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その名は『∅』

        Ⅰ


「うへーーー、いいなーCモニ……」

電気屋に並ぶPCモニターを眺めながら、セミロング黒髪の少年――桐島優は顔を綻ばせている。

「おいユウ! いくぞ」

と強めの語気を放った少年は高槻透。栗色の整った髪をしていて、背は低いがしっかり者のような印象がある。

「ええーー。もうちょっとだけ」

いくら眺めたところで買えるものでもないのだが、買えるものでない以上、こうして眺める他はない。透はやや呆れ顔で、

「今日はタンクのマウス買うだけなんだから。さっ、帰ろうぜ」

急き立てる。

 そんな二人のやり取りの傍ら、レジでPC用マウスの購入を済ませている少年は仁科太陽。ぽっちゃりとし大柄な体格で、あだ名はタンクという。

 レジのドロワーが小気味よい音を立てて閉まるとタンクは、

「早く帰って『∅』やろうよ」

そう言ってひとりでスタスタ行ってしまう。「えっ、ちょっ、まって」

(やれやれ……)

と嘆息混じり透、力づくで優の襟首を掴んで、

「ほらいくぞ」

引っ張ってく。

「あーー! 俺のCモニーーーー」

「お前んじゃないだろ!」


        Ⅱ


 学校帰りの三人。日中暑かった陽射しも落ち着きを見せて、冷房の効き過ぎた電気店内より却って心地よい。駅周辺に敷き詰められた色鮮やかな煉瓦造りの遊歩道を、三人は往く。

 三人の服装は、清涼感のある白い半袖のYシャツに、濃紺とアイボリーのストライプタイ。スラックスはチェック柄で、明るいグレーの基調に黒とサックスブルーのラインが入っている。黒い合皮のスクールバッグは、新品の頃は硬くつややかな光沢があったものが、今はすっかりくたびれてクタクタになっている。彼らは同じ中学校に通う仲間だった。帰りの道すがら、他愛のない会話を繰り広げている。

「でさー、あともうちょっとでクリアってところでさ」

透が話し、優はそれを頭の後ろに手を組んで聞いている。太陽はのっそり歩いている。

「いきなり停電」

「あちゃーーー」

「調べたらアネキがエアコンやらドライヤーやら、一人で色々使ってたみたいでさー」

あきれる優と太陽。

「俺ももうクリア寸前ってとこで、おっかあにコンセント引っこ抜かれたことあるわ」

と合いの手を入れる優。

 優の母親は怒ると怖い。それを知ってる透とタンクには、

「ゲームばっかりやってんじゃないわよ!」

鬼の形相で怒鳴る優ママの姿が見えるようだった。「PC壊れるね」「うん……」

「ったく、なかなか最後までいけることないのにさー」

透と太陽、苦笑い。

「『∅』は普通のゲームと違って難易度設定がうまいんだよなー」

「そうそう。クリアできるかできないかギリギリ」

太陽はうんうん頷いている。

 『∅』――さっきから三人の話題に挙がっているのは、とあるゲームタイトルのことだった。


 『∅』はサーキュラー・オービット社が開発運営する国産オンラインゲームである。ジャンルはFPS(“First-Person Shooter”一人称視点のシューティングゲーム)。それまで国内市場ではマイナーとされていたFPSだったが、『∅』は登場時から人々の話題を集め、“国民的人気”と言われるほど広くユーザーを獲得していた。

 『∅』は戦闘機や攻撃機などの軍用機を操縦するゲームで、FPSの中でも「フライトシューティング」というものに分類される。『∅』には大きく分けて二つのモード「ミッションモード」「対戦モード」があり、プレイヤーたちは軍用機のパイロットとなって与えられた任務を遂行する――と、ここまでは至って普通のFPSゲームである。しかし、『∅』にはサーキュラー・オービット社が独自開発した“特別なプログラム”が組み込まれており、ここに『∅』人気の秘密――サーキュラー・オービット社(通称「円社」)産のソフトが、広く支持される理由があるのだった。


「さーて、やるぞーーー」

自宅に帰ると、さっそくPCを起動する優。バッグをベッドに放り投げ、PCの立ち上がりを待つ間に部屋着に着替える。そんな数秒程度の間さえ待ちきれないのだ。なんなら着替えずそのまま遊ぶことも間々ある。デスクトップのショートカットアイコンをダブルクリックすると、重厚感のあるBGMと共にクライアントソフトが読み込みを始める……。

 読み込みが終わって、タイトル画面。『∅』のロゴと、タイトルバックに空と大地の風景が流れてく。そこでID・パスワードを打ち込むと、

〈ログインパスワードを認証しました〉

システムメッセージがBGMを切り裂いた。ここまでくれば長いローディングはもうない。待ち受けているのはめくるめく神秘の世界……。

(あいつら、もう来てるかな……)

フレンド登録から二人を探す。登録名は、透は「トール」、太陽は「たんく」、優は「you」だ。

〈“たんく”はログインしていません〉

(ちっ……二人ともまだインしてねえか)

優は手遊びに対戦モードでもやってから、と思っていたが、二人がいないならしょうがない。懸案だった「昇級クエスト」を一人でやることにした。

 優が挑戦している「昇級クエスト」とは、上級ライセンス獲得のためのクエストだった。

 『∅』には初心者・初級・中級・上級の4つのサーバーがあり、それぞれのサーバーで遊ぶためには対応するライセンスが必要となっている。初級サーバーなら初級ライセンス、中級サーバーなら中級ライセンス、といった具合に。「昇級クエスト」はそのライセンス認定試験に当たる。優は中級ライセンス所持者なので、いまは上級用の昇級クエストを受けているのだが、これが中々難しいとユーザーの間では評判になっていた。

 『∅』を遊ぶ上で、ライセンスの獲得は重要項目だ。一般的に「戦闘機の基本的な操作方法を理解していれば、初級ライセンスは取れる」と言われる。中級ライセンスは「ミッションや対戦でそれなりに経験を積めば、普通は取れる」レベルだ。しかし、上級ライセンスはそうはいかない。多くのプレイヤーが挑戦したにも関わらず、これを突破した者は殆どいなかった。ゲーム内でも上級ライセンス所持者に会うことはまずないと言っていい。それほどクリア成功者が少ないのだ。現在ユーザーの多くが中級どまりとなっており、上級用の昇級クエストは攻略方法が確立されていなかった。あるいは、攻略法などがあったとしても、それを実践するには相当な技量を要するとも言われている。極めて難易度の高いクエストだった。

 ちなみに『∅』で単に「昇級クエスト」と言った場合、基本的にはこの上級用の昇級クエストを指す。初級・中級のも「昇級クエスト」には違いないのだが、ユーザーたちの会話でそっちの意味で使われることは余りない。そんなことをネット掲示板などで質問しようものなら「wiki見ろ」「過去ログ読め」「ググレカス」と返ってくるのがオチである。


