3,愚者
とある公園のベンチ。
学校からは5分とかからず、家へと帰る道の途中にある公園のベンチでツバキは月を眺めていた。
視界に映る空はまだ明るい、太陽の姿はもうどこにも見えないが何処か建物に隠れた場所には居るみたいで空はまだ夜になりきれていない明るさを保っていた。
そのまま何の感慨も抱かずに、空に浮かんでいる不完全な三日月を胡乱げな瞳で見つめる。
月を見ても別に何とも思わない、それは特に意味のある行動ではなかった。
ただ心の中でモヤモヤとしている不完全燃焼な気分がそういった行動へと駆り立てているという、ただそれだけ。
ツバキには分からないことだらけだった。
「……なんだかなぁ」
ポツリと呟いて、彼女が屋上で言っていたことに対して思考を巡らす。
それはとても長い言葉で、たどたどしくて、どれもが彼女の確かな偽りの無い想いが込められていると感じることのできるものだった。
そんな言葉を聞いて、どこかホッとしているような……そんな自分が心のどこかに居るのを感じる。
彼女の想い、彼女の心、そういったものを聴くことが出来て良かったと。
けれど、よくよく思い返してみると屋上で語られた言葉の中で自分が理解をしていることはたったの1つだけだった。
『方向音痴』
そんな4文字の言葉だけ。
それは彼女が語った言葉の前半部分で、後半部分に至っては何1つ理解することが出来なかった。
彼女の言っていた言葉が、屋上で必死な様子で叫んでいた言葉が頭の中で反響する。
「すき焼きみたい、か」
ポツリと呟いて、呆然とする。
彼女は確かにそう言っていた。
『すき焼きみたいに見えてたの!!』
と、そう叫んでいた。
正直なところ、どういうことなのか欠片も分からない。
すき焼きみたいだと言われてもどう反応をすればいいのか分からない、と少し前にも屋上でそんなことを思っていたけれど時間が経っても分からないことはやっぱり分からないままだった。
(これって、褒め言葉なのかな?)
そう思い首を傾げてみる。だが、仮に褒め言葉だったとして何に対して喜べばいいのか果てしなく疑問であった。
(……色々な材料が入っていて、面白い……か?)
思考を巡らして、フムと1つ頷く。
やはり意味が分からなかった。
「はぁ、さっぱりだな」
何も分からない、と溜息を吐いて苦笑する。
いくら考えても答えなんてものは1つも出てこなかった。
‐分からないものは分からない、答えはきっと彼女の心の中にだけあって、それは他人がどんなに考えても答えには辿りつけない。だって、本人じゃないから。
と、そんなことを思う。
そんなことを思って、ツバキはまたボーッとした。
そう考えると
(小さい頃に出会ってから今まで、長い時間を一緒に過ごしてきたけど……)
もしかしたら自分は彼女のことを何1つ分かっていないのかもしれない、そう思ってツバキは少しボーッとした。
「……ハッ」
何故だか無性におかしくなって、少し笑ってしまう。
自分がとんでもなく馬鹿な人間に思えて、ツバキはそんな馬鹿な自分を思い切り馬鹿にしたくなった。
「だから、頭に糖分が足りてないとか、そんなことを言われちゃうのかもしれないな」
ハハッと苦笑しながら呟いて、ツバキは手に持つバナナを見つめた。
それは彼女が帰り際に押し付けてきたもので、チラリと横にも目を向けると今も自分が座っているベンチの上にバナナが7本も残っている房が見える。
ツバキにはこれもよく分からなかった。
(まるまる全部渡すかな、普通)
そう思って、何とはなしにバナナをくるくると手で弄ぶ。
バナナは買い物袋に入っていたのである。それは彼女にとって必要だから買ったという、そういうことのはずなのにどうして全部渡してきたのだろうか?とツバキはそう思って首を傾げた。
