第六十一話:守りたいもの、守る者(四)
このお話には残酷な表現が含まれています。苦手な方はご注意下さい。
ぐしゃり、と熟れた果実を潰すような、湿った音。
自らの貫き手で胸を……心臓ごと、背中側までを貫き通し、赤黒い血を大量に吐き出しながら、悪魔憑きの母親は前のめりに倒れ込む。
「なんて事をっ!」
叫び、駆け寄るノエル。
倒れた母親の身体を起こし、すぐさま傷口の確認をする。
「……!」
致命傷だった。
悪魔の怪力は心臓、肺、背骨など、生きる上で大事な臓器や骨の大半を破壊し、失わせていた。いくら悪魔憑きとなって強靭な肉体と驚異的な再生能力を得ていても、これだけの傷を受ければ、助からない。
すぐに治療を!
だが天使の本能がそれを阻み、ノエルの意識へと語りかける。
相手は悪魔憑き、倒すべき相手。自殺してくれたなら手間が省けたという物だ。それに母が最後に見せた人としての矜恃を無駄にするつもりか? どうせ治療した所で助からないのだ。ほら、良く見てみろ彼女の有様を。
「身体が……」
倒れたまま動かない母親。その真っ赤な肌にインクでも零したかのように、凄まじい勢いで黒いシミのような部分が広がって行く。そして黒くなった部分はひび割れ、端から崩れて粉々の塵となって消える。
悪魔に魂を売った者の末路がそこにある。
「…………」
言葉も無く、滅び行く女性の隣で膝立ちとなり、未だ迷いの中にあるノエル。
助けたい、でも無駄だ。相手は悪魔……助けられないし、助ける必要の無い相手。
なにが正しいのか? どうするのが最善か? 答えが出せぬままの彼女。その目に……小さな手が映り込んだ。さっきまで眠っていた子供だ。
母の異常に気付いたのだろうか? 目を覚まし、包まれた毛布から抜け出して崩れ行く母の身体に触れる。そして粉々になる母の身体を手で押さえ、その崩壊を食い止めようとしているかのようだ。
小さな手、その指の間から零れ落ちる母の身体。
どうしようもない。これが運命――。
「あ……」
その時、ノエルを仰ぎ見た子供と目が合った。その子の真ん丸に見開かれた双眸……その目が語る。
お願い、お母さんを助けて!
「っ!!」
迷いが消えた。
攻撃の為に溜め込んでいた光のエネルギー、ノエルはその全てを即座に回復の力へと転化する。考えるよりも、行動が早かった。
「離れてっ!」
幼子を押し退け、半ば崩れ落ちた母親の身体へと、ありったけの魔力を叩き込むノエル。
自分は今、悪魔を助けようとしている。そんな事をすれば天使として神の……いや、そんな事はどうだっていい!
困っている子供に手を差し伸べる事もせず、何が神だ! 何が天使だ!! 悪魔だの何だのが関係あるものか!
ノエルの意志とは裏腹に、母親の悪魔としての身体が天使の回復を拒んだが、それを無理矢理、強引に捻じ伏せる。爆発したかのように広がる光。地面に積もっていた塵が光に押されて吹き飛び、ノエルたちを中心とした球を描き出す。
「くっ……!」
治らない――。母親は最初から致命傷、ほぼ即死状態で、そもそも命を救える状態では無かった。その上、天使の治癒を拒む悪魔の身体。ノエルが溜めていた光の力は、あっという間に底を突いた。
回復する事無く、光に圧されるがまま塵となって吹き飛んで行く母親の身体。もう手も足も、胴体さえも殆ど残っていない。そして最後まで残っていた頭部も、燃え尽きた炭のようにグズグズになって崩れ、虚空へ――。
「諦めるもんか! 諦めちゃダメ!! 頑張って!!」
ノエルが母に呼び掛け、自らも力を振り絞る。治りかけていた翼が、髪が、身体の端々が。どんどん光と化して消える。全身に走る激痛……だが、その分だけ強く輝く回復の光。
「ま……ままぁ……っ!」
子が、母を呼ぶ。
ノエルの放つ光が、強くなる。
「これから先この子に必要なのは! お金でも、天使でも、まして神や悪魔の力でもありません! この子に必要なのは……」
ノエル自身が光となって輝く。その頭上には、長らく消え失せていた天使の光輪が煌々たる光を放ち浮かび上がっていた。その姿は最早、眩しい光そのもの……だが優しく暖かく、まるで生命を育む太陽の如く。
「この子に必要なのはっ! お母さん、あなたです!!」
瞬間、地上の太陽がノエルの眼前、その一点に集中する!