 しばらくのち。

「あーだめだー」

画面には〈MISSION FAILED〉の文字。優は大きく反り返って伸びをした。椅子のバネが軋んで音を立てる。

(やっぱただのワイドディスプレイじゃ限界なのかなー)

優は改めてPCモニターを見た。頭に過るのは、FPSをやる者なら誰しもが不満に思う、モニターの視野角と、実際の視野角の差。

 人間の視野角は意外と広く、前方約180°ある。人間の目は正面を見据えたまま、左右両側真横にある物を視界内に収めることが可能だ(視野角を確認するには、両手を目の高さまで上げて親指を動かしながら開いていく。親指の動きが見えなくなるところが視野角の限界となる)。

 しかし一般的なPCモニターでFPSをプレイする場合、視野角は60~90°程度しかカバーされていない。これは両目の脇に手を添えて視界を遮った状態でモノを見るようなもので、通常の視野角と比べるとかなりの範囲が死角になってしまう。FPS業界では長いことこの視野角問題が課題とされてきた。

 その問題を解決に導いたのが、さっき優が電気屋で眺めていた180°半円型曲面モニター、通称「Cモニ」である。

 180°半円型曲面モニターは元々は軍事用・業務用に開発された大型曲面モニターを民生品に転用したもの。真上から見た形がアルファベットのCの字に見えることから「C型モニター」、略して「Cモニ」と呼称される。広範囲の視野をカバーするCモニによって、従来の視野角問題はクリアされ、より快適なFPSライフが送れることとなった、――が。

 民生用の安いものでも10万円以上するCモニは、よっぽどコアなFPSユーザー以外には敬遠されがちだった。到底、一介の中学生のおこづかいで手を出せるものではない。そして主だった用途が、FPSや遊びの類しかないCモニを、わざわざ子供に買い与えるような親は少なかった。

(Cモニがあればなあ……)

と常々優は思っているが、それを手に入れる現実的な方策はなかった。「ショーウインドウのトランペットを眺める黒人の少年」と透には揶揄された。親の力を当てにして「学校の成績があがったらCモニ買って……」という、極めて可能性の低い交渉材料もなくはなかったが、こないだ中間試験の結果が返ってきたところ、それが交渉材料とは成り得ないことを思い知らされた。


(はあ~~~~ダメダメ、昇級クエ難しすぎるよ~~)

いくら好きなゲームといっても、同じことの繰り返しはダレてくる。〈MISSION FAILED〉この画面も何回も見せられて、さすがにうんざりしてきた。

(まだまだ上級への道は遠いな……ん?)

その時、優は画面のメッセージアイコンが点滅しているのに気づいた。誰かからメッセージが送られてきたという合図だ。

(誰かな……?)

メールを開くと、送り主は運営だった。

〈以下のプレイヤーが上級ライセンスを獲得しました…………t.aizawa〉

(すげえ!! あれクリアしたヤツいんのかよー)

一瞬、鼻息が荒くなる。

 上級ライセンス獲得者はこうやって告知される。中学生の優には、それが全校集会で表彰されるような、誇らしく、とてつもない名誉のように思われた。一般ユーザーからは「恥ずかしい」「名前を晒されるのはイヤだ」という不満の声もあるが。

(……ん?)

ふと……、違和感を覚える……。

(な~んか、どっかで見たことある名前だな……)

「t.aizawa」その表記に見覚えがある。フレンドではないはずだが……、どこか、対戦部屋か何かで、一緒になった人だろうか…………。

 優は記憶の糸を手繰り寄せる……。

 「t.aizawa」→「t.アイザワ」→「あいざわ.t」→「あいざわ……タチツテト」→「あいざわ、タクマ」

 相澤拓馬?

「な、なんだってーーーーー」


        Ⅲ


 翌朝、学校の教室。

「おい見たか、昨日の……」

優は登校するや否や、透に問い掛ける。

「うん」

「A組すごい騒ぎになってるよ」

とタンク。

「行ってみようぜ」


 2年A組、隣のクラスに向かう三人。廊下の時点ですでに、ざわめき声が聞こえてくる。

 A組の教室には人だかりが出来ていて、その中心にアイツがいる。――相澤拓馬。相澤は青みがかった美しい黒髪をしていて、長袖のシャツに品の良さそうなエンジのベストを着ていた。周り中、男子に囲まれ、質問攻めにあっている。「すげえーな相澤」「どうやってやったの?」「コツ教えてよ」

 三人は教室にも入れず、その様子を外から眺めていた。

「ほえー」

優は間の抜けた感嘆を漏らした。

「さすが相澤だよな……なんてったって」

透が語り始めた。

「成績優秀、スポーツ万能、見た目はさわやかイケメン、女子にもモテモテ。学級委員で、家は金持ち、ペットの猫はロシアンブルー……360度どっから見ても非の打ち所がないもんなー」

たしかに全く、非の打ち所がない。「おまけに、おまけに」

「性格も良くて男子にも好かれる完全無欠ボーイときたもんだ」

「ぐおおーーーせめてそこはイヤな奴であってくれーーーーい」

くやしがる優と太陽。ふつう、金持ち優等生といったら、一般人を汚いものでも見るかのように見下して、

「ふふふっ見苦しいよ庶民ども」

ってのが定番なのに。相澤ときたら謙虚で驕ったりもせず、人間的な部分でも欠点らしい欠点何一つない。あいつと比べられたら同じ男として立場がないってくらい、完璧な奴だ。頼めばいつだって宿題を写させてくれるイイ奴なんだ。「隣のクラスまで宿題見せてもらいに行くのはどうかと思うよ」

 廊下の三人をよそに、相澤は照れながら周りの質問に受け答えしている。「よくクリアできたよなあ」「ははっ……ありがと」

「さっすが相澤だぜ」

「やっぱ『オールナイン』は違うよなー」

その言葉に三人の背筋に衝撃が走る――これが『∅』が国民的人気ゲームへと上り詰めた秘密であった。


 それは『∅』の開発元であるサーキュラー・オービット社が生み出した「プレイヤー適性検査システム」によるものだった。

 従来のゲームでは、プレイヤーの能力は選んだキャラクターなどによって決められてしまう。たとえばRPGでは、戦士の職業を選べば力や体力に優れた肉弾戦向きのキャラクター、魔法使いを選べば非力だが強力な魔法攻撃を使えるキャラクター……というように、プレイヤーはあらかじめ決められたゲームデータを選択するだけなので、最終的にはみな似通ったキャラクターを操作することになり、プレイヤーごとに個性化を図るのは難しかった。

