第五十五話:いい女!(三)
ふわり、雲ひとつ無い空に木の葉が風に舞うかの如く、アデリーネは空中へと優雅に身を躍らせる。
空気以外に何も手掛かりの無い空間で、彼女は細い腰を捻って脚を振り、その勢いを使って体の動きを制御する。追い縋るバラの突撃を回避する為に。
「アデりいィィィィんッ!!」
高らかに叫んで地面、そして家の屋根を蹴り、両手を広げて空高くにまで追いかけて来る馬の獣人。アデリーネは突っ込んでくる彼の顔面目掛けて矢を一射。空中にてギリギリで突撃を回避し、振り返って背中へ三射、加減の無い矢弾をお見舞いする。
「うヒョウ! アデりんの愛を背中に感じルうゥゥゥゥ!」
嬉しげに声を上げるバラ。じゃれ合ってでもいるつもりなのだろう。ひ弱なエルフの放った矢は、一発たりとも彼の皮膚を貫通してはいない。
それはバラの持つ伝説の武具が一つ『消撃の盾』、その効果が発揮されている為なのだが、それだけが理由では無い。単純にバラ本来が持つ防御能力を貫けていないのだ。
緩やかに着地したアデリーネは家の戸口に手を突っ込み、あらかじめ隠しておいた矢を引っ掴んで矢筒へ補給する。
もう既に放った矢の数は、百をゆうに超えているだろう。矢を放つ右手は、指先と親指の付け根が鬱血して腫れ上がり、ずしりと重い。限界はとっくに越えている……だが、まだだ!
ベルトポーチから小刀を取り出し、自らの右手を傷付けるアデリーネ。そして傷口を絞るようにして溜まった血を抜き、素早くポーションを振り掛ける。魔法の輝きと共に傷が塞がり、手が軽くなった。これで、まだ戦える!
「無駄だよアデりん! ソロソロ俺の腕の中へ……鬼ゴッコはもう終リにしヨウ!」
地鳴りと共に着地したバラ。彼の台詞を見事に無視して、次々に矢を射掛けるアデリーネ。それを面倒そうに盾で弾き落すバラ……このようなやり取りが、既に一刻ほども続いている。
勢いのある疾走と無尽蔵のスタミナで執拗に獲物を狙うバラに対し、地形を利用して物陰へと身を隠しながら矢を射続けるアデリーネ。手数では圧倒的にアデリーネが勝っていたが、それ以外……特に純粋な攻撃力や防御力において、圧倒的な差が二人の間にはあった。しかも……。
「ねえ、アデりん。俺が気付いテ無いとでも思ってル?」
射掛けられた矢の一本を掴み取り、余裕の表情で問いかけるバラ。その声に、アデリーネの胸がドキリと高鳴る。
「コノ弓矢……これ、魔法の品だよネ? しかモ結構強力な……もしかしテ、伝説の武具?」
バラが掴んだ矢を指先で弄び、軽々と圧し折って投げ捨てる。彼の問い掛けには何一つ答えを返さないアデリーネだったが、その沈黙こそが質問内容を肯定しているといえた。
「魔力が宿ってるのは、ソノ弓? ソレとも矢の方? 使用者の魔力デ威力を上げるのカナ? さっキ村の連中が撃った矢よリ、アデりんの撃つ矢の方ガ威力強いモンね」
肌身をもって感じ取ったのか、それとも冷静に観察していたのか。アデリーネはいかにも頭の悪そうな馬の獣人が見せる鋭い観察力に、若干の驚きを覚える。
スミの意外な賢さといい、この所、驚かされる事ばかりだ――いや、自分が驕っていたのだろう。気を引き締めなければ。
「サッキからアデりんは、俺の目を狙っテんだよね? 元々弱イ部分は、悪魔憑きになってモ、あまり強化サレないと踏んデ。狙いハ悪くナイし、戦うキミの姿は素敵だケド……残念、無駄だヨ。もし当たったとしても、この程度の矢じゃ、瞼も貫けナイ。もう判ってるでショ?」
ぺらぺらと喋りながら一歩一歩、間合いを詰めて来るバラ。首をふらりふらりと動かし、まるで酔っているかのような動き……事実、自分の台詞に酔っているのだろう。
アデリーネは再度矢を番えて弓を引き絞り、もう何度撃ったかもわからない矢を、無言のままで放つ。矢は狙い違わずバラの目へ! だが……。
「無駄っテ言ったでショ?」
矢は、バラの目の前で止まっていた。正確には、目に届く直前。瞼に挟まれ停止していたのだ。
「アデりんの矢、ボクには止まって見える。今まで避けナカったのは、愛するキミに判って欲しかったカラだ。抵抗しても無駄だっテ」
消撃の盾を捨て、腕を広げ、更に歩を進めるバラ。大きな歩幅で一気に間合いへと踏み込まれ、アデリーネは慌てて後退する。そしてなおも矢を番えて弓を引き……。
ばつん――。
「っ!」
弓の弦が切れた。その反動でバランスを崩すアデリーネ。
ようやく訪れた好機に満面の笑みを浮かべたバラは、ぐっと腰を落とし、硬い蹄で大地を蹴る。