「……まぁ、別にいいけどさ」
バナナは嫌いじゃないし、と心の中で続けて思考を放棄する。
まるまる全部押し付けてきた理由は全くと言っていいほど分からなかったが、別にそれで不都合が生じるわけでもないのでツバキとしては別にどうでもよかった。
ベリッと皮を剥いてバナナを口に運ぶ。
その瞬間、バナナの柔らかな感触と甘い香りが咥内を満たしていくのを感じる。
その感覚は空腹を訴え始めてきている身体には至福のようにも感じられた。
(でも……)
チラリとバナナを咀嚼しながら、横を見る。
房にはバナナがまだ7本も残っていて、ツバキは少しばかりげんなりした。
「流石に、1本で十分だよなぁ」
ふぅ、と鼻から少し甘い息を吐いてバナナを再び齧る。
腹は空いているが流石にバナナを8本も食べる気にはなれなかった。
(家に帰れば、夕飯だってあるはずだし残りは持って帰るか)
そう思いゴクンとバナナを飲み込む。
口の中は甘い感触で満たされていた。
その点を考えても、やはり8本も食べることは出来ないと、そう思う。
バナナを片手に持って帰る姿を想像すると酷く滑稽に思えたが、正直なところ早く何かを飲んで甘い感触を払拭したいと思うので特に何とも思わなかった。
パクリと最後の一口を放り込んで立ち上がる。
空を見上げると三日月が爛々と輝いていて、不完全な夜は完全な夜になっていた。
(流石に、少し遅くなっちまったかな)
パリパリと頬を掻いて、ベンチの上に鎮座しているバナナの房を持ち上げる。
少しばかり公園で時間を潰し過ぎたようであった。
(早く帰るかなぁ、それで帰ったら……帰ったら、どうしよう?)
とりあえず飲み物かな、とボンヤリと首を傾げる。
彼女は糖分がどうのと屋上で言っていたが、糖分を補給したところで頭の回転が速くなったような気は欠片もしなかった。
「まぁ、とりあえず家に帰るか。叔母さんもいるだろうし」
帰ってからのことは帰ってから考えよう、とツバキは場当たり的なことを考えて自己完結した。
左手にバナナの房を持って、右手でバナナの皮をプラプラさせて歩き出す。
特にやることは思い浮かばない。けれど家に帰って何かをして、布団で寝て、それから朝起きて何故か家の前で待っている彼女におはようって言って学校へ行く。
きっとそんなことを繰り返すのだろう。そういった何の変わり映えもしない日常が何の変化もなく、この先も続いていくのだろう。
ツバキはそう思って、何だか暖かい気持ちになった。
こんな日常がずっと、いつかサイクルが変わるのだとしても、それでもずっと本質は変わらずに続いていく。
それはもしかしたら退屈だと、まるでルーチンワークのようだとそんな風に感じることもあるかもしれないが、そんな変わり映えのしない毎日が続いていくことを想像するととても暖かい気持ちになった。
(って、何を考えているんだろうな)
ハハッ、と何だか照れくさくなって苦笑をする。
さっきから随分と恥ずかしいことばかり考えているな、とツバキはそんな自覚をした。
「日常って、そんな簡単には変わらないから日常って言うんだよなぁ」
ハハッ、と苦笑をしながら肩をすくめる。
まるで馬鹿みたいだ、とそんな風に思えてツバキは思わず頬を掻こうとした。が、手に持つバナナの皮が頬に貼り付いて少し微妙な気分になった。
ベタリ、と皮の内側が触れて不快な感触がする。
「……とりあえず、捨てるか」
そう呟いて、ツバキは微妙な表情をした。
夜風がバナナの皮で少し湿った頬を吹き抜けて、その部分だけが他とは違う感覚がする。
そのことにもツバキは微妙な顔をして、キョロキョロとゴミ箱を探した。
月明かりだけが照らす薄暗い公園の中で頭を巡らす。
「え~と、ゴミ箱、ゴミ箱……おっ、あったあった」