 その対策として開発されたのがプレイヤー適性検査システム「PAT(Players' Aptitude Test system)」である。

 これはゲーム開始前などに10分程度の心理テスト・小ゲームを行い、その結果に基づいてプレイヤーの能力を決めるというもの。PATによって決められるのはステータス値だけでなく、たとえば職業が前衛向きか後衛向きか、覚える特技が攻撃型か防御型か、単独プレイ向きかチームプレイ向きか、などなど。あるいは両方に適正がある万能タイプだったり、逆にどちらにも適正がない無能タイプだったりもする。また、PATはゲーム開始前だけでなく、ゲーム内の各種動作にも盛り込まれており、ゲームを遊んでいる内に数値や適正が変化したりすることもある(替え玉などによる不正防止目的でもある)。

 こうしてプレイヤー自身の個性が反映されたゲームキャラクターは、よりプレイヤーの分身という意味合いを強め、プレイヤーたちはゲーム世界への没入感を高めた。PATに対するユーザーからの評価は非常に高く、この成功によってサーキュラー・オービット社は一大ゲームメーカーとなった。

 以降、円社は他企業と提携してPATを取り入れたサービス展開を行った。3Dアクションから歴史シミュレーション、カードゲーム、サッカー選手育成ゲームまで、PATを活用したゲームは多種多様に及んだ。サービスの普及によって、それまでゲーム自体に興味のなかった者が、お試しに適正検査だけ受けてみて結果の良かったゲームを選んでやる、という現象も出てきた。こうしてPATはゲーム業界におけるメインストリームとなっていったのである。そして『∅』が開発された。

 円社が再び自社開発した『∅』はサービス開始前から、新聞・雑誌・テレビ、そしてインターネットで取り上げられ注目を集めた。多額を投じた広告戦略は功を奏し、それまでマイナージャンルだった「戦闘機モノ」は男性層からの人気を中心に国民的ゲームとなったのである。

 当然『∅』にもこのシステムは導入されており、『∅』ではパイロットに必要な5つのステータス「集中力・判断力・瞬発力・持久力・巧緻性」が数値化されている。ゲーム内においてはこのステータス値に基づいたヒエラルキーが少なからずあり、たとえば「ave5以上」といったような、ステータス平均値が一定値に満たない者の入室を拒む対戦部屋が立てられたりする。他にも悪質なプレイヤーの中には、自分がルームマスターになるとステータスの低いプレイヤーを勝手に追放処分してしまう者がいたり、『∅』には気の合った者同士でグループを組む「クラン」という制度があるが、能力の高い者ばかり勧誘する戦闘重視のクランがあったり、逆にユーザー同士の交流を重視するクランは「ステータス値不問」という謳い文句を掲げたりしている。

 そのような状況の中、見事難関クエストを突破して上級ライセンス保持者となった相澤拓馬は、5つのステータス値が全て最高値9という、通称「オールナイン」と呼ばれるエリートパイロットだった。まさに『∅』というピラミッドの頂点に、立つべくして立った男なのである。


「はあ……」

大きなため息をついて、とぼとぼ教室に戻る優。

「まあ相澤じゃあ、しょーがないね」

透は無意識にその単語を避けたかもしれないが、優の脳みそはその置換を行ってしまう。「相澤→オールナイン」

 勉強で負けるのは仕方ない。でも「『∅』でも負け」というのが、優には少なからずショックだった。たとえ相手が「オールナイン」だったとしても。

 「たかがゲーム」「ただの遊び」と人は言うかもしれない。だけど優は本気なのだ。誰だって本気で打ち込んだもので他人に負けるのはイヤなはずだ。しかしUACSは非情にも、その能力格差を告げてくれる。『∅』でも、相澤には敵わないのだろうか? そもそも勉強もスポーツも何もかも、相澤ばっかり優秀で不公平じゃないか。もし神様がいてくれるなら、少しくらい才能を平等に振り分けてくれればいいのに。

「ちなみに優はステどれくらい?」

透が気を使ったのか、話を振ってきた。気を使ったのかもしれないが、話題がゼンゼン変わってないではないか。まったく、透ってのはそうゆうところのある奴だ。

「ん……、全部……だいたい5くらいかな」

「ボクも」

珍しく太陽もテンションが低くなってる、その時。

「!」

優はいいアイデアが閃いた気がした。

「なあ『オール5』って言ったら、聞こえが良くないか?」

透は華麗にスルーした。


 三人が教室に戻ると――なにやら様子がおかしい。教室の中に、何か異様な雰囲気が立ち込めている……、というか、主に男子たちの様子が不穏である。「ぐおおおお……」とか「ちくしょおおおおお」、あちこちで苦悶や呻き声が聞こえてくる。

(なんだこりゃ)

その中から恰幅のいい男子が一人駆け寄ってきて、がしっと優の両肩を掴んだ。

「お前らもまだ中級か?」

「お、おう……」

がっくりうなだれる男子。室内の方を振り返って、

「だれか……だれかB組の中に、相澤を倒せる勇者はいないのか!!!」

みんなに呼びかけた。

 大人には分からないかもしれないが、子供の世界というのは存外狭いものである。彼らにとって、人気ゲーム『∅』で優秀な成績を収めることは、仲間たちから英雄としての羨望を一身に集めることであり、逆に『∅』の勝負で隣のクラスに後れをとるということは、

「A組男子>>>>>>>越えられない壁>>>>>>>>B組男子」

男としての価値がB組男子よりA組男子の方が上という意味に他ならないのである。

「このままではB組男子の沽券に関わる! みなの衆、いまこそB組の総力をあげて、昇級クエを突破するのだーーー!」

「おーーー!」

朝の教室に男たちの鬨の声があがった。

「打倒相澤! 打倒オールナイン!!」

「うおーーー!」

そんな様子を、クラスの女子たちは呆れ顔で見ている。

「ウチの男子たちって……変よねえ」


        Ⅳ


 某所。

「失礼します」

一面ガラス張りの広々としたその部屋には、中央に重厚なウォールナット色の机、右手に観葉植物、左手奥には机と同じ材質の本棚と飾棚が並んでいる。その手前にある応接用ソファーは、一人掛けが二台、三人掛けとセンターテーブルを挟んで向かい合っている。

