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第六十話:守りたいもの、守る者(三)

このお話には残酷な表現が含まれます。苦手な方はご注意下さい。

 悪魔に憑かれた母親。その目に理性の色が戻った時、彼女がまず最初にとった行動は、我が子の無事を確認する事だった。

 胸に抱く愛娘の温もりを確かめ、愛しげに頭を撫でる……それからしばらく経ってようやく、自身の傍らで呆然と立ち尽くすノエルの存在に気が付いたようだ。


「天使……っ!?」


 大いに驚き、恐怖の表情で後ずさる母親。取り憑いた悪魔の本能がそうさせたのか、あるいは理性でもって自分が攻撃対象になっていると気付いたか。我が子を庇いつつ、必死に距離を取ろうとしている。


「落ち着いて下さい。貴女は、この近くの村に住んでらっしゃった方ですよね。私の事がわかりますか? 一ヶ月ほど前に、あなたの村を訪れた天使です」


 油断無く身構えたまま、母親へと問いかけるノエル。なるべく相手を刺激しないように、ゆっくりと……まずは事情の把握だ。しかし結局は、いくら問いかけた所で意味など無くなってしまう……何故なら、相手は間違いなく悪魔憑きであるから。

 改めて確かめるまでも無く、悪魔は天使にとって不倶戴天の敵だ。取り憑かれる生き物にどれほど同情すべき理由があろうと、悪魔の誘惑に耳を傾けた時点で言い訳の余地など無く、倒すべき相手となる。だから問答無用で滅ぼすのが悪魔退治の常識だ。

 悪魔憑きとなった母親の痩せこけた身体、その身に纏うボロボロの衣服。幼子を抱えた彼女が、どのようにして悪魔と関わりを持ったのか……それを聞き、深く関わる程に、敵を打ち倒す気持ちが鈍ってしまうだろう。なのに……。


「これを、その子に」


 ベルトポーチから、小さな革袋に入った流動食を差し出すノエル。喉の完治していない自分用にと持っていた物だ。


「栄養価の高い保存食です。味は今ひとつですけれど、柔らかいですから子供でも食べられると思います」

「…………」


 警戒を解こうとしない母親。だがそれはノエルとて同じだ。

 互いに事情が分からず、いつ攻撃されるかも分からない緊張感。種族としての本能が敵を滅ぼせと急き立てる中、「腹を空かせた子供に、何か食べさせてやりたい」という共通する思いが、双方で攻撃の手を強く抑える。


「いらないのなら、捨てちゃいますよ」

「っ!」


 その言葉に慌て、ノエルからひったくるようにして保存食を受け取る母親。そして一刻を争うかのように革袋の中身を搾り出して指先で掬い取り、腹を空かせた我が子の口元へと運ぶ。すると幼子は、悪魔憑きとなった母から与えられる食事を、何の疑いも無く美味しそうに食べ始めた。

 栄養重視で味が薄く、冒険者の間では非常に評判の悪い保存食。しかしそんな事は、腹を空かせた子供にとっては関係の無い話であるようだ。あっという間にぺろりと一人前を食べ尽くし、未だ足りないと云わんがばかりに小さな手を伸ばして、お代わりを求めている。


「まだ、あります……良かったら、どうぞ」


 ノエルが残っていた二食分、手持ちの保存食全て差し出す。恐る恐る、という風ではあったが母親は保存食を受け取り、また同じように指先で掬って子供の口元へと運び、食べさせる。

 暫し続く、会話の無い時間――。

 最初こそ、指先まで食い散らかす勢いで食を進めていた幼子だったが、保存食を一人前と半分ほど食べた所でお腹が一杯になってきたのだろう。母に背中を擦られて「けふっ」とげっぷをしたかと思うと、やがて目を瞬かせ、ほどなく夢の中へ――。


「眠ってしまいましたね」

「……ええ」


 眠る子を起こさぬように、声を落して言葉を交わす二人。いつの間にかささくれ立った心は落ち着き、攻撃の意思は消え失せていた。


「ありがとうございます、天使さま」


 愛娘を撫でながら、母親が頭を下げる。親しい者以外から、久しぶりに受け取った「ありがとう」の言葉。それがこの世で最も忌むべき悪魔からもたらされるとは。この奇妙な巡り合わせに、ノエルは神の意志を感じずにはいられない。


「お陰で、この子を飢え死にさせずに済みました」

「……もし良ければ、何があったのか聞かせてもらえませんか」


 撃ち滅ぼす敵の身の上話を聞いてどうする? そう思ったノエルだったが、これも乗り掛かった船。非情な選択を迫る天使の本能を無視して、ノエルは心のまま母親に会話を促す。


