第五十二話:戦士たちの休息(二)
さっきまで聞こえていた賑やかな泣き声が、ようやく止んだ。
そろそろ起きる時間なのかな? 心地良いまどろみの中で、ノエルはそんな事を考える。
「そういや、さっきノエルの傷の回復に差があるって話してたよな? 俺さぁ、ちょっと思いついた事があって……」
「あ! お兄ちゃんがまた話し変えようとしてる。自分の都合が悪くなると、すぐにそうやって!」
「ちがっ……! バカ、余計な事言うんじゃねぇよ!」
そうそう、いつもそうなのだ。彼は人の事をバカとか言って、色々な事を誤魔化してしまう。そんな事ばっかり上手になっちゃって……あ、でもそれって私のせいなのかな?
その疑問に答えを出せぬままではあったが、とりあえずは起きよう……そう思ったノエル。しかし瞼が重い。頭はすっかり目覚めているのだが、身体の方はまだ少し眠りを欲しているようだ。目を開けぬまま、ノエルは仕方なく周囲の声に耳を傾ける。
それにしても、懐かしい。前は私も、その輪の中に居たんだっけ……。
「ま、まぁ良いではないかスダチ殿。さあフライパンを置いて……。アデリーネ殿も、その辺で……」
見るに見かねた太郎丸さんが、猫なで声で……ううん、犬なで声? そんな雰囲気でヤマトのフォローに入っている。この人も相当な苦労性だ。
「そ……そうそう! ヤマトに聞こうと思って忘れておったでござる! 悪魔どもはどうやって鉄壁たるノエル殿の守りを破ったのであろうなぁ? 某、ずっと気になっていたでござる!」
「あぁソレな、その話! でもそれ天使の弱点にも関わるから絶対に秘密なんだぜ!?……なぁスダチ?」
わざとらしく口を合わせる男二人。特に太郎丸さんの芝居がかったゴザル口調が小憎たらしい。話を振られたスダチちゃんも、胡散臭そうに鼻をフンと鳴らし、小さく「ウザッ」と呟いた。太郎丸さんのシュンとする姿が目に浮かぶ。
「まぁ、ノエルお姉ちゃんには口止めされてるけど……ここに居る人たちになら言って良いんじゃないかな? お姉ちゃんも許してくれると思う。それに知らないと次に同じような時、困っちゃうし」
スダチちゃんがそれぞれの湯飲みへレモン湯を注ぎながら言った。
うん、教えちゃって構わないよ。悪魔だけが天使の秘密を知ってて、仲間が知らないっていうのもおかしいし。
それよりも私には、ふわっと漂って来た甘酸っぱいレモン湯の香りの方が気になる。こんな心地良い香りを感じるのも久しぶりかもしれない。
「そうだな。んじゃあ、俺が話すけど……みんなマジで秘密にしてくれよ? あのな、天使ってのは……」
聞き耳を立てるみんなへ、ヤマトが天使の秘密を明かす。
天使はみんなから頼りにされた分だけ力を出せる。頼りにされなくなると、信頼されないと全然ダメになる。だから天使はみんなの為に頑張るし、一生懸命努力する。少しでも多くの人から愛されるように……。
ふと冷静になって考えると、天使の生き方って本当に打算的だよね。自分の為に八方美人でいる所とか。まあ悪魔と戦ったりするのに強い力が必要だから、その為にはどうしても仕方ないんだけど……。
「ふむ……つまり連中は、ノエル殿の信用を失墜させて力を弱らせたのか。だが、いくら秘密とはいえ……よく今までバレなかった物だ」
「天使そのものの数が少ねぇし、天使と出くわした悪魔で生きてる奴なんざ、もっと少ねぇ。気付いても、試せなきゃ意味無いし……それに悪魔連中は自分のやりてぇ事以外にゃ殆ど興味無いみたいだしな」
なるほど、と呟く太郎丸さん。でもまだ疑問があるようで……。
「だが小さな村で少々評判が落ちたとて、それでいきなり天使の力が出なくなる、というのも妙な話だ。その事実を知らぬ多くの者は、未だノエル殿を慕っておるのだぞ?」
意外と……なんて言っては失礼だけれど、太郎丸さんは顔に似合わず、いつも色々な事を考えている。そんなだから苦労を背負い込んでしまうのだろうけど。
なんとか体の方も起きる準備も整ってきた私は、少しだけ目を開けてみる。薄く靄がかかったような視界……あれ? 何時の間に私の目、見えるようになってたんだろう? ダメにされちゃった左目も、薄っすらとだけど見えてる気がするし、右目も瞼が元に戻ってるような……?
「ノエル様が力を発揮出来なくなった理由については、私に心当たりが御座います」
霞んだ視界の中に、アデリーネさんが一歩前へと踏み出す姿が映った。相変わらず、すらりと伸びた背筋と無駄の無い所作が彼女の美しさを際立たせている。その辺り、私にもまだ努力の余地があるって事だ。
「お話をする前に……とりあえずは飲み物をどうぞ太郎丸様」
「む? これはかたじけない」
空いていた太郎丸さんの湯飲みへ、湯気の立つレモン湯を注ぐアデリーネさん。本当に気の利く人だ。太郎丸さんも尻尾を振って喜んでいる……普段あまり喋らないのに今日は良く喋っていたから喉が渇いてたんでしょうね。
けれど……。
「えいっ!」
アデリーネさんは太郎丸さんがいざレモン湯を口に運ぼうとした瞬間、彼から湯飲みを取り上げ、自分で一気に飲み干してしまった!