閃光、そして爆発。
質量を伴う光の奔流が、あたり一面あらゆる物を薙ぎ払い、直後に引き寄せる。森がざわめき、空が悲鳴を上げた。
「きゃうっ……!」
爆風が襲った。
馬車の影に隠れ、ノエルたちの様子を窺っていたスダチは咄嗟に車輪へ掴まり、飛ばされまいと踏ん張った。だが馬車は凄まじい衝撃波の前に横転し、努力空しくスダチもゴロゴロと吹き飛ばされてしまう。
やがて光が収まった頃。道端の雑草にしがみ付き這い蹲っていたスダチは、恐る恐る身を起こす。未だチカチカする目を擦り、ようやく視力がまともになった彼女が見た物……それは雑多な物が吹き飛ばされ、塵一つ無くなったのっぺりとした地面と、一定の方向へと揃い傾いた木々。そして爆心地とでも呼ぶべき光の中心で倒れ伏す女性と、その女性へよちよちと歩み寄る小さな子供の姿だった。
「あ……あれ? あの女の人……?」
我が目を疑うスダチ。視線の先で倒れている女性は、先程まで悪魔憑きと化していた母親に間違い無いだろう。肌の色が変化しており確認し辛いが、髪形や服装が同一人物である事を物語っている。
悪魔憑きの象徴ともいえる真っ赤だった肌は健康的な肌色へと戻り、炭のようになって崩れ落ちたはずの身体に欠損は無く、むしろ体中、どこにも傷一つ見当たらない。
そして、微かに上下する胸。
「な、治った? 生きてる!? あの人、生きてるっ!」
スダチが驚きの声を上げる。幼子がしがみ付く母親は、確かに生きている。しかも、元の健康な姿となって!
信じられない事だった。これまでの常識を覆す、誰一人として成し遂げた事の無い偉業。何人もの強者や賢者が挑み、志半ばにして挫折した悪魔憑きよりの脱却。それを信仰から外れて傷付いた、天使の小娘が成し遂げたのだ。
「あ、あれ? の……ノエルお姉ちゃん? お姉ちゃんは?」
だが、その天使はどこに? 確か先程まで、女性の隣で全身を激しく発光させていた筈なのだが、同じ場所に彼女の姿は見当たらない。
まさか? 嫌な予感がスダチの脳裏を過ぎる。
ノエルは我が身を削って力を生み出していた。髪は短くなり翼が削れてもなお、全身を光と化して母親へと治癒の力を注ぎ込んでいた。そのままどこまでも際限なく力を放出し続けたのなら、あるいは肉体そのものも……!
「お姉ちゃん!? ノエルお姉ちゃん! どこっ!!」
自らの嫌な想像を吹き飛ばさんと、声の限りに叫ぶスダチ。だが彼女の声に応える者は無く、代わりに……。
ごとり。
横転した馬車の荷台で、何かが動く音がした。恐る恐る、スダチがそこを覗き込んで見ると……。
「あ……!」
ベリーショートの金髪、ボロボロの小さな翼。埃塗れとなって荷物の中に埋もれ、苦しげにもがくノエルの姿があった。
慌てて荷物の山をどけるスダチ。
「ぶはっ! た、助かったよスダチちゃん……し、死ぬかと……」
「何してるのよぅ! びっくりしたんだから!」
可愛い妹が漏らす安堵の声に、軽く詫びるノエル。だが彼女には、それよりも気になる事があった。
「さっきの、あのお母さんは!?」
「大丈夫だよお姉ちゃん、ほら……」
倒れた馬車から身を乗り出し、親子の様子を覗く二人。すると意識を取り戻した母親が、自らにすがり付く愛娘を優しく撫でる姿が目に映る。
「良かった……」
呟き、脱力するノエル。精根尽き果て、立っている事も出来なくなったようだ。
「お姉ちゃん、やったね。本当に凄いよ! どうやって悪魔追っ払ったの?」
興奮気味に聞いて来るスダチへ、ごろりと横になって楽な姿勢を取りながらノエルが答える。
「悪魔追っ払った……っていうか、お母さんが頑張ったんだよ。悪魔と一緒にあっちの世界へ行きかけてたのに、娘さん所に戻りたいって踏ん張って。だから私、悪魔からお母さんの魂取り返して、身体を治して帰る場所を確保して、そこへ案内して……それだけだよ」
ノエルの説明に、いまいちピンと来ないスダチ。だが、これはとんでもない事なのでは無いかと思えた。
母親の身体を治して……とノエルは簡単に言ったが、母親の身体は最終的にほぼ消滅していた。それを治すとなると、人間一人分を丸々ゼロから創り上げるのと同じ能力が必要なのではないか?
