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uno

 右足を踏み込む。全体重をペダルにのせる。

 最初の一漕ぎは不安定で重い、二漕ぎすれば慣性の法則に従い車輪が前に前に進もうとする、ジャイロ効果により安定感を得た車体はまっすぐに立ち上がろうとする。まるで意識をとりもどしたかのように。

惰性に意志を込め。慣性を愛するままに、ペダルが回り出す。




 五月上旬の空気は冷たく透き通っていた。それは屈折も反射もせず、まっすぐに朝の光を素通りさせる。あたりに漂っているはずの水蒸気の気配も排気ガスの匂いも、微粒子さえも消し去ってしまった浅く青い空は、見習いマジシャンのように「ご覧ください。ここには何もありゃしません」と得意気な様子だ。

 しかし、残念ながら手品はいとも簡単に見破られる。空気の存在を誰の目にも見える形で証明する者が現れたからだ。自転車の彼女は目を細め、坂道を滑るように駆けおりる。前髪が左右に流れる。風は彼女にだけ吹いていた。その表情は空気さえ邪魔者あつかいしているようだった。

 その先の信号は青。オールグリーン。

 もし、信号が赤だったとしても、彼女の中に止まるという選択肢があったようには見えない。その姿には誠実なまでのスピードに対する欲求が見て取れた。

 黄色信号が点灯するころには、フリーホイールのラチェット音が遠ざかっていった。


          ◇


「ああ、じゃあ盗まれちゃったんだよ。店長ん家、駅近いでしょ。飲んでて終電逃しちゃった奴がさ、タクシー代ケチってセッチャしたのかもね」

 女性にしては低めの少しハスキーな声。いつもと変わらぬ落ち着いた口調ではあるが、僅かながらあきらかに苛立ちが混じっている。その苛立ちはセッチャ(チャリンコの窃盗)した犯人に対するものではなさそうだ。私が全部一人でやれってのかい? という心の声が聞こえた気がした。この最新のスマートフォンはそんな感情さえ忠実に伝えてくれるものらしい。

「そういうことで、すみませんが少し遅れてしまうかもしれません」

「あいよ。ゆっくりで大丈夫だからさ、ちゃんと警察にもいってきな。じゃ、お気をつけて」

 そう言って、電話の向こうのアキさんが「ふー」っと息を吹いたのが聞こえた。ため息ではなさそうだ。きっとまたオレがいないのをいいことに煙草を吸いながら開店準備をしていたに違いない。気遣いの言葉をかけながらも、さて! やってやろうかい! という頼もしい決意が感じられるニコチン混じりの吐息を最後に電話が切れた。

 そこにあるはずのものがなくなったアパートの駐輪スペースを振り返る。いくら早くトイレにいきたかったからとはいえ、鍵をかけ忘れた昨晩の自分を恨めしく思う。自然とため息が出た。今の職場で店長就任以来、初の遅刻になりそうだ。駅前の交番に寄り、盗難届を書いた。うんざりするような満員電車を乗り継ぎ、『Café Sabbath』に着いたのは、いつもより一時間遅い十時三十分のことだった。『Café Sabbath』は都内に飲食店をいくつも展開する会社が経営する店のひとつで、そこが今のオレの職場だ。二子玉川にあるこの店は都内から少し離れているため、本社から各店を統括しているエリアマネージャーは足を運びづらいらしく、そのためオレを含め、他の従業員も割とのびのびとやれている。

店の前にはアキさんの自転車があった。紺色の車体に、LOUIS GARNNEAUと難しい綴りのメーカー名が入っている。

 裏口から入ると、アキさんは脚立にのり、遅番従業員用のエプロンを厨房の天井付近に張ったつっぱり棒に干している最中だった。モデルのような細身の体型に似合わず意外にたくましい二の腕がTシャツの袖から見え隠れする。そのアンバランスさに長年の苦労とそれ故に身につけたしたたかさが感じられる。オレは決して二の腕フェチではないはず。少なくともそれを自覚したことはないが、アキさんが洗濯物を干している時、なぜかその二の腕を見てしまう。ムラムラしてしまうわけではない。なんというべきか……、つまりはそう、好感が持てるのだ。

「おはようございます」オレはアキさんを見上げながら挨拶をした。

「災難だったねー。電車で来たの?」

「はい……」

 アキさんは今年で四十歳になる。本人は二十八歳と年齢をかなりサバ読んでいるが、他の従業員も常連客もそれを疑いはしない。それほど若々しくみえるのだ。実年齢を知っているのは、採用担当者として履歴書を預かったことがある店長……つまりオレだけだ。

「開店準備は終わったから」

「すいません。全部やっていただいて……」

「今日はしょうがないよ。入金はまだだから、それはお願いしますよ」

「じゃあ、行ってきちゃいます。アキさんはどうぞ、一服でもしてて下さい」

「そう。んじゃあ、お言葉に甘えて……」

アキさんはポケットから携帯灰皿と、インディアンの描かれた煙草の箱を取り出すと厨房奥の換気扇の下に移動した。

 オレは業務用冷蔵庫から段ボール箱を取り出した。この中には小型金庫が納められている。売上金を冷やすことで何かいいことがあるわけではないが、本社から命じられた空き巣対策だった。

