第五十一話:戦士たちの休息(一)
真っ暗闇の中、手探りで探し出したランタン。小さな赤毛の少女がそれを差し出すと、黒髪の少年……ヤマトは軽い礼と共にそれを受け取り、慣れた手付きで家に残っていた僅かな油を注ぎ、火口箱から火種を移す。
最初こそ燃える事を渋っていたランタンの芯であったが、程無くしてその身に火を灯し、狭い室内を暖かな色で照らし始める。
「長雨で、ちょっと湿気ってたか? まぁ使えるんなら何でも良いか」
ランタンのシャッターを弄って光量を調節し、室内を見回すヤマト。自らが生まれ育った見慣れた風景に囲まれてか、どこか落ち着いた表情が、揺れる明りに照らし出されている。
悪魔との戦いを終えて、休息の為にやってきた一軒家。見晴らしの良い丘の上に立つ、小ぢんまりとした家だ。一部の壁はガイランによって破壊されてしまっていたが、それでも揺らぐ事無くしっかりと立つ、丈夫な家。
小さな少女にとっては初めて訪れるこの場所は、どうやらヤマトの実家であるらしかった。それを知った途端、ランタンに照らし出される全てが珍しく思えて、ついキョロキョロとしてしまう。
「ヤマトよ、すまぬがこちらに明りを貰えるか? 傷が縫えぬ」
渋味のある低い声が明りを要求した。どうやら物見遊山をしている暇は無いようだ。
頷いてそちらを照らすヤマト――と、闇の中に、傷付いた右腕に針を通す黒毛の人狼が浮かび上がる。太郎丸だ。小さな少女の記憶にも、その姿は残っていた。手足に酷い傷を負い、体毛の一部も炎に炙られ縮れてはいたが、堂々と落ち着いた物腰は以前とあまり変わりない。
だが、彼の隣でポーションを手に待機している銀髪の美しいエルフ……あんな人は見た事が無い。小さな少女の胸が、不安にざわめいた。
「もう少しポーションを使っておかれますか?」
「いや、それには及ばぬ。これで……縫い終わった」
残った糸を歯で短く噛み千切ると、傷の具合を確かめ、腕の動きを確認する太郎丸。痛みに顔をしかめるものの、それほど深刻な傷では無かったようだ。傷を一舐めして血を拭い、片手で器用に包帯を巻き始める。
「厄介な物ですね、悪魔の呪詛という物は」
治療の後片付けを始めるエルフの女性。呪詛について他人事のように言ってはいたが、彼女自身も痛々しく血の滲む絆創膏が身体の各所に貼られている。ついさっき、大蜘蛛と戦った際に負った傷らしい。
凄く綺麗で大人しそうな人なのに、そんなに勇敢な一面もあるのかと驚きを覚える小さな少女。やはり女は度胸なのだと、強く心に刻む。
「ところでヤマト、そろそろ説明してもらえるか? どこで何をしていたか……」
話を切り出すタイミングを窺っていたのだろう。太郎丸がそう問いかけて……ちらりとこちらを……小さな少女の顔を見た。獣人特有の野生的な瞳が、一瞬優しさを帯びる。
「ま、懐かしい顔もある。どこに居たのかは、言わずとも判るが……な」
言って、太郎丸が微かな笑みを浮かべる。どうやら彼も、自分の事を覚えてくれてたらしい。見知らぬ場所で少し心細かった小さな少女は、ただそれだけの事が無性に嬉しかった。
「ああ……さっきスダチから聞いた。アデリーネと二人で探してくれてたんだろ? 悪い、急に居なくなったりして……あと、色々ありがとな」
バツが悪そうに、頭を下げるヤマト。そうしておいてから、自分が居なくなった日の事、ガイランに襲われて大怪我をした事。そして少女の村で養生していた事を順番に話して行く。
ヤマトは随分と気負ってるようだったが、謝られている側の二人は彼を咎めるつもりは無いようだ。ただ事実が知りたかっただけ……どことなく、そんな雰囲気を感じる。
