フランス。その大舞台を夢見たこともある。夢はあくまでも、夢のままだった。

 走っていると、何人かの一般レーサーに声をかけられた。「応援してます」とか「がんばってください」とかそんな言葉だった。しかし、今の俺にはそれらの言葉を素直に受け取ることは難しかった。自転車ファンの中には俺が今年からプロでなくなることを知っている者も少なくない。なんとも恥ずかしい気持ちになる。いたたまれない。走っていてこんな気持ちになったのは初めてのことだ。ここにいる全員が失業が決まったレーサーを笑いものにしているのではないか、そんなことすら想像してしまう。

 ペダルに力を込められなくなっていく。

 そこへ後ろから追い上げてくる者がいた。

 そいつは俺と併走する形になると声をかけてきた。

「調子はどう?」

 懐かしい声。

 記憶を検索する。

 該当者はひとり。今そいつは、イタリアの青空のような、黄緑と青の中間色の自転車に乗っていた。

「え? ユーキか?」

「久しぶり、ケイゴ。やっと追いつけた」

「お前なんでここに? それに、その自転車は……」

「プロになった旧友とまた走れるなんて、めったにない機会だからさ。これはオレの愛車、カッコいいだろ?」

 間違いない、数日前にあのサイクルショップで見たあのビアンキだ。

「うん。カッコいい……。いい趣味してる。でも、オレのボテッキアの方がカッコいい!」

「そう言うと思った。やっと追いつけたけど、ごめん。オレはここでピットインなんだ。選手交代。後はチームメイトに任せることにする。じゃあ、またね」

 ユーキは緩やかに右へ、ピットコースに入ってゆく。

 なぜここにユーキが? それに、チームメイト?

 このレースはエンデューロと呼ばれるもので、時間内の周回数をチームで競うものだ。コースに出られるのは一チーム一人までで、選手交代は何度でも可能というルールだ。

ユーキも何人かでチームを組んで出場したのだろう。プロであるケイゴはハンデのため、チームではなく、一人での参加だった。

 ゲートを抜けて、一直線の道がしばらく続く、この先は上り坂で大きく左カーブ。その間ケイゴは何人かの市民レーサーに抜かれた。

 ロードバイクだけでなく、ミニベロやクロスバイク、改造ママチャリで参加する者もいる。おまけに仮面ライダーの仮装をしている者まで……。この大会は記録を競いあうだけでなく、こういったお祭り要素もある。

 こういうのも自転車の楽しみ方の一つだろう。否定はしない。それに今日以降、自分はプロではなくなる予定だ。これからはある程度本気で走るためには、市民レーサーに交じってこういう大会に出場するしかないのだ。

 気づくとケイゴは一人で走っていた。市民レーサーの集団はずっと前にいってしまった。

 バックストレート。風は向かい風。ペダルが重い。

 すぐ後ろでギアを換える音がした。いつの間にか追い上げてきた誰かが、ケイゴを風よけにしていたらしい。

「おい、本気で走れよ! なにノロノロしてんだ!」

 女の声だった。

 なんて乱暴な言葉づかいだろうと思い、振り返ったケイゴは幻をみた。

 新光寺、最終コーナー、『砂場』と呼ばれていた場所。初めて敗北を確信したあの瞬間。

 しかしケイゴが見ていたものは幻ではなかった。

 勝利の二文字に食らいつく猫科の獣のような目。今まさにケイゴを食らおうと牙をむきだしにした闘争心で、ペダルを乱暴に踏み込む。

 再びその獣によって、ケイゴは負けを確信させられそうになる。

「ジュン?」

 ケイゴはその獣の名を呼んだ。


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