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小雨がぱらつく土手の道は懐かしい匂いがしていた。
雑草が湿った独特の青臭さ。処理水がふんだんに混じる多摩川からは有機的な生臭さ。それらが混じると、あの田園の中の道。新光寺へ続く農耕車専用道路を思い出す。記憶の中のあの景色には、限りなく近い匂いがしていた。
細かい水滴がオークリーのサングラスに張り付き、視界は目の粗いモザイクになってゆく。
ケイゴは自分が今、多摩川サイクリングロードを走っているのか、あの農耕車専用道路を走っているのかわからなくなる。
サングラスを外す。
今日着ているのはトレーニング用のサイクルウェアではなくユニクロで買ったシャツとジーンズ。しかしヘルメットとグローブだけはしっかり身につけていた。
選手生命は瀬戸際とはいえ、自分はまだプロだ。万が一の備えは必要。それに四日後にはレースを控えている。レースといっても市民レース、つまりは素人も参加できるサイクルイベントだ。ケイゴはそこにゲスト選手として招待されていた。
それでもプロとして最後になるかもしれない仕事だ。何年間もそうしてきたようにベストは尽くす。ケイゴはそう考えていた。
目的地のサイクリングショップに着くまで雨は本降りにならずに済んだ。
店内のメンテナンススペースには、生まれ変わったケイゴのロードバイクがあった。
「すげーカッコいいだろ? ボテッキアていうんだ」
そう言って友人達に自慢して見せたのは中学生の頃。実家の納屋から引っ張りだし、お年玉と一ヶ月の家のお手伝いで稼いだお小遣いを使って修理した、あの黒いロードバイク。
ハンドルを握ってみる。バーテープは新しいものに巻き換えられ、最新の変速機が装着されているが、握った時に感じるあの胸のざわつきは変わらない。
「ああ、いつもお世話になってます」
後ろから声をかけてきたのは、この店のメンテナンス担当者。歳は四十から五十の間くらい。気むずかしそうな、ぶっきらぼうそうな……、昔ながらの職人気質な雰囲気を静かに漂わせている。眼鏡の奥はいつもうつむき加減に眠そうな目をしていた。
「どうも。できたんですね?」
「ええ、今ちょうどご連絡さしあげようかと思っていたところでした」
「ありがとうございます。すばらしいです」
「元がいいものだったんでね。問題なく。いい仕事ができたと自分でも思ってますよ。でもこれ北見さんの体型にはちょっと小さくありませんか?」
「ええ。でも今度のイベントにはどうしてもこれで出たかったんですよ」
「そうですか……。ええ、でも間違いなくいいものですね。やっぱりクロモリはいいですね。北見さんのようなプロの方でもクロモリの愛好家がいてくれるのは、私のような古い人間には嬉しいことです」
「愛好家というか。自分はこれしか持ってないんですよ。普段でもチームから借りているマシンを使っていますし……」
「頑丈で長く使えるっていうのは、いい道具の条件ですよ。それでいうとクロモリの自転車はいい道具です。ほらこっちの自転車なんかも古いでしょ?」
見るとボテッキアの隣には、クロモリのビアンキがスタンドに立てられている。確か、チェレステと呼ばれるこのメーカーのイメージカラーだ。黄緑と青の中間色。イタリアの空の色だとか、そう聞いたことがある。
「確かに古そうですね」
「このお客さんは素人さんなんですけどね。これを自分の飲食店に飾ってたら、ちょっとした話題になっちゃったらしいんですよ。だからこれとは別に自分の通勤専用のロードを買いにきたんですが……。いろいろ試乗もしてみて、でもやっぱりこれ以外はなんだかしっくりこないらしくて、結局新車は買わずじまい。でもこうしてメンテ頼んでくれるんで、お得意さまになってはくれましたが」
「カッコいいですね……」
でもオレのボテッキアの方がカッコいい。という言葉が続いて口から出そうになった。でもそれはあまりに大人げないかと思った。まるで中学生みたいで。
「よかった。晴れてきたみたいですよ」
窓の外から陽が射してきた。これから試走をして細やかな調整をしてもらう予定だ。