探してみるとゴミ箱は意外とすぐ近くにあった。
公園の出口に向かう途中で、ゴミ袋だけが無造作に突っ込んである空っぽのゴミ箱が今から通る道の途中に置いてある。
別に探す必要のある場所に置いてあるわけではなかった。
「……あほくさ」
少し虚しい気分になりながら出口へ向かって歩きだす。
ツバキは自らの行動1つ1つが馬鹿みたいに思えて、少し悲しくなった。
(まぁ、それはそれで『らしい』って、そう思うけどね)
そんな風に思えてしまうのも少し悲しかった。
テクテクと、アホなことを考えたままゴミ箱を通り過ぎていく。
そのまま2メートル、3メートルと遠ざかっていって出口付近でバナナの皮を後ろに向かって投げた。
これでゴミ箱に入れることが出来たら少しは爽やかな気分になるだろう、とそんなことを思って。
「……入ったかな?」
チラリと後ろを向いて確認をする。
そうするとバナナの皮がゴミ箱の30センチほど前に落ちているのが瞳に映って、ツバキはやっぱり微妙な気分になった。
(まぁ、そんなうまくいかないよね)
バリバリと皮を投げて自由になった右手で頭を掻いてゴミ箱の方へと向かう。
『投げたゴミに使われる』
まさにそんな状況だった。
(結局、アホくさいまんまだな)
少し自嘲するように肩を竦めてから、道に落ちているバナナの皮を拾うために膝を曲げる。
無理に気取らない方がいいのかもしれない、とやっぱり少しアホくさいと思うことを考えながらツバキはバナナの皮に手を伸ばした。
刹那、後ろからドタバタと騒々しい音が聞こえた。
真横、それも自分にすれすれなほど近い位置を黒い影が通り過ぎる。
その影は何か鞄のようなものを持って走り過ぎていく、その姿だけがツバキには確認できた。
「……?今の」
‐何だったんだろう?
そう呟こうとして、その言葉は後ろからの怒号に遮られた。
「待ちやがれ~っ!私のバッグを返せ!このひったく……」
「へ?」
「っ!って、そこの奴っ!どいてどいて~~っ!!」
「え?」
ツバキは瞬間的に後ろを確認しようとして、それが出来なかった。
ドンッ、と背中に衝撃を感じて前につんのめる。
そして、ツバキはぐにゅっと自分が今まさに拾おうとしていたバナナの皮を踏んだ。
「っ!」
「悪い!今は構っている暇が無いっ!バッグを取り返したら埋め合わせするから!」
と、薄い白のワンピースを着たポニーテールの女性が叫んで横を通り過ぎていくのを目にする。
だが、ツバキは今そんなことはどうでもよかった。
バランスが保てない。
慌てて手をバタバタと振って、どうにかバランスを取ろうとしたが体勢を立て直すことが出来なかった。
ゆらり、と全ての景色が横倒しになっていく。
ツバキはその瞬間をやけにスローに感じた。
(っ、このまま、倒れこむと……)
後頭部を縁石にぶつけることとなる。
と、ツバキにはこの先に起きることを想像することが出来て、それが非常にまずいことだというのは分かったがもうどうすることも出来なかった。
足なんかとっくに地面を離れていて、体勢を立て直すことなんか既に不可能な状況だったから。
今、その瞬間の中でこんなにも思考を重ねることが出来ているというのも不思議だった。
仮にこのまま後頭部を打ちつけて、打ちどころが悪かった場合
(……死因、自分が捨てたバナナの皮で滑って頭部を強打か?)
何てバカバカしいんだろう、とそう思って少し微妙な気分になる。
やっぱりアホくさい、と苦笑いを浮かべようとして‐その瞬間、後頭部に激しい衝撃が走り篠崎 ツバキの世界は暗転した。
主人公が考えているだけ、というそんな内容だったりしました(汗
自分は彼女のことを何1つ分かっていないのかもしれない……うん、そのとおりだね!
と、そんなことを言いたくなっていました。