「はい……村で天使さまが、私たちを庇って下さった後の事です……」


 ゆっくりと口を開く母親。

 多くの人質を取られたノエルが悪魔の軍門に下って天使の能力を失い、囚われの身となった日の翌日。サークスは約束通り、悪魔憑きとなっていない住民たちを村から放逐した。

 今は悪魔憑きとなってしまった母親であるが、その時はまだ普通の人間。着の身着のままで娘共々、他の村人と一緒に村から追い出され、最寄の人里へと助けを求めてひた走ったのだと言う。


「皆と一緒に必死で走って……半日も行った頃だったでしょうか。何人もの悪魔たちが、追ってきたのです」


 母親の言葉に哀しげな表情を浮かべるノエル。あれから半日後の自分はと考えれば、サークスやバラによって代わる代わる辱めを受けていた頃だ。おそらく見物に飽きた血気盛んな悪魔たちがサークスの意思とは関係無く、勝手に逃げた村人を追いかけ始めたのだろう。

 ノエルとしては身を呈して村人たちの安全を確保したつもりだったが、全く及んでいなかったようだ。もしも自分がもっと上手く立ち回っていれば悪魔の追撃を防げていたのに……そう思えて仕方ない。


「悪魔たちは、まるで狩りを楽しむかのようでした。私たちは追い立てられて散り散りとなり、道に迷って孤立し……」


 追い詰められ、捕まった。彼女と娘と捕えたのは、村の若い男性三人……全て見知った顔の悪魔たちだったという。

 獲物を捕らえた彼らは自らの願望を満たすべく、母親に対して狼藉を働く。若く愛嬌もある彼女は、強い欲望を持て余す彼ら悪魔憑きにとって格好の餌となってしまったのだ。

 地獄の釜で茹でられる方がマシではないか? そう思える程に辛い時間が延々と終わる事無く続いたのだと語る母親。淡々とした語り口だ……しかしノエルには感じられる。平坦な言葉の端々から漏れ伝わる、彼女の辛い気持ちが。同じような経験をした同性として、痛い程にわかる。


「それから、どれくらい時間が過ぎたのかわかりません」


 永劫に続くとも思えた陵辱の時間。だが母は耐えた。悪魔憑きに人質として取られた愛娘。その命を救う為であるなら、どんな事にも耐えられた。

 しかし――。


「その内、彼らは私に飽きたのです。だから娘を……」


 男たちの毒牙が愛娘に向けられようとした時、母の耳に、何処からか声が聞こえてきた。

 我が子を救う力が欲しくはないか? 貴様の魂と引き換えに、力をやろう――。

 その声が悪魔の物である事はすぐにわかった。幼い頃から伝え聞かされた、忌むべき悪魔の誘い。絶対にしてはならない取引である事は知っていた。しかし彼女はあえて誘いに乗る。そして母は……鬼と化した。


「そこからの記憶は無く……気がつくと男たちは居なくなっていて、代わりに黒いシミが地面に三つ。ですがうちの娘は、無事に助ける事が出来ました」


 一言も喋る事なく、ただただ母親の話に耳を傾け続けるノエル。

 そうして悪魔憑き三体を退けた母であったが、それからが大変だったようだ。

 目や肌が真紅に変色し、誰から見ても悪魔憑きとなってしまった彼女には、もう最寄の人里へ保護を求める事もできない。せめてこの子だけでも村に預けて……と思うものの、そうしようとする度に「我が子と一緒に居たい」という欲望が暴走してしまい、行動に移せない。それどころか時折り記憶が飛び、我に帰れば全身血塗れ。手元には動物の死体……というような事が立て続いたのだという。

 その為だったのだろう。自分の腹は殆ど減らなかったが、娘は腹が空いたとぐずり、見る見るうちに痩せ細っていった。乳を飲まそうにも、自らの乳房からは赤黒く油の腐ったようなモノしか出ず、とても飲ませられない。仕方なく山中を這いずり回り、果実や山芋を採る事で辛うじて命を繋いでいたのだ。


「それが、つい先程までの私です」


 長かった話が終わった。語り終えた母親は落ち着いた表情で正座をして座り、腕の中で眠る我が子へ愛しげな視線を向けている――今が頃合だろう。殺さなければならない、この女性を……いや、この悪魔を。

 破邪の光を集めるべく、集中を開始するノエル。

 どんな理由があろうと、悪魔憑きを見逃すわけにはいかない。それが世界の秩序を保つ為に必要なルールだ。可哀想だからといって目の前の彼女を逃がしてしまったら、その後にどれほどの不幸が広がるか想像もつかない。心苦しいが、仕方の無い事なのだ。

