第五十四話:いい女!(二)
青々と芽ぐむ木々の隙間から、ようやく見えてきた人工物。
太く逞しい首や長細い顔に引っかかる蜘蛛の巣を疎ましげに剥ぎ取りながら、悪魔に憑かれた馬の獣人バラは一つ嘶き、目を瞬かせる。
「ぶひひ……やぁっと着いた。場所、判りにく過ぎるだろコレ?」
ここに着くまで、かなり迷った。何せ地図にも載っていない小さな村だ。大まかな場所は聞いていたものの、探し当てるにはかなりの時間を費やしてしまった。無心で真っ直ぐに走るのは得意だが、考えて走るのは大の苦手。それがバラだ。
「さて、と……」
先程からオヤツ代わりに食んでいた山猫の肉を吐き捨てて、耳を澄ます。すると村の方から人間たちの声が微かに聞こえて来た。
悪魔が来たぞ。みんな急げ――。
「ぶひ? もう気付かれてる? あ……やっぱり、さっき引っかかった糸、鳴子だったかぁ。やっちまったなぁ……」
ポリポリと首筋を掻き、ぶるると唇を震わせる。蜘蛛の糸かと思ったが、誰かの仕掛けた警報付きの罠だったようだ。
だが、何の問題も無い。
「サークスの大将にゃ、適当に楽しんで来いとしか言われて無いしな! ぶひひっ!」
本当ならば、なるべく村人を捕らえ、特に村長と孫娘は生け捕りにしたいとサークスは考えていた。しかし猪突猛進を本分とするバラに、そんな細かい注文をつけても実行不可能であり、無意味だ。
「男は皆殺し! 女は生け捕り! そんでもって酒池肉林!!」
こんな性格のバラだから、放って置いても若い女は生け捕るだろう……バラが最高のパフォーマンスを発揮する状況を心得ているサークスは、そこまで計算して、適当に楽しめと命じた。
「いま行くよ! 俺のカワイ娘ちゃんたちぃ~っ!」
力強く大地を蹴って走り出すバラ。硬い蹄によって、踏み固められていた地面が大きく穿たれ土が飛び散る。
はちきれんばかりの筋肉によって、ぐんぐんと加速する大きな身体。押し退けられた空気が突風となって周囲の物を吹き散らし、木々が見る間に後方へと消えた。簡素な木で組まれた村の入り口が、あっという間に目前へと迫る。
瞬発力でこそ劣るが、走行能力において他の種族を圧倒する馬の獣人。悪魔憑きとなった今、バラの走りは、それそのものが武器と言える程にまで高まり、触れる物全てを打ち砕く弾丸のような突進となって村の入り口を潜り…………。
「……ぶひっ?」
突然、足下から踏みしめるべき地面が消えた。落とし穴だ! と気付いた時にはもう遅い。
空中で何度か足を空回りさせたバラは、それまでの勢いそのままに巨大な落とし穴へ嵌り、手足をバタつかせながら垂直な穴の中へと落ちて行く。
「なんのっ!」
咄嗟に土壁へ指を突き立てて、落下を阻止しようとする。だが土壁は脆く、逞しい獣人の体重を支える事無く崩れ落ちてしまう。
さらに、その落とし穴は実に巧妙な作りとなっていた。
「……あ、あれ?」
深い穴の底へと落ちたバラは、身動きが出来なくなっている事に気付く。落とし穴は底へ近付くほど穴幅の狭まる逆円錐形となっており、落下の勢いと自らの体重で、バラの身体はそこに挟まってしまったのだ。
悪魔憑きであるバラは、並みの罠でダメージを負うような事は無い。だが落とし穴のように半ば強制的な場所移動を伴う罠に関しては、他者と同じく、このように動きを制限されてしまう。
罠に嵌め、動きを止めておいて、その上で……。
「今です!!」
号令と共に、穴の底でもがくバラ目掛けて穴の上部から無数の矢が打ち込まれた。
降り注ぐ矢の雨。鋭い矢尻が絶え間無くバラの肉体を叩く。だがこの程度、悪魔である彼には本物の雨と大差無い。
「ぶひっ! 目に入ったりさえしなきゃ、どうって事は……!?」
バラは、余裕ぶった台詞を最後まで言い切る事が出来なかった。開いた口へ、大量の土砂が流れ込んだのだ。
矢の次は土! しかも水を含み、重くなった泥だ! 口に入った分を吐き出した途端、次の土が押し寄せる。手で払い除けようとしたが、落とし穴に挟まって動かない! そうする内、頭以外の身体は土に埋って……。
「ぶはっ! ぶひ!!……ばっ、ぶばっ…………」
程無くして、村の入り口に掘られた巨大な落とし穴が完全に埋め立てられた。バラの声はしばらく前に途絶えたきり、聞こえて来ない。
周囲では土で膨れた麻袋を抱えた人たちと、手に弓を構える人たちが、色の違う地面の様子を固唾を飲んで見守っている。その中に紛れ、険しい視線を地面へと向けるアデリーネ。
ここまでは予定通り。だが、これまでに見聞きした悪魔憑きの身体能力から推察するに、この程度で仕留められるとは思えない。その証拠に、地中より響く微かな地鳴り――。
「あ、アデリ姉ちゃん……馬面野郎、やっつけたのか?」
物陰から不安そうに尋ねるスミへ、アデリーネは首を横に振る。
「……スミさん、予定通り、村の皆さんを今すぐ避難させて下さい」