その上で悪魔に売り渡された母親の魂を取り戻し、身体へ案内した?
「お姉ちゃん、それって……」
これはもしや、神の領域であるとされ、長らく不可能だといわれていた究極の能力。世に数多くある回復系能力の最高峰であり、最終到達地点。『蘇生』と呼ぶべきモノではないのだろうか?
スダチがしばらく考え込んでいると、寝そべったままのノエルが満足そうな笑みを浮かべて、ぽつりと漏らす。
「まぁ、このくらいは、やらないと……吊り合わないもんね」
何が吊り合わないと言うのだろう? 一瞬、そう考えたスダチだったが、すぐに言葉の意味を理解する。
「あ、そっか。お兄ちゃんって、帰ってきたら『伝説の装備に身を固めた人類最強の悪魔憑きにタイマンで勝った男』になるんだっけ?」
無言で頷くノエル。
「それじゃ『死者をも癒す天使』くらいじゃないと、吊り合わないかもね」
「そうでしょ?」
笑いあう二人。世界の常識を覆す、凄まじい奇跡が行われた直後とは到底思えない気楽な笑顔。
ヤマトの安否に不安が無いと言えば、嘘になる。だが何故だろう……負ける気がしない。必ず彼は生きて帰ってくる、そんな気がする。
「あ……ほら、お姉ちゃん聞こえる?」
遠く、山の向こう側から聞こえて来る雄々しい遠吠え――。
「あれ、太郎丸さんだよ。なんか勝ったみたいだね」
その遠吠えに合わせて上がる歓声も、微かながら聞こえてきた。冒険者たちの勝利を伝える勝ち鬨だ。
安堵感に包まれながら、未だ寝そべったままのノエルを助け起こそうと、手を伸ばすスダチ。
「そろそろ行こう、ノエルお姉ちゃん。立てる?」
「……ムリ」
ノエルが言葉少なに答えた。そんな甘えた姉へ、しっかり者の妹は頬を膨らませて手を引き、強引に起き上がらせようと試みる。
「もう、そんな事言わないで。ほらっ! みんなと合流しなきゃでしょ? 馬車も使えなくなっちゃったから、歩かないと!」
だが、ずるずると引き摺られるがままのノエル。
「や……スダチちゃん、ホント……ムリ。もう手とか足とかプルプルして、立てないし。というか今すぐ……お布団入って寝たい……というか、もう……寝る」
言うが早いか目を閉じて、スカスカと寝息を立て始めるノエル。
「え、えぇっ!? ちょ……こんな所で!? ダメだよ、私運べないよ!? それにあの人たちだって居るのに!」
慌てるスダチ。疲れ果てて眠りに落ちた姉を必死に揺すってみたが、口の端からヨダレが少し垂れた程度。目を覚ます気配は無い。
そして助け舟を期待して親子の方を見てみたのだが……こちらも安心したのか何なのか、母と子、二人寄り添い夢の中だ。
「そんな……! ど、どうしよう? だ……だれか~! おぉ~……ぃ……」
安らかな寝息を立てる三人を抱え込み、途方に暮れるスダチ。彼女ら四人が無事に合流地点へと辿り着くのはもう少しだけ、先の話となる。
しかし悪魔の村は滅び、戦いは終わった。
戦いは、後一つを残すのみ。