「そう……だったのですか。では、そちらの彼女がヤマト様の恩人というわけですね?」
そう言って、少女の方へと向き直るエルフの女性。腰を屈めて目線を合わせた彼女に、小さな少女の緊張は高まる。
宝石のように澄んだ瞳。傷付いてもなお整った顔立ち、美しい肌。屈む事で大きく開いた服の胸元からは、零れ出さんばかりの豊かな膨らみが二つ、ランタンの光を浴びて輝いて見える。どれもこれも、自分には無いものばかりだ。
「私はアデリーネといいます。この耳でお分かり頂けるかしら……種族はエルフです。少し前からヤマト様のお世話になっております」
自分へと向けられる丁寧な口調、澄んだ声、柔らかな微笑み。
初めて天使のノエルを見た時も綺麗だと思ったけれど、質の違う魅力が彼女にはある。もしノエルを『美少女』と表現するなら、このアデリーネという人は『美女』だ。しかも頭に『絶世の』と付くくらいの、物凄くに整った美しさ。どうしてこうヤマトの周りには異様な程の美人ばかりが集まるのか。そんなのと比べられたら自分なんて……。
桁違いの美貌を前に、幼い少女の小さな胸は押し寄せる劣等感によってペチャンコになってしまいそうだ。……まぁ元々、物理的にはペチャンコであるのだが。
「スミさん……私からもお礼を言わせて下さい。ヤマト様を助けて下さり、ありがとうございました。本当に感謝しております」
感謝の言葉を述べるアデリーネの潤んだ瞳から感じられる、深い安堵と愛情。大切な人が無事であった事を心から喜んでいる。敏感にそれを感じ取った小さな少女こと琥珀色の村のスミは、思わずヤマトの背中に隠れてしまった。
彼の服を掴みながら半身だけを乗り出して、アデリーネの様子を覗き見るスミ。乙女のカンが激しく警鐘を鳴らしている。まさかとは思ったが……こんな美女までが糞チビの事を!?
あんなチンチクリンのどこが良いというのか? いや、良い部分はたくさんあるのだが、何もそんな、超大金持ちが貧乏人の獲物まで奪い取るような真似をしなくても、他にもっと良いのがいくらでも居るだろうに、よりによって……!
いや、まて……そうか、わかった。いま確信した。この女が……アデリーネがヤマトを狙うというのなら、今から敵だ! ライバルだ! 底意地の悪い泥棒猫め! この……女狐めっ!!
「ふーーーっ!」
追い詰められた子猫のように毛を逆立てて、警戒心剥き出しの視線を返すスミ。
あら? と小首を傾げるアデリーネに軽く詫びを入れて、ヤマトはスミの首根っこを掴んで自分の背中から引っぺがした。
「おいコラ、人見知りなんてするガラじゃねぇだろ? アデリーネが挨拶してんだから、お前もちゃんと挨拶しろよ……仕方ねぇ奴だな」
ヤマトが無遠慮にスミの頭を撫でると、手の平からふんわりとした温もりが彼女へ伝わる。雨で湿ったままの赤毛はクシャクシャになってしまったが、スミは、そうされるだけで幸せな気分になってしまうのだ。
(ああ……なるほど)
途端にゴロゴロと喉を鳴らし始めたスミを見やり、アデリーネは全てを理解する。この娘もなのか、と。
アデリーネが密かに抱いていた、スミに付きまとう疑念の殆どが、恋する乙女の行動力という言葉で片付いてしまった。変に勘ぐっていた自分が恥かしい。
「俺が紹介するよ。コイツ、スミってんだ。前に立ち寄った村の、村長の孫で……ここんトコずっと世話になってた。てっきり村に残ってると思ったのに、知らない間について来ててよぉ……」
「はぁ……」
軽く溜息をつくアデリーネ。
全く、この人はなんて罪作りな……行く先々で女心をモノにして、後まで追わせてしまって。まだ小さな娘だから大丈夫とでも思ってるのかしら? どんなに小さくても、女は女だというのに……。