「うちに一台あまってるけど、欲しい?」

「え? 何がですか?」

「チャリだよ。自転車」

「そうですねえ……、盗まれたやつが戻ってこなかったら、考えさせて下さい」

 オレのチャリは思いのほかすぐに帰ってきた。変わり果てた姿で……。カゴはなくなっており、前タイヤのホイールはひしゃげていた。

 愛車の名前は「ギャン」だった。誰かにその名を語ったことはない。オレの脳内でだけそう呼ばれていた。もちろんあの有名なロボットアニメに登場するモビルスーツの名からとった。理由は水色に近い銀色の車体から連想しただけだ。近所の量販店で九千八百円だった。いわゆるママチャリというやつだ。

 本家のギャンはあるキャラクターの専用機だったのに対して、オレのギャンは量産機だった。そして本家に負けず劣らず、壮絶な最期を遂げた。

 ギャン(チャリ)は、我が軍のドック(家賃五万三千円のボロアパートの駐輪場)に忍び込んだ、敵のスパイ(酔っぱらいの学生)により強奪(盗難)され。軍事境界線(市の境)付近まで逃走するも、巡回(警邏)中の警備兵(制服警官)により捕捉(職務質問)され、追いつめられたスパイ(酔っぱらいのガキ)は、自爆(チャリごと橋の上から多摩川に飛び込んだ)を決行。

 奇跡的に一命をとりとめた(かすり傷一つなかったらしい……死ねばよかったのに)スパイ(ガキ)は捕虜(補導されただけ)となるも、二時間後には脱走(どこかのボンボンだったらしく、すぐ釈放)。

 この事件は政治的判断による解決で幕引きとなった(バカ親父についてる弁護士が菓子折りと弁償金持って謝りにきただけ)。

 その愛車は約四百日間の通勤路往復をオレと共に戦い抜いてくれた、歴戦の勇者だった。九千八百円にしては十分な働きをしてくれた。ギャンよ。安らかに眠れ。

 次の休日にでも新しい自転車を買いにいこう。東京に来て十二年経つが未だに通勤時間のあの混雑に慣れることができない。こんなにも多くの人々が当然のように交通機関を使いこなす姿を見ていると、オレだけがそれをこなせていないように感じることが多々ある。自覚はしていないが、オレの頭に異常があるのではないかと悩んだことすらある。みんなどうやってこんな複雑なシステムを理解しているのだろう? 見ず知らずのおっさん達とゼロ距離でのつき合いを強いられる電車内に気が狂いそうになるし。人々が縦横無尽に行き交う乗換駅の改札内で誰にもぶつからずにホームを目指すのは至難の業だ。そう、そんな状況に慣れる方が異常ではないか。

それに東京都下は南北のアクセスに関しては非常に不親切だ、自転車で三十分の距離を一時間かけて満員電車に乗るのはバカバカしい。

 雨の日には仕方なく電車通勤をしていたが、愛車が盗まれて三日、皮肉な晴天が続いていた。

 その日、出勤するとアキさんは客席の床にモップをかけていた。あいさつをしようとした時、あることに気がついた。昨日までなかったモノが窓際の壁に立てかけられている。黄緑というか青というか、その中間色の自転車が窓から差し込む柔らかなスポットライトに照らされている。アンティークを意識したこの店の雰囲気によく似合っていて、ディスプレーの一部かと見まがうほどだ。

 車体にはBianchと書かれている。

「ビアンチ?」

「ビアンキって読むらしいよ」モップを持ったままのアキさんが答えた。

「これ、どうしたんですか? ロードバイクってやつですよね?」

「例のアマリモノだよ。店長まだ自転車買ってないでしょ?」

「え? でもこんな高そうなもの……」

「前に一緒に暮らしてた男が置いてったものだから、気にしなくていいよ。私にとっては粗大ゴミだから。店長はドロップハンドルって乗ったことある?」

「ええ、まあ」

 そう。一度だけ乗ったことがある。あれは中学生の頃だ。ケイゴのロードバイクを一度だけ借りた。懐かしい新光寺の景色が一瞬蘇る。

「気に入らなかったら売っぱらっちゃっていいから。二束三文だろうけど」

「ありがとうございます」

 少しだけ迷ったが、ありがたく頂戴することにした。たった三日間の電車通勤でオレの精神はすでに限界だった。それも一刻をあらそう深刻な状況。これからは雨の日だって電車になんて乗るか! と思ったほどに。


 いつもの通勤路。坂道を駆けおりる。緩やかなコーナリング。

 気に入らないどころか、その日からビアンキはオレの大事な相棒となった。通勤時間をママチャリの時より五分以上短縮できたし、何より楽しくて仕方がなくなった。このスピード感も、息を切らして走る爽快感も、忘れかけていた懐かしい感覚だ。

「オールグリーン!」と心の中で叫ぶ。

 新光寺のルールだ。先頭を走る奴は後続の連中に障害物、対向車がないことを伝えるためにはじめたものだ。

 小口径の自転車(ミニベロと呼ぶらしい)に乗った学生風の若者をコーナー内側から追い抜く。

 まだまだ。あいつらはもっと速かったぞ!