「んくっ、んくっ……ぷはぁ」
「な、何をなさるアデリーネ殿!? 某の……」
飲もうとした所を取り上げられて、少なからずショックだったのだろう。太郎丸さんの尻尾がシュンとして垂れ下がった。レモン湯の一杯くらいでそこまでショックを受けなくても……。
けれどアデリーネさんはションボリした様子の太郎丸さんを満足気に見つめて、悪びれた様子も無く尋ねる。
「太郎丸様にお伺い致します。いま私がレモン湯を入れて差し上げた時の喜びと、私にレモン湯を取り上げられた時の悲しみ……二つを比べた場合、心に受けた衝撃は、どちらが上でしたか?」
何を唐突に? そう訝しがる太郎丸さんを「後で説明しますから」と宥めて、アデリーネさんは先を促す。
「むぅ? そうだな……どちらかといえば、取り上げられた時の方が……若干ではあるが、ショックは大きかったように思う」
若干、じゃないよね……みんなそう思ったけど誰も口にはしなかった。これぞ武士の情け。
それはともかく、太郎丸さんの言葉を聞いたアデリーネさんは微笑み「いつもご協力ありがとうございます」と告げて、発言を続ける。
「私は太郎丸様に、レモン湯を差し上げ、同じレモン湯を奪いました。その結果、太郎丸様は『レモン湯を得た時の喜びよりも、奪われた時の方がショックがより大きかった』と感じられておられます」
「若干……な」
そこは拘るんだ……。
でもそんな男の拘りは無視され、アデリーネさんの話は続く。
「レモン湯という同じ価値の物を与えられ、失った。価値は同じなのですから、本来心に受ける衝撃は同じであるはずです。ですが実際には、失った悲しみの方が大きい。これはつまり……」
「若干、だ」
太郎丸さん、結構しつこい。
「つまり人は『嬉しい、楽しい』といったプラスの気持ちよりも、『辛い、悲しい』といったマイナスの気持ちをより強く感じやすい。そう結論できます」
アデリーネさんの話に、頷いて返すヤマトとスミちゃん。でもあの薄ボンヤリとした眼差しは、全然頭に入ってないのにわかったフリをしている証拠。あとで良く説明しないと。
「要するにノエル様を知る全ての人が『天使が居て心強いと』感じるプラスの気持ちより、件の村にいらっしゃった方々が『天使が負けた』とショックを感じたマイナスの気持ちが、全体として大きかったという事になります」
付け加えるなら噂の広まっているであろう今、そのプラスとマイナスの差はどんどん開いている。何人かの人が以前と同じように私を思ってくれたとしても、覆せない程にまで。つまり私は、もう……。
「……なぁ糞チビ」
「糞チビとか言うんじゃねぇよ。どうした、スミ?」
話に置いてけぼりとなっていたスミちゃんが退屈し始めたようだ。ヤマトの袖を引いて、何事か話し掛ける。
「今の話、難しくてアタシにはわかんなかったけど……結局、みんなどうすんだ? 悪い奴、やっつけるのか?」
「それは……」
答えようとして、一瞬躊躇するヤマト。
多分、ヤマトの中ではもう決まっているんだ。でも他の人を慮って即答を避けた……私には、そんな風に思える。
そんな彼の様子に、真っ先に気付いたのは苦労性の人狼、太郎丸さんだ。組んでいた腕を解いて膝の上に乗せ、リラックスした様子で口を開く。
「ヤマトよ、気兼ねなどするな。安寧を欲するなら、遠に冒険者などしておらん。某で良ければ手を貸すぞ」
「そうですとも、気持ちは同じです。乗り掛かった船……最後までご一緒させて下さい、ヤマト様」
アデリーネさんも、それに続く。
てっきり、無茶はよせ、とでも言われると思っていたのだろう。二人の言葉に少し驚いていた風のヤマトだったけれど……そんな表情をすぐに和らげ、俯き加減で「あんがとな」と呟く。
そして顔を上げると、強い意志を声に乗せ、はっきりと言った。
「俺は、サークスの野郎を叩く! 無茶だろうと何だろうと、野郎だけは許せねぇ! 必ず……絶対にブチのめす!!」
無茶や無謀なんて話じゃない。ヤマトの宣言は、彼の正気を疑うくらいの……普通の人なら『夢見すぎだろ、頭ヘンになったか?』って程の話だと思う。体中ボロボロのレベル4の人が、伝説の装備で身を固めたレベル32の人に挑むなんて異常だ、馬鹿げてる。
けれど、誰も止めようとしない。それどころか少し嬉しそうな表情まで見せている。「そうこなくっちゃ」と、自分たちの期待に応えてくれたヤマトを、誇らしげに見つめている。
「あれ? お兄ちゃん、もう出かけるの? 言っても聞かないとは思うけど……危なくなったら、さっさと逃げてよね?」
台所からレモン湯のおかわりを持ってきたスダチちゃんが、半ば諦めたように言う。
スミちゃんは? と見れば、置いて行かれないようにする為だろう。自分の荷物をまとめて、もう背負っている。
ヤマトが「手を貸してくれ」と頼むまでも無く、誰の目にも迷いは無い。
「では少しでも勝率を上げるために、まずは相手の情報を収集しましょう。殴りこむにしても、場所がわからなくては行けませんもの」
アデリーネさんが率先して場を仕切り始めた。今後の行動において必要な事柄が次々にピックアップされ、まとめられて行く。
その中にあった項目『サークスについての情報』。そこへ話が及ぶタイミングを見計らって、私は起き上がる。身体は少し痛んだけど……やっと来た私の出番だもの。見逃す手は無い。
「それくらいなら……私でも力になれるかな?」
驚くみんなの注目を浴びながら、私はヤマトと共に戦うべく、知りうる限りの情報。その全てを語ったのだった。