次第に大きくなる地鳴りは、今や地響きとなって周囲の地面を細かに揺らしている。
「さあ、早く!」
「わかった! みんな、こっちへ――」
村人たちが皆、埋めた穴から離れた瞬間! 地震を伴って爆発するように土砂が跳ね上げられ、赤色の何かが土中から空高く飛び出した。
ぱらぱらと土や砂が降り注ぐ中、どすん、と着地する赤色の何か。村人たちがそこに見たのは、泥に塗れ、怒りに目を輝かせるバラの姿だった。
「テメエら、ヤってくれタな……俺様のイカス鬣を、泥塗レにしやがっテ……!」
ゆっくりと振り返るバラ。一歩足を踏み出す度に大地が揺れて、硬い地面に深く足跡が刻まれる。
真紅に染まる肌。血のように赤い光を放つ双眸。悪魔が、その力を最大限に発揮する時に見られる現象だ。まとわりつく泥さえも、赤く侵蝕して行きそうな勢いさえ感じられる。
「ぶフっ、ぶフッ……この村の奴ラ全員、生キ埋めダ……俺様と同じ目に合わセて……?」
そこへ一本の矢が飛来し、こつん、とバラの額に命中した。
矢の放たれた方を見やれば、弓に次の矢を番えて立つ、凛々しい女性の姿。
「バラさん、あなたのお相手は私が勤めます」
「お、オォォォ……! アデりん、来てたンだなあぁぁぁぁっ!!」
地の底から響くような声で、喜び嘶くバラ。自らが欲望の対象を見つけた事によって全身に力が漲り、筋肉がはちきれんばかりに膨らんで不気味に脈動する。
アデリーネはそんなバラにも動じる事無く、冷静に矢を放つ。狙い違わず悪魔の左眼へと迫る矢弾であったが、瞬きをした瞼によって簡単に弾かれてしまう。
「コノ穴、アデりんが考えたノ? 賢イねェ! それに弓モ上手いんだネ!? 流石エルフは凄いヨおォォォ!!」
叫ぶバラ。その凄まじい声量は彼の身体から泥を吹き飛ばし、付近の家々を震わせる。
爆音響く中、アデリーネは退避する村人たちの最後尾で高らかに親指を掲げるスミの姿を認めると、長い銀髪をかき上げ、アップにしてまとめる。
これから、この獣人を……バラを殺す。強い思いを込めながら、壊れた花弁の髪飾りを髪に留めるアデリーネ。
彼女はバラに対し、個人的な恨みは無い。どれもヤマトやノエル経由の間接的な恨みだ。だからだろうか? 少しでも気を抜くと、殺意が鈍ってしまいそうになる。なるべくなら殺したく無い等と甘い事を考えてしまうのだ。
加減して戦えるような相手では無い。全力で、それこそ殺す気で立ち向かっても勝てるか……しかし、それでも……。
「可愛イねアデりん! 久しぶリに見たキミは輝いてル。その服も素敵ダヨオォォォ!」
真っ直ぐに自分へと向けられる好意故? それともただ単に、自分の手を汚したくないだけ?
悪魔に憑かれたとはいえ、バラは顔見知りだ。ちょっと女癖は悪いが、明るく気楽なパーティーのムードメーカーであり、力仕事を率先して行うといった美点も少なくない。その事は以前、賢者の鎧探索にしばらく同行して、知っている。
戦いたくない、殺したく無い。
せめてあと何か一つ、バラを恨み貫ける理由があれば――。
「ぶふふ……でもアデりん、それだケは頂けナイなぁ。頭のソレ……可憐なキミには似合わなイよ。安っぽいシ……そレに、壊れテんじゃない?」
バラが鼻先でアデリーネの髪飾りを示す……と、不意の突風が彼女の髪から件の髪飾りを弾き飛ばした。
「ぶひっ、命中……!」
ニヤリと笑うバラ。鼻に詰まっていた泥を飛ばして、髪飾りを狙撃したのだ。
元々壊れていた髪飾りは更に砕け、バラバラとなって地面に落ちる。もう本来の用途を果たす事は二度と出来ないだろう。
ばさり、と青みがかった銀髪が解け、エルフの背中でしなやかに広がった。
「ウん、やっぱアデリンは髪を下ろしてる方が似合ウ! セクシーだ!! でも、キミがどうしてモって言うのなら、そんなボロじゃない新しイ金の髪飾りをプレゼントするヨ、ぶひひっ! それで髪を留めたまえ。黄金の輝きが、キミの髪に良く映える!!」
ウキウキと夢と欲望に溢れる未来を語るバラ。自らの尻尾を髪に見立て、髪飾りの形状を説明し始める。そんな彼へ、アデリーネは静かに言った。
「ありがとうございます、バラさん」
いやあ、それほどでも……と身を捩って照れるバラ。だが自らに突き刺さる冷たい視線から、アデリーネの様子が先程までと全く違う事に気付き、動きを止める。
「おかげ様で……個人的に貴方を殺す理由が出来ました」
弓に矢を番え、ギリギリと引き絞るアデリーネ。その切っ先には、深遠から湧き上がる怒りと、迷いの無い殺意が宿る。
「アレ? 俺、ナンかミスっ……うぉっ!?」
状況が掴めず首を捻るバラへ、アデリーネは矢を放つ。正確に、冷酷に。
殺したくない? 手を汚したくない? 何を馬鹿な! 甘い考えどころか、ありえない思考だ。
なんとしてでも、どんな手を使っても、自らの手が如何に汚れようとも……確実に殺す!
絶対に、許さない!!