 オフィスビルの一室。役員室らしきその部屋に入ってきたのは老齢の紳士風の男。白髪交じりの髪には黒い部分の方が少なく、遠目には銀髪に見える。

 灰色のタイルカーペットに革靴の音を篭もらせながら、白髪の男はデスクへと歩み寄った。

「ライセンス獲得者が現れました」

男はそう述べて、デスクに書類を差し出した。置かれた書類が鏡面塗装の上を数ミリ滑る。

 報告を受けるのは壮年の男。黒い本革張りの椅子に座ったまま身動ぎせず、視線だけを書類に落とした。白髪の男が続ける。

「神奈川県中学生男子――オールナインです」

書類には「t.aizawa」とある。

「ふむ――」

役員らしき男は頷いて、書類に目を通した。男は六四分けの黒髪を後ろに流して纏めている。その前髪のほつれた数本が額に垂れ下がり、凛然たる秀眉、その下から覗かせる目つきは鋭く精悍だった。それはどこか、肉食獣的な旺盛さを漂わせた。

 しばらくのち。

「では、通例どおり身辺調査を――」

壮年の男が言うと、

「はい、すでに手配しております。調査結果は、後日また――」

白髪の男は応えた。手筈は全て、滞りなく進んでいるようだった。

「わかった――」

白髪の男は報告を終えると、10度程度、角度の浅い礼をして、退室した。


        Ⅴ


(よーし、今日中に中級とはおさらばだぜー)

夕食を終えてPCデスク前。腕まくりして気合いを入れる優。食事中も「除湿モード」でつけっぱなしにしておいた冷房のおかげで空調は快適、ドリンクにはペットボトルのお茶を常備、見たいテレビも今日はない。準備万端、優の至福の時をさまたげるものは何もない。あとはクエストをクリアするだけ……。

〈ログインパスワードを認証しました〉

 優の挑戦は続く……。

 7時……。

 8時…………。

 10時半………………。

「だーーーー」

とうとう音を上げる。

「ぜんぜんクリアできねーーー」

〈MISSION FAILED〉優以上にこの画面を眺めたプレイヤーが果たしているだろうか? ムカつくからこの画面だけはクリック連打でスキップする。そのクリック音がまたイライラ感を募らせる。

(やっぱり視界が狭すぎるんだよな……索敵はじんどいし、機体感覚もわかりづらいし……)

クエストの中には、狭く曲がりくねった峡谷を飛行するステージがあるのだが、ぶつからないよう飛んでいるつもりでも、翼が崖にあたって墜落してしまう……、そんなことをもう何遍も繰り返していた。かといって速度を落としたり、回避行動を大きくしようものならクリアタイムに響いてくる。なるべく速く、余計な操作はせず、且つ、安全に。そのバランスが難しかった。

「ユウ! 早くお風呂はいっちゃいなさい!」

階下から母の声。見ればもう11時になる。

「あーい!」

返事はするものの、またPCに向き直す優。

(んーー。どうしたものか……)

優は考える。画面が小さいのはしょうがないとして。他に何か取るべき手段はあるだろうか?

「……だから一人称視点は無理だって。あれはCモニ持ってる人じゃないと……」

ふと、透の言葉を思い出す。

「三人称視点の方がいいんじゃない?」

大抵のFPSゲームは画面の視点を選べるようになっている。『∅』も同様で、コンフィグ画面から選べるものに「一人称視点」と「三人称視点」がある。

 「一人称視点」はコックピット視点。臨場感やリアリティはあるが、視界が狭いというデメリットがある。デフォルトではこちらの設定になっている。「三人称視点」は機体後方からの視点。視界は広くなるがコックピット視点と違い、ヘッドアップディスプレイ(HUD)による計器類の表示がなくなるので、高度や速度などの数値がわからず、体感で覚えるしかない。

(っつってもなー、三人称視点って……)

好みは人それぞれだが操作感覚が大きく異なるため、一方に慣れてしまうともう一方に変えるのはかなり違和感がある、らしい。優も一度試したことがあるが、もう完全に「一人称視点」に慣れてしまった後だったので、互換性は全くなかった。せっかくの透のアドバイスも、優が聞き入れられないのは無理からぬことだった。

(臨場感欠けるっつーか、実感湧かないっつーか、なんっつーか……うーん……)

悩む優。そうして夜は更けていった。


 翌朝、学校近くの交差点。透は優とタンクの姿を見つけて声をかける。

「おーっす……って優! どーした?!」

見れば優の目の下に、真っ黒なクマが。

「おい~~っす……」

なんでも昨夜ずっと『∅』をやっていて、気づいたら朝になっていたらしい。

「ははっ……その様子じゃクリアできなかったみたいね」

といぢわるそうに茶化す透。だが、

「てめーはどーなんだよ!」

と優に言われれば、

「うっ……聞かないで……」

透もクリアできなかったらしい。予想はしていたけど。

 三人が教室に行くと、そこには、どんよりと落ち込む男子たちの姿が……。

「うっ……(なんか変なオーラ出てないか)」

「みんなダメだったのね……」

燃え尽きて炭化したB組男子一同、とそれを眺める、女子たちの冷ややかな視線。


        Ⅵ


 お昼休み。三人が廊下で駄弁っていると、透がふと、隣のクラスから出てくる相澤を見つける。

「おっ、相澤だ」

見ると相澤はA組男子二人と、廊下の二段重ねのロッカーの前で立ち話をしている。ただ普通に会話してるだけなのに、佇まいやら服装やら、なにやら眩しく輝いて見える。勝ち組オーラ満載だ。

「ま、まぶしい」

と優のオーバーリアクション。いつものことだからと、呆れつつも放っておく透とタンク。

 それにしても、相澤効果は凄まじい。どっちも同じ「廊下で会話している男子生徒三人の画」なのに、傍目には随分差があるように見える。A組男子は、

「こないだ貸してくれた本、おもしろかったよ」

「ホント? 多分、君に合うんじゃないかと思ったんだ」

「あの作者、心理描写が上手くて読んでる内に引き込まれるんだよな」

といった如何にも品の良いエリート集団に見える。これに対しB組は、

「あ゛?」

「なに見てんだよ」

「喰っちまうぞコノヤロウ」

下っ端チンピラ集団のようだ。それともただ単に育ちの差だろうか。

 会話を終えた相澤がこっちへくる。

「相澤―」

透が声をかけた。

「ん?」

相澤が振り向いた。もう衣替えの季節だというのに、長袖の上、ベストまで着ている。それでいて不思議と暑苦しさを感じさせない、涼しげな着こなしだった。

「なあ昇級クエの攻略法、おしえてくれよ。あれ全然できねーよ」

「うーん。一言に攻略と言っても……どこでつまずいてるかにもよるし……」

昇級クエストは先述の「峡谷ステージ」など、複数のステージ・ミッションから成っており、その総合評価で合否が出る。攻略の内容もステージごとに異なるので、それらを簡潔に説明するのは難しかった。

