dodici
子供の頃の俺たちにはどうにもできない問題がいくつかあった。それらは時間が解決してくれると、ぼんやりとそう信じていた。そうしてそれらを、つまりは棚上げした。
その問題のうちいくつかは確かに時間が解決してくれた。しかしそうならなかったこともある。エイミとジュンのこともその一つだ。
俺たちが大人になるまでに、エイミの病気は自然と治ってしまうか。医学が発達して、ある日病院に行って帰ってくると、すっかり二人の人格がひとつになっていたりしてしまうんだろうと、楽観的に考えていた。
つまり俺たちではない誰かが、俺たちの知らない場所で解決してくれるんだろう、と。
それでも、俺たちは間違いなく〈ふたり〉の良き友人であった。何も言わず、すべてを理解したつもりで一緒にいた。それを棚上げだと言われれば否定はできいない。俺たちはあのとき子供だったのだから。
大人になってからも、〈ふたり〉のことはずっと心の奥の方にひっかかっていた。記憶を積み重ねっていくごとに、それは少しづつ思い出という体積物に埋もれていった。しかし、いつだって、ここには大切な問題が埋まっているのだ。と意識はあった。まるでタイムカプセルみたいに。
そして、俺たちは三十歳になった。あの頃どうにもできないと思っていた大抵の問題を今なら解決できる。解決できなくても、それに対して自分なりの心の置き方を見つけることができる。寝心地の悪い慣れない枕でも、なんとかしっくりくる体勢を見つけようともぞもぞと悶えるようにして、ベストでなくてもベターを探しだし、さしあたり満足したつもりになれる。もしかしたらそのやり方もまた棚上げかもしれない。四十歳になった自分たちに向けて、またタイムカプセルを埋めなおしてしまっているだけかもしれない。
もしかしたら俺たちはまだ、なにもできない子供なのかもしれない。
午前十時。東京都国分寺市。府中街道沿いのコンビニで三人は待ち合わせていた。
ケイゴのボテッキア、ユーキのビアンキ、彼女のデローザが並んで壁に立てかけられている。ユーキはその三台のロードバイクが並ぶ壮観な絵を「かっこいい!」と言って、何度もスマートフォンで撮影している。
その姿を見ていたケイゴは昔を思い出した。当時もユーキは自分の組み立てたプラモデルを並べて同じように「かっこいい!」と言いながら使い捨てカメラで撮影していた。
「変わってねーな」
「え? 何」
「なんでもねえよ」とケイゴは鼻で笑うように言った。
コンビニから彼女が出てきた。手にはスポーツドリンクのペットボトルが何本か詰まったビニール袋が下げられている。
「前橋まではどのくらいかかるの?」ペットボトルを一本とりだし、フレームに取り付けられたボトルホルダーに差し込みながら彼女はケイゴに聞いた。
「それは、二人の体力次第だけど、夜までには着けるはずだよ」
「明日は何時起き?」ユーキが聞いた。
「五時。しっかり休んでおかないと、三国峠は二人には厳しいぞ。明日の夜は長岡市内で一泊。そして明後日はいよいよ新光寺」
そう、この自転車旅行の目的地は三人にとっての思い出の場所、新光寺だ。国道十七号線を北上し、群馬県側から三国峠に入る。標高一、○八十四メートルの山越えだ。それほど険しい道の果てに待っているのは、三国峠と比較にならないほど小さな名もなき山。なんてバカバカしい旅なんだろうとケイゴは思った。
「週末までには帰ってこられるよね? 二人と違ってオレには仕事があるから」ユーキは言った。
「夕ご飯に間に合わないかもしれない……って気持ちで俺らは昔、遊んでたか? 気にするな」ケイゴは言った。
「しかたがないよ。ユーキには奥さんも待ってるしね」彼女は言った。
「奥さん?」
「ユーキったら、ケイゴには内緒にしてたの?」
「いやー、タイミングをみて言おうとしてたんだけど」
「なんだ、お前結婚したのか?」
「そう。ユーキのお相手は、お店のバイトの人で、なんと! じゅっこ上の、あねさん女房なんだって」
「なんでジュンが言っちゃうんだよー」
「あとでゆっくりと聞かせてもらおうか。道は長い。時間はたっぷりあるぞ」
「あ、そうそう。アタシ、もうジュンじゃないから」
「え?」ケイゴとユーキは顔を見合わせた。
「私はミドリ。永海ミドリ。一応、それが本名」
ケイゴとユーキは約三秒間沈黙する。二人の頭の中は混乱を極めた。今しがた耳に入った単純でいて衝撃的な情報を瞬時に処理できない。
「は? 本名?」ケイゴが言った。
「はは……、そういえば子供同士がつるむのに、ちゃんと自己紹介なんてしなかったもんね」
ユーキはやっと飲み込めたようだ。
そう。エイミは彼女の名字。名はミドリだった。ケイゴとユーキはその事実をはじめて知った。
「そういうことなら。みんな、改めて自己紹介しといた方がいいんじゃないの?」彼女は言った。
「いや、いいよ。めんどくさい。それより。ジュンは……」ケイゴは聞くのを躊躇した「ジュンは……、もう、いないのか?」もっとも知りたかったことだ。
「いるよ。ここに。ジュンの記憶も負けん気強さも、ちゃんとアタシが持ってるよ」
はにかんだ彼女の目が猫科の動物のそれを思わせた。少なくともケイゴにはそう見えた。
「エイミは……、オレたちがエイミって呼んでた君も、そこにいるの?」ジュンが聞いた。
「エイミもジュンも、アタシだよ。もう全部ひとつになったの」
夏が過ぎた空は複雑な色をしていた。素直に青と呼べない、ひねくれた色。イタリアの空の色をチェレステと呼ぶなら、この空をなんと名付けたらよいのか、ケイゴにもユーキにもわからない。ただなんとなくこのひねくれた空が「旅は一筋縄じゃいかないぞ!」と暗示しているような気もした。それに、これまでも人生が一筋縄だったことなどない。
くねくねとした道を猛スピードで駆け抜け、その一瞬一瞬をなんとかうまくやろうと必死だった。みんなそうして日々を過ごしてきた。
見事なコーナリングを披露できることもあれば、誰かに追い抜かれることもある。コケて手や膝をすりむき、ひとり涙をこらえ途方に暮れていたことも……。それでも自転車を引き起こし、またペダルを回した。惰性に意志を込め、慣性を愛するままに。どこへでもゆけると信じて。
「あの頃見つけられなかった、もっと長いコースってあるのかな?」
「そうだなあ。あるかもな」
「もし新光寺がなくなちゃってたらどうする? 再開発とかで……」
「それもありえるな……。そしたら予定を延長して、もっともっと北上してみるか? それはそれで楽しい旅になりそうだ」
「だからオレには仕事があるんだって!」
「いいねー。そしたら海沿いを行こうよ。おいしいものが食べられるよ」
「それじゃ、そろそろ行くぞ」
「オールグリーン!」
旅立ちの合図として、その言葉はあまりにふさわしかった。合図を聞いた空は色めきたつ。
彼らを待ち受けるすべての事象は旅人に伝えるべき言葉を持っている。はじまる季節は祝福を、木々のさざめきは幸あれと、うつむく向日葵は別れを唄い、遙かな山陰は郷愁を写し。道はただそこにあって続いてゆく……。
風は今、彼らにだけ吹きはじめた。