エピソード2-1
ツバキの朝は早い。
朝の6時頃に宿部屋のベッドで起床し、寝間着を脱ぐと、胸にさらしを巻くなどの課程を経て、普段着である袴羽織へと着替える。
そして、部屋の寝具を整えると、宿の外に出て、汲んできた井戸水で顔を洗う。
そうしてからツバキは、普段であれば、とある場所に向かってランニングをするのだが。
その日は少し、状況が異なった。
「おはようございます、ツバキさん! ツバキさんも朝、早いんですね」
そう言って宿に『戻ってきた』のは、昨日からツバキたちの冒険者パーティに入ることになった、ニノという少年だった。
彼は今、ランニングから戻ってきたところらしく、玉のような汗をどっさりとかいて、息を切らせていた。
「……驚いたな。冒険者というのはだいたい朝にはだらしないものだが。ひょっとしてキミは毎朝、こんなに早くに起きて訓練をしているのか?」
「はい! 朝のトレーニングって、気持ちいいですよね」
そう言う少年は、よく見ると、上着の下に重量のある鎖帷子を着込んでいるようだった。
ただランニングするだけでは飽き足らず、ウェイトを乗せて走ってきたということなのだろうか。
「それには同意するが……キミは俗な人間なのか、高潔な人間なのか、よく分からないな」
そう言ったところで、ツバキは昨日の出来事を思い出す。
酔っていたとはいえ、自分の早とちりで、この少年を極悪犯罪者呼ばわりしてしまった。
それが誤解であったことはもう分かったのだが、彼に対してはきちんと謝っていなかったなと思い至る。
なので、ツバキは今、頭を下げた。
「昨日は本当にすまなかった。私の早合点で、とんでもない冤罪を押し付けてしまった」
「あ、いえ。でも、分かってもらえてよかったです」
「そう言ってもらえると助かる。……まったく、リタが『穢された』などと大袈裟に言うのが悪い。ちょっと男子に抱き付かれたぐらいで、乙女かあいつは」
「えっ!? じゃあ、ツバキさんには、抱き付いてもいいんですか!?」
少年は、子犬のようなキラキラとした目で、そう言ってくる。
「あ、いや。それはまた別の話だ。男子がそうみだりに、女子に抱き付くものではない」
「……そうですか」
そして今度は、しゅんとしてしまう。
まるで小動物のようだと、ツバキは苦笑する。
「いずれにせよ、昨日の私の失態の責は、何らかの形で詫びさせてほしい。何かしてほしいことがあれば、言ってもらえないか」
そう言ってしまってから、ツバキはしまったと思った。
この少年を相手に、こんなことを言ったら、要求してくる内容は読めるではないか。
「じゃ、じゃあ──!」
「た、ただし! あまり過大な要求は呑めないぞ!」
慌てて防衛線を張る。
するとニノは、こんなことを要求してきた。
「ツバキさんに、剣を教えてほしいです!」
これにはツバキは、面食らってしまう。
「私がキミに、剣を教えるのか……? 私は構わないが……リタから聞いているぞ、キミはイグニスビーストの特別変異種を、一人で倒してしまったと。にわかには信じられない話だが、それが本当だとするなら、私がキミに教えられることなど、ないと思うのだが」
ツバキのその言葉に、ニノはふるふると首を横に振る。
「俺、パーティ内の役割としては、何でもできるつもりですけど、全部のスキルをマスターしてるわけじゃなくて。サムライのスキルは全然さわってないから、できれば教えてほしいです。それに──」
そう言ってニノは一旦もじもじとし、しかし次には、明るく言い放った。
「──それに俺、ツバキさんに手取り足取り、剣を教えてほしいです!」
その少年の物言いに、ツバキは再び苦笑する。
「……まったく、ブレないなキミは。まあ、そんなことでいいなら引き受けよう。だが、剣を教えるなら、門下生として扱わせてもらうぞ」
「はい! 俺、今日からツバキさんの門下生です! よろしくお願いします!」
「よし。ではさっそくだが、私と一緒に走り込みだ。走ってきたばかりのようだけど、いけるか?」
「はい! 俺、全然いけます!」
「その鎖帷子は脱いで来ても構わないが」
「いえ、このままで大丈夫です!」
「そうか」
そう短く答えながら、ツバキは、このニノという少年は、尋常ではないなと思っていた。
自分も日々の鍛練は欠かしていないつもりだったが、この少年を見ていると、それがぬるく思えてしまう。
リタが言っていた、イグニスビーストの特別変異種を一人で倒してしまったという眉唾話も、あながちあり得なくもないのかも、と思い始めていた。
「止まれ」
ツバキの号令で、ランニングをしていた二人は足を止める。
そこは街の郊外にある、一件の立派な木造建造物の前だった。
周辺の建物と趣きの異なる、異国風の建物である。
「確かこの建物、サムライスキルを教える『道場』っていうんですよね? でもここ、今は閉めているみたいですけど……」
「私の道場だ。父から受け継いだ」
そう言ってツバキは、道場の門を開錠し、中へ足を踏み入れる。
「ええっ!? ツバキさん、自分の道場を持っているんですか!?」
「形だけな。今は閉鎖している」
二人は砂利の敷き詰められた庭を歩き、訓練場へと向かう。
「どうして閉鎖してるんですか?」
「私では、一個の道場の師範して、実力不足だと思ったからだ。冒険者になって、剣の腕を磨こうと思った」
「じゃあ、俺がツバキさんの門下生、一番弟子ですね!」
「……まあ、そういうことになるのか」
そうこう話しているうちに、二人は訓練場に到着する。
「土足厳禁だ。道場に上がるときは必ず靴を脱げ。あと、道着を一着貸してやるから、着替えてこい」
「はい、ツバキさん!」
靴を脱いで道場に上がり、道着を受け取ったニノは、更衣用の部屋に行って──しかし、しばらくして、半裸の下着姿で戻ってきた。
「あの、ツバキさん。あの道着っていう服、着方が分からないです」
それを見たツバキは、赤らめ顔に手を当てる。
「……分かった。気付けを手伝ってやるから、一回で覚えろ。あと、次半裸で私の前に現れたら叩き切る」
そうしてツバキは、狭い更衣室でニノに、道着を直接着せてやりながら、着方を教えてやった。
「ツバキさんに着せてもらうと、ツバキさんの匂いがふわっとして、すごくドキドキします」
「……そういうことはいちいち報告せんでよろしい」
そうして、ツバキと同じ、白の道着に黒の袴という姿になったニノの完成像を見て、ツバキはほぅと感嘆する。
「キミのような金髪の少年には合わないかと思ったが、なかなか似合うな」
「えへへ、ツバキさんとお揃いですね」
「……キミのそういうの、本当に幸せそうだな」
「はい! 俺いま、最高に幸せです!」
その少年の満面の笑顔を見て、ツバキは、昨日のリタの気持ちが少しわかった気がした。