「いや、ざっくりでいいからさ」

「うーん……」

相澤が回答を窮している。相澤ほどの男が困っているのも珍しいことだったが、そんな質問を臆面もなくする、透も大概なヤツだと優は思った。

「そうだ!」

相澤が何か閃いたようだ。

「クリアのコツは大きく分けて、長所を伸ばすか、短所を克服するか、だと思うんだけど。大抵の場合、短所を重点的にやった方が総合点は伸びやすいんだって」

「へー」感心する優。透「なんで?」

「短所の方が伸びしろが大きいし、得意なことって頑張りやすいから、長所はほっといても勝手に伸びるんだって」

「誰かの話?」

「うん、うちの家庭教師の受け売り」

言いながら相澤照れ笑い。

「80点を100点にするのは難しいけど、それに比べたら60点を80点にするのは簡単でしょ、って」

「得意科目でやっと60点くらいなんですケド……(カンタンとか言われても……)」

「伸びしろだらけ……」

透、逆転の発想。

 相澤、説明を続ける。

「あと、敵の出現パターンは固定とランダムがあるんだけど、固定の方を見分けて覚えてしまえば対処しやすくなるんだ。チャフとフレアも温存できるし」

「ほう……」

「峡谷のところは狭く見えるけど、実際は機体2機分の広さがあるから、意外とまっすぐ飛べるんだ。余計な操作して速度落とすとクリアタイムに響くしね。他にも……」

「メモれメモれ」

慌てて生徒手帳にメモり出す三人。授業中もこれくらい熱心なら、優の成績ももっと上がっただろうに。

「けっこうコツとかあるもんだなー」

改めて感心する優。これだけでもかなりの収穫があった気がする。タンクもまとめたメモを夢中で見直してる。「なあ、最後の対艦ミッションなんだけど……」透はここぞとばかりに質問しまくっている。

 考えてみればクエストクリア以降、相澤は何人もの男子から質問攻めに遭っているだろうに、こうやって一人ひとりに対して丁寧に教えてくれるのだから、まったくの「人格者」だ。ただ優秀なだけが相澤のスゴさじゃない。

「やべー、早く家帰って試してー」

一番興奮してるのが透みたいだ。相澤もみんなの役に立てて満足そう。優も、

「おれも早く峡谷いきてーぜ。もう、あそこで何回撃墜されたかわからねーし」

すると透がいつもの茶々を入れてきて「でもコツわかっても、機体感覚わからないんじゃ同じじゃないの?」「うるせー」

「えっ?」

おどろく相澤。

「機体感覚って……桐島君、三人称視点でやってないの?」

思わぬ問いかけに優も戸惑って「え? ……あー、まあ」言葉を詰まらせる。

 すると相澤は、

「無理だよ! 一人称視点はちゃんとしたモニターがないと……」

突っ込んできた。

「な、言ったろー?」

透は得意げに追従してくる。

「んーーでもさー、なんかイヤなんだよなー、……三人称視点」

なんと言われようがいまさら仕様変更する気にはなれない。

「無茶ゆーなって、相澤だって三人称視点でやってるんだろ?」

「えっ」

「え?」

なんかヘンな間がある……。相澤は恥じらいながら、

「……じ、実は、うちは入学祝いの時、父さんが買ってくれて……Cモニ……」

「庶民の敵め……」

人の予想の必ず上をいく男、それが相澤。

「まー、俺は今のままでいいの!」

あきれる透、太陽、相澤。優はこうゆう意外と頑固なところがある。


「で、どーなんだよ? 上級サーバーの方は」

何気ない透の言葉に、

「うん……それなんだけど……」

相澤は表情を曇らせた。

「ちょっとよく分からないんだ」

「分からない?」

興味の強さが透の語気を強ませる。

「なんて言ったらいいか……本当に、これが上級なのかな、って感じ……」

どういう意味だろう……?

 これだけ多くの人たちが挑み続け失敗し続けている「昇級クエスト」、そしてその先にある「上級サーバー」。そこには想像もつかないような、夢の様な出来事が待っている……そう、勝手に思い込んでいた。……そうではないのだろうか? 苦労してクリアしても、この先に期待しているようなものは何もないというのか。

 だったらなぜ、こんなに難しい障害が設けられているのだろうか……。

 いくつもの疑念が脳裏を過り、三人は言葉を詰まらせた。この時、もう少し詳しく相澤から話を聞き出すべきだった。が、時間がそれを許さなかった。

 そこでチャイムが鳴った。

「みんなも早くきてみてよ。一緒にやれば何か分かるかもしれないし……じゃあ」

そう言って相澤は行ってしまった。去り行く姿までさわやかだ。

「早くきてみてよ、って」

「簡単にゆーよなー」


        Ⅶ


 土曜の朝。少し遅めの朝食を終えた透は、自室に戻ると大きく背伸びした。

(……さーてと『∅』でもやるかなー)

ログインするとメッセージアイコンが点滅していた。タンクからだった。

〈透いないの? クエスト全然クリアできないーー【><。】 息抜きに対戦やろうよ〉

思わず吹き出した。タンクはあの風体の割に、意外とかわいいメールをくれる。

 すぐに返信する透。「カタカタカタ」キーボードが調子のいい音を響かせる。

〈いまINしたとこ。対戦やろうぜ! 優も誘って〉

すぐにまた返事がくる。

〈優いるんだけど、クエストやるからダメなんだって〉

「あ……」

そういえば昨日、そんなことを言っていた。

 それは学校帰りでのことだった。優は真剣な顔をして、

「俺この土日、こもるから」

と。

「山ごもりかよ」

「『∅』修行……」

タンクにまで突っ込まれる。

 優は言った。

「このままじゃ勉強もスポーツも『∅』も、みんな相澤に負けだ。何か一つくらい勝たなきゃダメなんだ」

「勉強やスポーツをがんばる気はないんだね……」

その時は冗談半分で言ってるのかと思ったが、どうやら違ったようだ。

 とりあえずフレンド一覧から優を探してみる。フレンド一覧では登録されているプレイヤーの接続状況が確認でき、ログイン中なら白、ログアウト状態なら灰色でプレイヤー名が表示される。桐島優の登録名「you」は白の表示。だがその様子じゃ、連絡しても出てはこないのだろう。

(やれやれ……)

透は半ば呆れつつ、タンクへのメッセージを入力する。カタカタカタ……。

〈まあそのうち飽きて合流してくるよ! それまで二人でやってよう〉

入力しながら、

(でも、どうだろう?)

