quattro
「今回の……、というかこのお店にはじめてクレーム案件が発生しました……」オレは皆に向かい発表した。
ここは『Café Sabbath』の客席。時間は午前七時三十分。店長のオレ、エリアマネージャー、そしてアキさんをはじめ、大半の従業員が顔を揃えていた。
緊急ミーティング……。そのお店にクレーム案件が発生した場合に開かれる決まりだ。
このお店にとって、そしてオレが店長になって、記念すべき第一号のクレーム案件とは、実にバカバカしく難しい問題だった。
内容はこうだ。この店内は禁煙のため、あるお客が煙草を吸うために外へ出て戻ってくると、その隣の席にいたお客が「私は煙草の匂いがダメなんだ。せっかく禁煙のお店を選んで来てるんだから、もう少し配慮してくれ」と喫煙者のお客に強い口調で言ったらしい。するとお客同士の口論に発展。煙草の匂いがダメだと言ったご婦人はそれが原因で体調を崩し、この店の禁煙環境の徹底がなされていないのが原因だと本社に言ってきたらしい。
「難しい問題ではあるけれど、これについて話し合いをしたいと思います。こういうことが二度と起こらないためにはどうしたらよいか……。いや、でも、本当に難しい問題なので、具体的な解決策が出るものでもないか……。とりあえず、これについての感想、意見、なんでもよいのでみんなの考えを聞かせてもらいたい」
言い終えるとオレは着席した。
「これって、どう考えてもうちのせいじゃないでしょ」ひとりがぼそっと発言した。
「そう。従業員の誰も悪くないと、オレも思う。でもお客様が気持ちよく過ごせる環境を提供するための最大限の努力をしなきゃいけない。それができなかったのはお店の責任かもしれない」オレがそう言うと、エリアマネージャーがうんうんと頷いたが、特に何か発言する気はなさそうだ。この人はとりあえずここにいなきゃいけない。それがエリアマネージャーとしての責任なのだから。
責任……。
「責任だって? 僕たちにはなんの関係もない!」いつかのジュンがそう叫んでいた。あれはいつだったかな?
ああ、そうだ。『湧水堂』でのことだ。
新光寺からの帰り道。農耕車専用道路を抜けたところにある湧き水。コンクリートで作られた偽物の岩肌から突き出た竹筒から、チョロチョロと水が滴り落ちているその場所は、地元で有名な湧水だった。遠方からわざわざ汲みに来る人もいた。その水を使っていることを売りにしている蕎麦の店が東京にもあるということを聞いたことがあるが。東京に来て十二年、そんな店がどこにあるか知らない。きっと地元の大人達が作った眉唾な話なのだろう。なんでも「東京」という言葉を使えば箔がつくと思っている、田舎らしい考えだ。
オレ達は新光寺で遊んだ帰りに、よくそこで乾いた喉を潤していた。
ある日、『湧水堂』にどこかの子供がスプレーで落書きをしたらしい。いかにも子供らしい三文字の卑猥な言葉が偽物の岩肌にデカデカと書かれていたとか。それはすぐに近所の住民達に消されたらしい。
そんな事件を知らずに、オレとケイゴ、ジュンは『湧水堂』にいつものように立ち寄った。
すると近所に住むという爺さんがいきなりオレ達を怒鳴りつけてきたのだ。
「やったのはおまえ達だろう!」とか「ガキどもはここへきちゃいかん」とかそういうことを言われた気がする。
オレとケイゴは呆然と聞いているしかなかった。しかし……、いや、やはりと言うべきか、ジュンは食ってかかった。
「言いたいことはわかったけど、なんで僕たちがやったって決めつけるんだよ?」
「オラはおまえらがよくここに来るのを見とった」
「僕たちがやったところを見たわけじゃないだろ?」
「んだども、ガキどもがやったことにはかわらんだろ。ガキはもうここに来ちゃいかん!」
「ここはあんたのものかよ? 決める権利なんてないだろ」
「まったく、屁理屈ばっかこきやがって。んじゃ、オラも屁理屈こかせてもらうども、おまえらと同じガキがやったことなんだっけ、おまえらガキが責任とらんかねこって」
きっとあの爺さんは子供が嫌いだったのだろう。『湧水堂』の番人を気取ることが老後の唯一の楽しみだったに違いない。
その日三人は、すぐには家に帰らずに、隣の集落にある駄菓子屋まで行くことにした。オレとケイゴはジュンに『桃太郎』というアイスを奢った。あの頃、ガリガリくんはまだ発売されていなかったように記憶している。
「くそー。なんだよ、あのじじい! マジでむかつく」アイスの袋を乱暴にあけながらジュンは言った。
「もういいだろ。次会っても相手にしなきゃいいって」ケイゴが言った。
「お前はなんでそう、なんていうか……大人なんだよ? 腹たたねーか? あんなふうに言われて」
「ムカつくけどさ。つまりはもうボケてんだよ。むしろ、かわいそうって思えって」
「ボケてたら屁理屈なんか言えるかよ。本当にここの大人たちは……嫌いだ。なんでも決めつける。ガキどもの責任とれだ? ふざけるなよ! 僕はガキじゃない。お前ら大人になってもあーはなるなよ。むしろこんな村、みんなで出て行こうぜ」
そう。結局みんな、あの村を出た。ジュンの言う通りにしたわけではないが、結果的にそうなってしまった。
「皆さんほどの責任感と問題意識があれば、もうこのようなことは起こらないと信じています。これからもよいお店づくりを目指して、努力を怠ることのないようお願いします」エリアマネージャーが言った。
今のが締めの言葉だったようだ。気づけばもうミーティングは終わっていた。
「では、今回のミーティングはこれで終わります。皆さん朝早くお集まりいただき、ありがとうございました」オレは慌てて解散を皆に告げた。
アキさんが開店準備を進める客席の隅でオレはノートパソコンを開き、ミーティングの議事録をまとめていると、帰りがけのエリアマネージャーが話しかけてきた。
「いやあ、ここは従業員の意識が高くて助かるよ。君の従業員の自主性を尊重するやり方もうまいもんだねー。君が発言したのなんて最初と最後だけだもんねー」
皮肉なのか、本気で褒めてくれているのかわからないが。「ありがとうございます……」と言っておく。まさかミーティング中、昔を思い出し、物思いにふけっていたなどとは言えない。
「そういえばこの前の記事、本社でも話題になってたよ……。こんなこというのもなんだけど。今回のクレームなんてさ気にすることないよ。あのおかげで、帳消しだよ。査定にはまったく響かない」
「どうも……。そういえば、あの記事を書いて下さった記者さんに連絡をとりたいんですが。連絡先を教えていただくことって可能ですか?」
「ああ、いいけど……。でも、あの人はこの店の常連さんみたいだよ。よくここで記事を書いてるって聞いたけど……」
「え? そうなんですか」
「店長、あの記者さんなら夕方によくくる常連さんですよ。店長は夕方には帰っちゃうから、知らないのも無理はないですが……」アキさんがそう教えてくれた。「開店準備終わったので、私煙草吸ってきます」と続けてアキさんが言った。
オレもエリアマネージャーも苦笑いするしかなかった。