「はぁ……そう、ですか。わかりました」
再度、溜息をついて視線を横合いへと移せば、渋柿を噛み潰したような顔をした太郎丸の姿が目に入った。思いは同じ、という事だろう。
「ま、お陰で助かったけどな。ガイランの野郎にも一杯食わせてやったし。なぁ?」
「うん! アタシ、コーヒー投げた!」
輝くような笑顔でヤマトの声に応えるスミ。彼の役に立てた事が嬉しくて仕方ないようだ。その気持ちは自分にも良くわかる。彼の為に何かしたい、役立ちたいという思いは――と、ここまで考えたアデリーネはハッとなり、太郎丸の方を窺った。すると――。
「…………」
黒毛の人狼が、先にスミへ向けていたのと似た、苦虫を噛み潰したような表情でこちらを見ていた……私も同類、という事か。
アデリーネは恥かしくなり、肩をすくめて硬い椅子に腰掛けた。
「ふう……。この辺りで自己紹介はもう良いか?」
これ見よがしな溜息と共に苦笑して、太郎丸が「これからどうする?」と話題を切り替える。
「やって来た追っ手の質と量を見るに、サークス殿は……いやサークスは、まだノエル殿を諦めてはおらぬのだろう。連れ戻し、利用する気だ。大蜘蛛とガイランが倒れたと知れば、再三の追っ手が掛かる事は間違い無かろう」
腕を組み、滔滔と述べ立てる太郎丸。
「我らは今、消耗している。傷が癒えるまではひたすら逃げ、迎撃に徹するのが良策かと思うが……」
そこまで言って、ヤマトの背後に置かれたベッドへと視線を移す太郎丸。それにつられ、全員の視線が同じ場所へと集まる。
清潔なシーツの引かれたベッド。そこには、ノエルが横たわっていた。顔には相変わらず包帯が巻かれたまま、毛布を掛けられ、まるで眠るように……というよりも。
「すふーー……、すふーー……」
定期的に聞こえる安らかな寝息。時折り、ごろりと寝返りも打っている。
サークスの手に落ちてからの数ヶ月、ずっと訪れる事の無かった穏やかな眠りに、彼女は身を委ねていた。
「良く寝てやがる」
ヤマトがノエルの額へ軽く手を乗せる。すると、うふふ、とだらしの無い笑みを浮かべたノエルは、何事かモニョモニョと寝言を言っている。幸せな夢でも見ているのだろう。
「逃げるかどうするかは、コイツ次第だな。とりあえず二、三日くらいは様子見てぇトコだけど」
そう言ったヤマトの言葉に頷き、理解を示す太郎丸。すぐさま追っ手が掛かる事も無いだろう。近々の予定は、これで決まった。
「それにしても……不思議ですね。あれだけポーションを使っても治らなかったのに……」
呟くアデリーネ。彼女が言ったのは、ノエルの傷についてだ。
数刻前――。
ヤマトと共に光に包まれた後、彼の手に抱かれていたのは、光と化して消える直前の、ボロボロとなったノエルだった。
とりあえず消え失せていた部分は身体へと戻ったものの、骨は折れ傷は開いたままで、流れる血は変わらず光と化して消えて行く。このままでは、また同じ事になってしまうだろう。
そう考えたヤマトは、ダメで元々とばかりに回復薬の最高峰、スミから貰っていたエリクサをノエルに飲ませたのだ。すると――。
「まさか効くとは思わなかったけどな」
悪魔の呪詛を受けていたにも関わらずノエルの身体は癒しの魔力が効果を表し、見る見るうちに傷が塞がり血色が戻った。そして失われていた肌や爪、唇や瞼、そして左眼までも再生したのだ。
いくらエリクサが最高の回復薬だといっても、所詮は薬。ポーションの効果を高めたというだけの物だ。これまでに悪魔の呪詛を打ち破ったという記録は無いし、噂も聞いた事が無い。それなのに、何故?