ふと思った。

 優の奴、あれで意外と根気あるから、もしかしたらホントにこの土日にクリアしてしまう、なんてこともあるかもしれない……。

 

(やっべえ……ぜんぜんクリアできねえ…………)

朝起きてからメシ時を除いて、ずっとやっているのに全く成功する気配がない。せっかく相澤から貰ったアドバイスも、いちいちメモ見たり、画面見たり、頭の中がとっ散らかって却って気が削がれる。むしろ今までより成績が下がってるくらいだ。今となっては透とタンクに叩いた大口を取り下げたい気分……。

(ま、まあ……まだ丸一日以上あるんだし、あせる必要は……)

「お兄ちゃん、おやつだってー」

「ああ~ん?」

見ると妹の要だった。いつの間にか部屋にきて、半開きのドアの所に立っている。

「ノックくらいしろよ」

「ノックしたしー」

ゲームに夢中で気づかなかったのだろうか。

「食べる?」

「いやいい」

今はもう『∅』のことだけ考えていたい……。男にはやらなければならないときがあるのだ。おやつごときでPCの前を離れるわけにはいかないのだ。

「あっそ」

すると要は階下の母に向かって、

「お兄ちゃん、メロン、いらないってー」

(メ……ロンだと?)

階段を降りていく要。その後ろから……。

「あれ? 食べないんじゃないの?」

「食べないとは言ってない」

今はもう『∅』のことしか考えられない。……しかし、そのためには息抜きや糖分摂取、体調管理も大事なことなのだ。全ては昇級クエのために必要なことだから。


        Ⅷ


 夜も更けて。今週もまた、二日間の休みが終わろうとしている。

(あーもう月曜かあ…………。ガッコいきたくねえ……)

明日からまた学校。授業がしんどくてしんどくてかなわない。いや仲間に会えるのは楽しいんだけど。

 一週間の内で一番好きなのは、金曜の夜と土曜日。(今週の休みは何してやろう)と、一番夢と希望に溢れている時間だ。金曜の夜の「いくら夜更かししてもいい」感ったらハンパない。

 それに比べると同じ休みであっても、日曜はそんなに好きじゃない。「明日も休み」の土曜とは心の余裕が段違いだ。あと気持ち、土曜より日曜の方がテレビ番組がつまらない気もする。

 それに日曜の夜は、一週間の中で一番嫌い。(また一週間が始まるのか……)日曜の夜の倦怠感ったらない。

 あと火曜や水曜、週半ばもきつい。(あと二日もあんのかよ……)という中だるみ感は正直、堪える。

 曜日単体で考えたら、一番きついのは金曜日だ。金曜までくるとさすがに一週間の疲労が蓄積してくる。でも、金曜はもうあと一日我慢すればいいのでまだいい。金曜はなぜか、小学校から中学まで通してイヤな教科が集まる時間割になることが多かったが、しんどいのは実は午前まで。そこを乗り越えれば、午後は気の持ちよう。惰性で過ごせばなんとかなる。

 そんなことを考えながら、ふと我に返る。

(いかん…………余計なこと考えてる場合じゃない。クエに集中せねば…………)

優の思考はもう、しばしば脱線するようになっていた。

 疲れていた。

 ずっと椅子に座っていたせいで、お尻の筋肉が痛くなっていた。冷房に晒され続けた体は疲弊している。優自身は自覚してないが肩こりも相当だ。体力も精神力も消耗していた。

 懸案の昇級クエストは、この二日間、全く成果は上がっていなかった。

 多少の成長はあったかもしれない。が、まだまだクリアには程遠かった。

 クエスト内にある複数のステージやミッション、局所局所で良い結果を出してもダメなのだ。合否は総合点で判断される。そのためには全ての行程を万遍なくミスなく正確に行う必要があり、そんな強靭な精神力を、中学生の優は持ち合わせていなかった。

 たった一つのミスで、それまでの全てがムダになる。その恐れが緊張感となって、また別のミスを誘発する。

(あ~~もう!)

クエスト半ばでやり直しする羽目になることも多々あった。集中力は減退し、その頻度も増えてきた。

(もうやめっかな……)

そう思ったのも、これで何回目だろう。

 それでも取り憑かれたように『∅』をやり続ける優。

 そんな自分に時々、呆れたくなる。

(なんで俺、こんなことやってんだろ…………)

自嘲の薄笑いが込み上げ、口角が引き攣る。

 取れるまでやめられない「UFOキャッチャーの心理」というものがあるが、優のはその度を遥かに超えてしまっていた。

(別にクリアしたって……なにがどうなる、ってもんでもねえのによ…………)


 住宅街はひっそりしている。

 家の者も寝静まり、物音一つしない。

 時折、近くを通り過ぎる車の音がやけにうるさく耳についた。

 疲労、そして眠気が、もう限界まできていた。

(もうだめだ…………これで最後にしよう…………)

思考はまた、同じ所に辿り着く。

 そう思いながら、気がつけば、指が勝手に「リトライ」をクリックしている。 

(あと1回で終わりにするか…………)

その繰り返し。

 意識は無かった。

 まるで一局指すだけで体重が数キロ減ってしまうプロ棋士のように、優の心身は衰弱していた。


        Ⅸ


 どれくらい時が経っただろう。

 朦朧とする意識の中。

 桐島優はふと、脳裏の奥底微かに煌めくロウソクの炎を見た。

(いいんじゃないかこれ…………)

まだクエストの途中だが、かなりの好成績。何十回かに一回あるかないかの。

(これなら……ミスなく最後まで行ければ…………)

滞っていた血液が、一気に全身隅々まで行き届けられていくような、冴え渡る精神の迸りを感じた。

 その一方で、

(これでダメなら、もうおしまいだな……)

とも思った。疲れ果てた脳みその半分は逆に冷静になっていた。これ以上続けても、これ以上の結果は得られない。今日はもう潮時だ。寝るべきだ。

 そして画面は、両側にそり立った崖が現れる「峡谷ステージ」へと突入した。

 このステージでは、狭く入り組んだ谷間の道を崖にぶつからないよう飛行する正確な操縦技術と、且つ迅速なクリアタイムが要求されている。

 崖の狭間を亜音速で駆け抜けていく優の戦闘機。

 速度は落とせない。

 余計な操作も極力できない。

 ロスしていい時間は殆どない。

 これまでにない高速度を維持しつつ、慎重な操作で戦闘機を駆った。 

 その時――。

(……!)

 遠方、右側の崖が、視界を遮るように大きくせり出しているのが見えた。

(かわせるのか?)

 ――このままヨーでいけるのか?

 ――それともロールすべきか?