 そうこうしている内……母親が顔を上げた。目に映るのは、ノエルから舞い散る淡い光の粒。それを見て悟ったのだろう。彼女は、小さな声で尋ねた。


「天使さま、この光は……私を?」

「はい……ご想像の通りです。これから貴女を、滅ぼします」


 天使が、悪魔憑きを滅ぼすべく活動している事は、子供でも知っている常識だ。嘘や気休めを言っても、相手を苦しめるだけだろう。


「そう、ですか……そうですよね」


 また娘へ視線を戻す母親。彼女だってわかっているはずだ。悪魔に魂を売り渡した自分が、どうなるべきであるのかを。

 もうノエルの手には、母親を消滅させるには十分な光が集まっている。少しずつ時間をかけて集めた光は、胸を貫くなどとケチな事をせずとも、全身を焼き払ってお釣りが来る程にまで高まっていた。これなら楽に逝かせてやる事が出来る。


「この娘が大きくなって……いいえ、せめてママって読んでくれる声くらいは……聞きたかったんですけどね」


 呟き、我が子に視線を落す悪魔。頬の柔らかさや、細い髪の手触りを忘れないようにと何度も撫で、確かめている。名残惜しそうな仕草は、見ているだけで胸が締め付けられるようだ。

 だが、わかっている。こんなのは、全部演技なのだ。悪魔が天使を騙そうと、演技をしているだけなのだ!

 これまでにヤマトと二人、何度か悪魔と戦ってきた。大小様々な悪魔たちが居たが、その全てが狡賢く嘘吐きで、卑怯な者ばかりだった。追い詰められると命乞いを始めて哀れみを誘い、少しでも油断すれば手の平を返す。それで何度騙され、煮え湯を飲まされたかわからない。だから今回も、この母親だって下心があるに決まっている。

 そうだ、今こそが悪魔を滅ぼす時!


「……っ!」


 悪魔を滅ぼせ! そう本能が叫ぶ。だがノエルは、悪魔を……母と娘の姿を直視できない。攻撃の意思を向けられない。

 倒すべき相手だ。何も見ず、耳を塞いで光をぶつければ、それで倒せる……悪魔憑きは敵なのだ!


「…………っ!!」


 しかし今回は……今回だけは、もしかすると違うかもしれない。

 だって、仕方が無いではないか。自分の大切な何かが危機に陥った時、それを守れる方法があるのなら飛びついて当然だ。言い訳も何も、誰だってそうするんじゃないだろうか? 溺れるものが藁を掴むように、彼女の場合、たまたま近くにあった藁が悪魔の囁きだった……ただそれだけなのだ。

 悪魔憑きにだって事情はある。命が惜しい、力が欲しい、この世に未練がある……そんな事くらい前から理解はしていた。だが力に溢れていた頃にはわからなかった。どうしても、何を捨てても成したい事があると、その実感が伴っていなかったからだ。

 だからこそ、力を失った今なら……痛みを知った今ならばわかる。悪魔の声に耳を傾ける者たちの気持ちが!

 そして、ノエルは知っている。

 我が子を守る為なら、命も、魂すらも惜しくない。死の淵に追いやられて苦しい中でも、子供の前でなら笑っていられる……それが親というものであると。ヤマトの両親が……最愛の父と母が、彼女に教えてくれた。


「う……くっ!」


 この人を……この母親を、私は……殺す事ができない!

 ノエルの目から、涙が零れる。

 悪魔だろうと何だろうと大切な存在の為に命懸けで頑張った人を、どうして殺す事ができるだろう?

 神様は言った。悪魔憑きにとって、滅びこそが救いになると……でも、そんなのは嘘っぱちだ! 死んでしまったら、そこで終り。子供に触れる事も、声を聞くことも出来なくなってしまうのに!


「ぐすっ……わ、私は……私は……っ!」

「天使……さま?」


 自分は駄目な天使だ。神の言葉を疑い、人々に見放されたばかりか、好機だというのに悪魔を倒す事も出来ない役立たずだ。

 だがなんと言われようと、たとえ神の命に逆らう事になるとしても、彼女は殺せない。慈愛に満ちる母の命を断つ事は出来ない。それをするくらいなら、私は……!


「天使さま、涙を拭いて下さい」


 咽び泣くノエルへ、母親が気遣わしげに声を掛ける。そして抱いていた子供を、そっと傍らへと下ろした。彼女の表情は凛々しく、何らかの決意が見て取れる。


「身を呈して私たちを逃がしてくれた天使様を、これ以上困らせる事はできません。その子の肌着に、僅かばかりですが銀貨を忍ばせてあります。それで、どうか……」

「な、何を……?」


 問いかけるノエルに、母親は笑顔を返す。


「どうか、その子をよろしくお願いします」

「まっ……!」


 待って!

 その言葉が発せられるよりも早く、母親の手刀は、自らの胸を貫いていた。

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