「おおっ、アデりぃんんンンンッ! 俺ヲ誘ってるんだネ!? 据え膳食わヌは男の恥イィィィ!!」
「きゃ……!」
雪崩のようなタックルでアデリーネの腰を捉えて抱え上げると、そのまま地面へと押し倒すバラ。倒れこんでもまだ突進の勢いは衰えず、土煙を上げて滑走する二人。硬い地面と擦れあったアデリーネの背中に、骨に染みるような鈍い痛みが走る。
「やっト俺の所へ来てくれタねアデりん! さ、愛を確かめ合おウ!」
「み、妙な愛称で呼ばないで……!」
仰向けとなった腹の上に圧し掛かられて息をするのも苦しいアデリーネだったが、辛うじてそれだけを言って、唇を突き出してくるバラの顔面を片手で押し止める。
「それに、私の愛は……貴方の方を向いておりません!」
そして空いた逆手で矢を握り、力一杯バラの首筋に突き立てる。
だが、やはりというべきか。悪魔憑きであるバラの硬い皮膚を突き破るには威力が足りず、その表面を軽く引っ掻いた程度の痕跡だけを残し、弾き返されるのみ。鋼鉄の表面を爪楊枝で突いているような物だ。
「ツレない事言うなヨ、アデりん。悪魔になっテモ、俺の愛は本物ダヨ? キミが望むならドンな事でもすルし、何でモ買っテあげル。ソしテ毎日愛し合おウ。そうダ、子供は何人がイイ?」
アデリーネの首筋へ鼻先を摺り寄せながら、荒い鼻息と共に愛を囁くバラ。軽く掴んだアデリーネの細い肩からは、ミシミシと骨の軋む嫌な音が聞こえてくる。だがその間も彼女は、ひたすらバラへと矢を突き立て続ける。
「俺達の子供ナラ、きっと可愛いト思うんダ! 種族ノ違い? ノン! 至高の愛ヲ前に、ソンな事はノープロブレム!! さあアデりん、今スグ愛の儀式を……?」
と、独り盛り上がっていたバラは、妙な事に気付いた。
「アレ……アデりん。そんナに髪、長かったっケ?」
押し倒した際に地面へと広がった、アデリーネの細くしなやかな銀髪。オーロラのような輝きを見せる青みがかったその髪が、さっきよりも随分と伸びている気がする。確か彼女の髪は、腰より上くらいの長さでは無かったか? 最初見た時、そのくらいだったような……。
「でも、まぁイイか! 俺、ショートよりロングヘア好きだシ! さて、ソレじゃ既成事実とイウ事で愛の営みヲ……」
愛しい女の胸元に手を掛けて服を引き裂き、柔肌を存分に堪能する! そして欲望のまま、猛々しく愛の証を彼女へ……!
と、なるはずだった。
普段のバラであれば。
「……あレ?」
だが、何故だろう? そんな気分にならない。そそる女を組み伏せているというのに、燃えるように熱い欲望が……込み上げてこない。アデリーネの事をいとおしい、とは思う。だがそれが男性的な欲求に結びつかないのだ。
ふと、彼女の服を掴む自らの手を見る……自分の手は、こんなにも筋張っていただろうか? 逆の手も……妙にやせ細っている気がする。爪は乾燥してひび割れ、皮膚にも妙なシミが何箇所も出来ている……なにかがおかしい。
「ナンだ、コレ……」
「バラさん、ちょっと失礼しますね」
困惑するバラの下から、彼を押し退けて這い出そうとするアデリーネ。「そうはサセないヨ!」と、彼女を押し止めようとしたバラだったが、あっさりと身をかわされ脱出を許してしまう。
「ど、ドうシ……て?」
力が入らない。体が思うように動かない。
良く見れば、細っているのは手だけでは無い。鍛え上げた腹筋も、自慢の脚力を生み出す両脚も……筋肉は萎み、骨と皮だけが形作る枯れ木の如き有様となっていた。
更には体毛だ。燃えるような赤色だった鬣が、いつの間にか抜け落ちて疎らとなり、残った部分も白く変色している。これは……白髪なのか?
「言い残す事はありますか、バラさん」
やせ細った……いや、年老いたバラの前に立ち、そう問いかけるアデリーネ。長くなっていた彼女の髪は更に伸び、バラの周りを囲む緩やかな曲線を描き出している。
良く見れば、指先から流れ落ちる血……彼女の爪は、何故か全て剥がれ落ちていた。
その視線に気付いたアデリーネは、軽く指先を振って血を拭い、若干のポーションを垂らして傷を塞ぐ。
「この、爪の傷ですか? 私が思っていたよりもずっとバラさんが洞察力に優れているようでしたので、伸びているのがバレないように先程念の為に、自分で剥がしました」
「伸びて……? あ……!」
バラは、この時になってようやく自分とアデリーネの身に起った変化と、伝説の矢が持つ真の効果を理解した。それは魔力を使って威力を高める効果などでは無く――。
「ええ。ご想像の通りです」
死を間近に控えた老人を前に、若く美しいエルフは穏やかに微笑んでいた。