 迷っている時間はない。崖との距離は刻一刻と迫ってきている。

 優の頭に浮かぶ、2つの選択肢……。

(タイムロスか、墜落か……)

 ヨーイングで躱せなければ墜落、そこで全てが終わりだ。

 これまでの好成績も無駄になってしまう。

 だがロールして大きく躱せば、速度は落ちるが確実に回避できる。

(こっちの方が安全じゃないか……)

 これだけの成績だから、タイムは、後で挽回できるところもあるかもしれない……。

 ここで冒険に出ることはないんじゃないか……。

 もし失敗したら、全てムダになってしまうし…………。

 どっちが正しいかは、分からない。ただ一か八かの賭けより安全策。疲れ果てた脳みそが、無意識の本能でそう考えて、キーボードに添えられた左手がローリング操作を行おうとした――瞬間。

「峡谷のところは狭く見えるけど機体2機分の広さがあるから、意外とまっすぐ飛べるんだ」

「……!」

 左指がロール操作を中断、ヨーを堅持する。

 崖はもうすぐそこ!

(ぶつかるっ……!)

 切り立った崖――その巨影が、視界正面から、右側面へ抜ける。

 ――翼は? 右翼は崖をかわしたか?

 機体は変わらず飛行を続けている……。

(抜けた…………)

 間一髪。機体は回避に成功したのだった。

(あぶなかった……)

 ふっと我に返り、思い出されるのは、さっきの声の主。

(相澤……)

 相澤が言っていたのは、この場所のことだったろうか?

 それは分からない。

 分からないが、相澤の言葉がなければこの判断はなかった……。

(あんにゃろう……)

 息をつく間もなく峡谷は続く。曲がりくねった道を左へ右へ。ローリング、ピッチング、ヨーイング……。WASDキーを駆使して、機体を大きく傾けながら、優は正確な操作で山間の回廊をすり抜けていく。 

 やがて画面一面に広がる、青空が見えた。

(いった……)

 難関ステージ「峡谷」をクリアしたのだ。

 ほっとするのも束の間、

「……峡谷を抜けるとすぐ、二機の戦闘機と遭遇する……」

相澤の言葉がリフレインする。

 レーダーに機影反応二つ。

 一機は10時の方向。

(こいつは……?)

「速度を落とさず、正面から迎え撃って」

 ヘッドオン――互いの機体が正面方向で向かい合う状態――で対峙する優機と敵機。

 もっとも撃墜しやすく撃墜されやすい、このポジションの対決は一瞬で決まる。

 しかし――。

 対人ならともかく。NPC相手に、後れを取る優ではない。

 ほぼ同時にミサイル発射、そして回避機動――どちらも一手、優のが早い。

 空中で飛散するNPC機。すり抜ける優の戦闘機。

 一機は片付いた。

(もう一機は……?)

「5時の方向。だけどこれは――」

(――速度があれば無視して振り切ることができる――だな!)

 後方から追撃してくる敵戦闘機。しかし、優の加速とともに、その影はレーダーから徐々に遠ざかっていく……。

 やがて機影は見えなくなった。

(よし!)

 続いて「空中給油ミッション」。

 給油方法はプローブ&ドローグ方式。空中給油機がホースの先端が漏斗状になったドローグ(メス口)を垂らし、そこに航空機がプローブ(オス口)を挿し込んで給油を受けるというもの。

 給油機との速度調整、そこから更に小さな給油口を合わせる微調整。繊細な操作技術が必要とされるミッションであるが、ここまでこれたプレイヤーならまずミスるようなものではない。

 無事、空中給油を成功させた優。舞台はやがて空と海、青のコントラスト広がる「海上ステージ」へ。待ち受けるのは最後の山場「対艦ミッション」だ。

 突如、鳴り響くミサイルアラート。

(ちっ……)

 駆逐艦、巡洋艦から放たれる艦対空ミサイル。

 「対艦ミッション」は海上に展開する機動部隊の主力、原子力空母を見つけ出し撃沈する。当然、周囲の護衛艦から多数のミサイルを撃ち込まれ、艦隊に近づくことすら容易でない。多くは撃墜されるか、目標に辿り着けず時間切れになってしまう。優の最高到達点が此処だった。

 普通に行ったら近づけない。だけど――。

「護衛艦には死角があるんだ」

 海面スレスレ、超低空飛行する優機。

 この位置が「レーダー網の穴になっている」相澤は言った。

 けたたましく警報音が鳴る――高度調整を促す「低高度アラーム」だ。だけど高度は上げられない。

「少しでも頭を上げれば、ミサイルが飛んでくるから」

 水飛沫をあげて飛翔する戦闘機。水面にぶつからない高さで、レーダーに探知されない低さで。

 目標を索敵する。

(どれだよ……空母は……)

 機動部隊は4隻編成。内訳は駆逐艦2隻、巡洋艦1隻、原子力空母1隻。

 手前に見えるは駆逐艦(DDG)、右手に巡洋艦(CG)。奥に艦影二つ、そのどちらかがそれに違いない。

 黒いゴマ粒のような艦影。近づくにつれ、その影が次第に大きくなる――奥の左は、駆逐艦(DDG)だ。

 ならば右が――原子力空母(CVN)!

(……いた!)

 目標にレティクルを合わせ――ロックオン。優がミサイルボタンに指をかけた――その時。

「まだだ!」

(……!!)

 まだミサイルは撃てない――。

 ミサイルは機体下方から射出される。しかし、この低高度ではミサイルが海面に呑み込まれてしまう。機体から放たれたミサイルが加速するまで、その分の高度が必要となっている。だが高度を上げれば……。

(どーするんだ?)

「三隻の護衛艦は空母を囲うように展開している――その環の中にはいるんだ」

 忍び入るように艦隊との距離を詰める。低高度アラームが鳴りっぱなしの中。

 徐々にその姿を現しつつある原子力空母。水上艦の中でも一際デカく、起伏の少ない独特なシルエット。

 機体が駆逐艦と巡洋艦を結ぶラインに差し掛かかる!

「――いまだ」

 機首を起こし、ミサイル発射。――すかさず回頭する駆逐艦巡洋艦の砲塔群、次々と開かれるミサイルセルの蓋。

 優の放った空対艦ミサイルは、重量感のある挙動で目標へと加速していく。そして。

 ――直撃。

 海面に広がる衝撃波の円模様。瞬間遅れてくる、振動。立ち昇る赤黒い爆炎。

 目標、大破。

 喜びも一刹那、後方から襲い掛かる無数の光の筋! 20㎜ガトリング砲――護衛艦に狙われている!

 機関砲の雨を縫うように舞い飛ぶ優機。同時に、ミサイルの接近を告げるミサイルアラート!

 ここまで温存してきたチャフとフレアを一気に散布する。ここが最後だ、出し惜しみの必要はない!