理由はわからないが、兎にも角にもエリクサによってノエルの傷は劇的に回復した。
「だが、せっかくの朗報に水を差すようで悪いが……完全に回復したわけではござらん」
太郎丸の言う通り、全ての部位が回復したわけでは無い。
滅茶苦茶にされていた翼はとりあえず元の形になったものの、羽そのものは若干の羽毛が生えた程度で筋力も衰えており、到底元通りとは呼べない状況。そしてボロボロにされていた髪も、なんとか生え揃ってはいたが以前よりもずっと短く、ベリーショート程度の長さしか無い。そしてガイランによって筋肉を寸断された右手は他の部位と違い、全くと言って良いほど回復していなかった。
「どうして回復の度合いに、これほどの差があるのでしょう? 傷を受けてからの経過時間が関係すると考えても、翼が治って右腕が治らない理由に説明が付きませんし……」
首を捻るアデリーネ。そう悩む彼女へ、可愛らしい声が割り込んで来た。
「きっと、口移しが良かったんじゃないですか?」
そう言いながら、お盆を手に現れたのはスダチだ。彼女の持つお盆の上に乗っているのは、レモンの絞り汁とハチミツをお湯で割った飲み物。一般にレモン湯などと呼ばれ、身体を温めるのに効果的だと寒冷地などで良く飲まれている。
「はい皆さん、良かったらどうぞ。少しポーションも入ってますから、疲れも取れると思いますよ」
各々が目の前に、湯気の立つ湯飲みが置かれて行く。雨の中を走り回り、身体の芯から冷えていた面々にはありがたい差し入れだ。
「あ、アタシも良いの?」
「うん、勿論! スミちゃんだって頑張ったんだから、みんなと一緒だよ」
「……あ、ありがと」
湯飲みを手に取り、頬を赤らめるスミ。同じ年頃の同性であるスダチには、彼女の警戒心も多少緩むようだ。
「それはそうとスダチ殿、怪我は良いのか? なにやら血で汚れていたが……」
「あ、あとスダチさん? 口移しが良かったって一体何の事……」
太郎丸とアデリーネが、ほぼ同時に疑問を口にした。それらを受けて、実の兄へと若干冷めた視線を送るスダチ。当のヤマトは露骨に目を逸らし、ほの甘いお湯を啜る。
「怪我の方は大丈夫です。お兄ちゃんにハイポーション貰って飲んだので……」
「な、なんだよ……高級品なんだぞ、ハイポ! スミに感謝しろよな?」
「うるさいなぁ、もう。わかってるよ、ちゃんとお礼言ったもん! お陰さまで、ピンピンしてますって!」
どこか不服そうなスダチではあるが、言葉に嘘は無く元気そのものであるようだ。
肺を傷付けられて派手に血を吐いたものの傷自体は小さかったようで、ハイポーションを三本ほど飲み干した事で傷は塞がり、今は痛みも出血も無いと言う。
「ふむ、ならば良かった。だがスダチ殿、完全に回復したわけでは無いだろう? 時間が薬となるだろうが、無理は禁物だ」
「あ、あの……ところでその、口移しというのは……」
一安心、といった体で満足気に頷く太郎丸の横で、やけに突っ込んでくるアデリーネ。更にはスミも、興味津々といった視線をスダチへと向けている。
「そう、聞いて下さい! お兄ちゃんヒドイんですよ? 実の妹には適当にハイポ飲ませておいて、ノエルお姉ちゃんにはご丁寧に、口移しでエリクサ飲ませたりなんかして……!」
「し、仕方ねぇだろ!? ノエルの奴、気絶してて何も飲みこまねぇんだから!」
「ヤマト様、なにも口移しにしなくとも、身体に振り掛けても効果は一緒ですのに……」
「雨降ってたから、流れちまうと思ったんだよ!」
「お兄ちゃん、その時にはとっくに雨止んでたよ!?」
スダチとアデリーネの二人から投げ掛けられる矢継ぎ早の追求を、どうにか口先で避け続けるヤマト。だが明らかに防戦一方で、反撃のチャンスも、脱出の機会も全く見えてこない。そしてそうする内、痛恨の一撃を受けてしまう。
「ひっ、ひっ……ひえぇぇぇええん……!」
「あっ……」
スミが泣き出した。
大粒の涙を零し、声を上げて泣きじゃくる少女に、ヤマトの口車は完全に停止する。
「あ~あ、お兄ちゃん悪いんだ。スミちゃん泣かした~!」
「スミさん、どうか泣かないで。ヤマト様はああいう方なのです……諦めるしか、無いのです……」
「ひぐっ、ひぐっ……う、うぅ~!」
女性陣から一斉に冷たい視線を浴びて、居心地悪い事この上無いヤマト。助けを求めようと太郎丸を探したが……彼はいつの間にか、部屋の外へと退避していた。薄情者! と内心で罵る。
「わ、悪いスミ……いや、その、悪いっていうか……あのな、えっと……」
スミになんと声を掛けて良いかわからず、しどろもどろのヤマト。早く謝れだの、酷い殿方だのと、ここぞとばかりに集中砲火を浴びて、体力と精神力がガンガン削られて行く。
こんな時は何て答えたら良いんだ? 誰か教えてくれよ……!
自分も泣きそうになりながら、ヤマトはただひたすら涙を流す娘を慰め続ける以外、何の手立ても持ってはいなかった。