 ケイゴの背中、それを追うジュンの背中がフラッシュバックする、後ろからはエイミの「待ってよー」という声まで聞こえてきそうだ。新光寺の新緑とその隙間から差し込む木漏れ日が目の奥で流れてゆく。

 みんなどうしてるだろうか? ケイゴはまだ自転車が大好きだろうか? ジュンは負けず嫌いだろうか? エイミは……。

 どうしてあの頃、みんな自転車に夢中になったのだろう?

 みんなどうしているだろう……変わってしまってはいないだろうか?

 オレは……きっと変わった。新光寺の最終コーナーのように緩やかに変わっていった。

 オレは高校に進学すると、あの三人とはしだいに疎遠になっていった。十六歳で原付免許を取得し、両親にスクーターを買ってもらうと、自転車には乗らなくなった。

 あの田舎ではみんなそうだった。自転車に乗るのは高校一年生まで、十六歳で原付、十八歳で車。男でも女でも……。そうしなければ通勤も通学も、買い物さえままならない。田舎特有の事情によるものだ。


 ある日、雑誌の編集をやっているという客から取材を申し込まれた。飾られているビアンキが気になって――とのことだ。あの日から、店内の窓際のスペースがオレ専用の駐輪場になっていた。路上駐輪はまた盗難の恐れがあるし、せっかく交通費をケチっているのに月極の駐輪場を借りるのもためらわれた。本社のお偉いさんやエリアマネージャーがこの店に視察に来てもそれを咎めることはなかったし、それにあの窓際にビアンキが立てかけられている姿が妙に絵になっている気がしていた。

 オレは記者に取材は本社を通して欲しい旨を伝え、本部担当者の連絡先を教えた。

 すると、その三日後には、本社を通して取材の日時を伝えてきた。どうやら雑誌というのは、自転車の専門誌だったようだ。ビアンキの店長と、ルイガノの持ち主である従業員にインタビューをさせていただきたいとのことだった。ビアンキの店長とはもちろんオレのことで、ルイガノとはアキさんの自転車のことだ(あの綴りはそう読むのか!)。

 自転車のことにそれほど詳しくないオレは、何冊か適当に選んだ自転車の専門雑誌を購入し、さらにはインターネットを駆使して少し勉強してみた。付け焼刃もいいところだが、エリアマネージャーからは上手くやるように言われている。これも仕事だ、しかたがない。

 しかし、その勉強のおかげで、わかったこともある。オレのビアンキはクロムモリブデン鋼(略してクロモリ)という鉄でできているということ。昔はすべての自転車が鉄で作られていたが、昨今では軽量アルミやカーボンが主流とのことだ。しかし独特のしなりを持ったクロモリのファンも今だ存在しているとのこと。なるほど。オレはそういうアティテュードは嫌いじゃない。ビアンキのことがますます好きになりそうだ。

 そして驚くべきこともわかった。ケイゴのことだ。彼は実業団の自転車チームで活躍しているらしい。いくつもの輝かしい成績を残してはいるが、そのチームは来年、解散が決定しているとのことだ……。

 日本においてはまだまだ自転車はマイナーなスポーツだ。普通に生活しているなかで、野球やサッカーであれば、どんな大会があって、どのチームが勝って、どんな選手が活躍したのかという情報は自然と耳に入ってくる。しかし自転車競技はそうではない。

 ケイゴがそんなに輝かしい活躍をしていたことを、オレは何年間も知らずにいた……。

 チームが解散……。ケイゴはどこか他のチームへ移籍するのだろうか? まだこれからも走り続けてくれるだろうか? そしたら彼が出場するレースに応援に行きたい。その時が来たらビアンキに乗っていこう。ジュンとエイミになんとか連絡をとって誘ってみよう。なんならアキさんも誘って……。

 いくらネットを検索しても、ケイゴの今後について書かれている記事は見つけられなかった。しかし、かわりに興味深い記事をひとつ発見した。数年前と思われるケイゴのインタビュー記事だった。

 そこには彼が自転車のプロを目指すきっかけになった出来事が書かれていた。

「そいつに、俺は完膚無きまでに自転車で負けたことがあるんです。本当に悔しかった。そいつに勝ちたいという一心でペダルを回し続けてきました。そして気がついたらプロになっていたんです。そいつは今どこで何をしているのかなあ……もしこの記事を読んでいたら連絡してほしいですね」

 そう、ケイゴはジュンに負けたのだった。それがケイゴの人生をその後大きく変えてしまうほどのことだった……。無理もない。ケイゴとジュンは、エイミを賭けて勝負したのだ。

 あの日、オレもそこにいた。オレは二人に付いて行くことができなかった。

 勝負は『砂場』と呼ばれていた緩やかな右カーブで決したらしいが、その瞬間を見ることは叶わなかった。


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