undici
ふわりと宙に浮くような……。不意に足下の床板が外されたような。しかしそれは一瞬。すぐにスピードがその感覚さえ置き去りにして、第一コーナーが迫る。左ヘアピンカーブ。
先頭はジュン。おもいっきりイン側に寄る。続いてケイゴ。
「オールグリーン!」ジュンが叫ぶ。
レースにおいて、下り坂の勝負をダウンヒルと呼ぶ。新光寺の急勾配を利用すれば、自転車といえども時速六十キロを超える。危険な遊びだった。
そのスリルはまだ子供だった三人を夢中にさせた。だがその危険性を理解できないほど、子供でもなかった。
もっともレースに適したこのコースでの勝負は三人の中で禁止とされていた。
しかし、ジュンはケイゴとここで勝負をするために、エイミを人質にした。レースで自分に勝てばジュンという人格は消える、もし勝てなければ、エイミという人格はもう二度とあらわれないと……。
ゴールが近づく。僅差ではあるがケイゴが優勢だった。この日、ジュンが乗っていたのはマウンテンバイクだった。いつものシティサイクルよりはやや性能が高い。ギヤ比も違う。しかしケイゴが乗っているのはロードバイク。そこに油断が生まれた。
最終コーナー『砂場』。今日もアスファルト上には砂が散らばっている。外側に向かい傾斜する逆バンクはただでさえ慎重にならざるをえない。ケイゴはタイヤがスリップしないぎりぎりの速度を慎重に見極める。
「オールグリーン!」二人同時に叫んだ。
ケイゴはジュンが自分よりアウト側、つまり左後方にいると思っていたが、その声がすぐ右から聞こえたので驚いた。
その時、勝負は決した。
ケイゴの数センチ右、コーナー内側にジュンが猛スピードで突入していく。
危ない。ケイゴは叫びそうになったが、次の瞬間、ジュンのどう猛な横顔を見た。彼女は笑っていた。その顔は確信に満ちていた。勝利への確信。
ジュンが選んだのは、インコース……の、さらに内側。砂地の上を走るショートカットだった。緩やかに大きく右に曲がる道路上を走るよりずっと距離を短縮できる。ブロックタイヤを履いたマウンテンバイクだからこそできる芸当だった。ロードバイクの細いタイヤでは到底マネできない。ケイゴはアスファルト上を走るしかない。
ジュンはさらにペダルを踏み込む。後ろタイヤが砂塵を巻き上げながら、斜めに滑ってゆく。
ドリフト。オフロードバイクや車ならわかるが、まさか自転車でそれをやるなんて――ケイゴは信じられなかった。
それをやるには強烈な推進力とバランス感覚が必要だ。エンジンのない自転車では推進力は人力。それでは到底不可能に思える。だがそれを可能にしたのがジュンの度胸と新光寺特有の急勾配だ。ジュンはブレーキを一切かけずに全速力でコーナーに侵入した。前に進もうとする力が強ければ強いほど自転車は安定する。理屈ではわかっても、簡単なことではない。きっと何度もこの場所で練習を積んだのだろう。そしてこの時のためだけにマウンテンバイクを調達したに違いない。恐るべき勝負への執念だ。
その日以降、エイミは消えた。
ジュンとして生きるのと、エイミとして生きるのと。そのどちらが彼女にとって幸せだったのか。ケイゴとユーキはそれについて一度だけ話し合ったことがあった。中学校の卒業式の日。新光寺の頂上でだ。しかし結論は出なかった。
〈生きる〉とか、〈幸せ〉というものについて明確な意識や経験値を持ち合わせてはいない子供にとっては、あまりに大きすぎて、漠然としたテーマだった。
遠い異国で開催されているツール・ド・フランスやジロ・デ・イタリアという世界最高峰の自転車競技を夢見る方がいくらか現実的だと思えるほどに……。