 全てを出し切り、真っ直ぐ――ただひたすら真っ直ぐ速く、飛ぶ、逃げる。追ってくるミサイルは――チャフとフレアがどうにかしてくれると信じて。

 左手親指に力いっぱい押っ圧されたスペースキー(加速ボタン)がぎりりと軋んだ。 

 人差し指と中指はFキー(フレア)とEキー(チャフ)を闇雲に連打する。ガタガタガタガタ……。

 ――やがて鳴り止む、警告音。

 チャフ、フレアの残数がゼロになる。

 全ての音が鳴り止んで、びっくりするくらい静かになった。

 右クリック長押し――カメラ視点を切り替え後方に、……艦影はもう見えない。

 あとには静かな空と海が広がっていた……。


 最終ミッション「着艦」。

(ついにきた……!)

 制限時間内に航空母艦に着艦する、という内容自体は単純のミッション。正確な着艦には高い技術が必要だが、空中給油同様、慣れてしまえばどうということはない。ただこのミッションの制限時間には、これまで掛かった時間が減算される。つまりここに辿り着くまでのクリアタイムが速ければ速いほど制限時間に余裕が出るのだが、大抵の場合、時間は大幅に削減されてしまう。酷い場合はこのミッションに突入した時点で時間切れになる。

 レーダーに友軍反応。方角を合わせると、遠方、白波を立てて進む艦艇の姿を発見する。

 全長300mを超える巨体も、遥か上空から見れば湖に浮かぶ木の葉程度の大きさだ。

 このように空母が小さく見えるのは高度が高すぎるのだ。こういう時はまず高度を大幅に下げる、空母がしっかりとその大きさを感じられるくらい。

 そしてここからが重要。

 着艦のコツは進入角にある、と優は考えている。

 慣れてない奴は大抵、高度を取り過ぎて失敗する。それは着地面を見ながら空母に近づこうとするから、いざ着艦という時に進入角がきつくなるのだ。優自身がそうだったからよく分かる。

 正しい進入角はそれよりもっと低高度で、水平に近い。角度的に、甲板が殆ど見えなくなるような位置取りになる。空母にぶつかりにいくような、気持ち低すぎるくらいでいい。低すぎて失敗する奴はいないから。

 「着艦」やら「空中給油」はもう何百遍、数え切れないほどやっている。そんな自分にミスを犯す要素は全くないように思われた。

 そしてこのミッションさえこなせば、とうとう念願の……。

 そんな気の緩みが、ほんの僅かだけ、優の中にあったのかもしれない。

(あれ? 他になんか……気をつけることあったっけ?)

 普通にやればまず問題なくクリアできるはずのこのミッション。

 相澤はなんて言っていた?

 たしか、制限時間がどーのこーの。

「……30秒は必要。25秒だと確実に間に合わない……」

とかなんとか。

 カウントは今、00:22から00:21になった。

(……やべえ!)

 何秒だった? ここが始まった時。

 優は時間を見てなかった。

 25秒以上……あったと思うが30秒あったかどうか……、どの程度の余裕があるのか、ないのか分からない。

 急ぐ必要がある!

 速度を――いつもより速度を落とさず、着艦すれば――。

 スペースキー――それまでも決して離してたわけではないが――改めてスペースキーを押す指に力を込める。

 立ちはだかる空母の姿がぐんぐんデカくなってくる。

(速すぎるか!)

 スペースキーから指を離す。代わりに減速ボタン――無変換キーに指を添える、いつでも押せるよう。

 タイムは00:10を切った、表記が赤字になる。

(まずい……)

 間に合うかどうか、わからん。

 いつもより気持ち速度が出たまま、着艦に入る。

 着艦!

 接地点よし。

 だが――速度が出過ぎている。衝撃がすごい、ヘタクソの着地。

 着地の衝撃で機体がダメージを負う、がもうそんなことを気にしてるヒマはない。無変換キーを押し絞る。

 悲鳴を上げるランディングギア!

 減速が全然効かない、速度の出過ぎた機体が――止まらない!

 オーバーランだ!

(やべえ……)

 いよいよ自分の犯したミスが致命的なものだったと気づかされる。

 減速が不十分だった。タイムばっかり気にしすぎた。

 機体はずんずん進み、止まる気配がない。

 滑走路の終端がもうそこに見えている。

(うわあーバカだ俺……)

 思っても手遅れだった。

 止まれるかどうかわからない、こんな速度で着艦したことがない!

 ここでミスれば全部――これまでの全てが水の泡だ。

(いやだああああああああ)

 ここまで来て!

 ここまで来ときながら、これなのか?!

(たのむ……!)

 出来ることはもう何もない、祈るだけ。

(とまれとまれとまれとまれ……)

 モニター画面を占める割合から滑走路の灰色が減っていく、代わりに増えてく空の青。

 海が見える!

(とまってーー!)

 画面から滑走路は消え、寒々しい海面が広がっている。

 そこで画面は動かなくなった。

 タイムは――00:00:00。

(どうなった…………?)

 動悸が激しくて心臓が潰れるほど、痛い。

 気がつけば、呼吸も荒れていた。

 息も詰まるような永い沈黙――実際にはほんの数秒の。

 そこで優が見たものは――。

〈MISSION COMPLETED〉

 ――えっ?

 一瞬なんのことかわからない。

 それから、

〈Congratulations〉

金色の文字と紙吹雪が舞った。

(えっ)

まだうまく状況を呑み込めないでいる。

 やがて意識がはっきりしてき、気がついたら、

「うおおおおおおおーーー」

叫んでいた。

「うるさいっ! 何時だと思ってんの!!」

母親に壁ドンされる。

 でも気にしちゃいない。 

(やった……やった…………やったあああああ!)

密かに喜びを噛み締める。

 優はとうとうやり遂げた。あの難関クエスト――そこで画面は暗転し、暗闇の中から一枚のカードが浮かび上がる。そしてメッセージ。

〈上級ライセンスを獲得しました〉

――昇級クエストをクリアしたのだ。


        ∅


 多くのユーザーの挑戦にも関わらず、未だ少数の攻略成功者しか出していない「昇級クエスト」、そしてその選別をくぐり抜けた、選ばれし者しか立ち入ることを許されていない「上級者サーバー」。それが何を意味しているか、そこでどんな運命が待ち受けているか、桐島優は知るべくもない。


 もし長い人生の旅路の終わりに、己の歩んだ道のりを振り返ることが出来たなら。

 思うだろうか?

 あの扉を、開かなければ良かった、と。


 そんなことを何も知らない桐島優は、今はただ嬉しさいっぱい、じっとしてられず、足音を立てないように小躍りしてみたり、誰も見てないのに両手を高く上げて「コロンビア」一人でおどけてみたりしている。あんまり夢中だから、部屋のドアが開いても気づかない。

「アンタなにやってんの……(朝っぱらから……)」

「ぎゃああああああああ」

見られていた。

 カーテンの外はもう空が白み始め、近くの木々から小鳥の鳴き声がする。

 時は西暦2027年、桐島優、中学二年初夏の日の出来事だった。

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