第四十九話:きみがいるから(三)
このお話には残酷な表現が含まれます。苦手な方は十分にご注意下さい。
事態は切迫している。
痛む身体を引き摺って、ノエルは必死に考えていた。ガイランを倒す、その方法を。
「チョコマカと鬱陶しイ小童が!!」
「小僧だの小童だのうるせえんだよ、この糞ネコ野郎!」
未だ止まない冷たい雨の中、ヤマトとガイランが戦っている……といっても、半ばガイランの一方的な攻撃だ。
口撃でこそ勝るものの、実体を伴う戦闘においてヤマトは防戦一方であり、ひたすら避け続けているだけ。左眼を失った事により生じたガイランの死角。そこへ飛び込む事で辛うじて戦線を維持しているに過ぎない。
ノエルにはわかる。もうヤマトに策は無く、身体も限界に近い。目に突き刺した剣の一撃で、あわよくば一気にケリを付けられたら、と考えていたのだろう。
「くっ……!」
「ドウした小僧、動キが鈍ッテ来たぞ?」
予想通り、ヤマトの動きが目に見えて鈍り始めた。原因はスタミナ切れと、身体の不調……前に受けた傷が塞がっていないのだろう。特に、先程から全く使っていない右腕と、常に引き摺っている左足の負傷が酷いようだ。さっきの攻撃だって、相当なムリをしていたに違いない。
「わたしが……やんなきゃ……っ!」
残念ながら冷静に見て、ヤマトの攻撃力でガイランを倒す事は不可能だろう。そうなれば、悪魔を倒せるのは天使である自分だけだ。
前にミノタウロスを倒した時のように、ノーウェイを倒した時のように。ヤマトが時間を稼ぎ、自分がトドメを放ついつものパターン。それ以外に無い。
だが……。
「くっ……っ!! はぁっ……はぁっ……!」
辛うじて動く左手に意識を集中させ、光を集めようと試みるノエル。光の槍を作り出し、悪魔憑きガイランを討つつもりだった。
以前であれば集中を開始すると同時に光がみるみる集まり、輝く槍を形成していたのだ。しかし今は全くその手応えが無い。
無理も無い事だった。悪魔の手によって、ノエルという名の天使はいま人々の信頼を大きく損ない、失っている。
彼女ら天使が力の源とする信仰とは、すなわち信じる心。あんな弱く、穢れた天使など信じられない。とても信用できない、頼る事などできない――。そういった人々の思いが多く、しかも強い為に、ノエルは力を発揮出来ないのだ。
「お願い、ちからを……悪魔を倒す……ヤマトを、助けるちからを……私に貸して……!」
強く……とても強く願い、祈りを捧げるノエル。だが光は集まらない。皮の剥がれた左手が痺れ、頭が割れる程に念じてみたが……やはり駄目だ。
「はっ……はぁっ……う、くぅ……」
それどころか、重なるダメージによって多くの血を失い、意識を保っている事さえ厳しい。頭痛は酷く、視界に掛かる霞はますます濃くなるばかり。あらゆる音は遠退き、雨に濡れた衣服が重く感じて、立っている事が奇跡的とさえ思える。
「ぐあっ!!」
そうする内、とうとうガイランの爪がヤマトを捉えた。左腕と胸板を深く大きく横に裂かれ、苦しげな声を上げて鮮血と共に倒れこむ小柄な人影。そこへトドメを刺そうと歩み寄る獣人の姿が、ノエルの霞んだ目にも映る。
「ククッ……ヤハリ武器越しではツマらン。自らの爪で肉を裂キ、血を啜るコノ感触……コレこそが戦い……我ガ人生!」
「て、テメェは肉屋の飼い猫か……! 一生豚肉で爪研いでろ、この……ヘボネコ!」
ヤマトの台詞に、ふん、と鼻を鳴らし、爪を振り上げるガイラン。
「サラバだ、口の減らぬガキよ」
太く鋭い爪が、雨粒を切り裂いてヤマトへ――だが!
「お兄ちゃんを、いじめるなーーーーっ!!」
突然、草むらから飛び出す人影! スダチだ。彼女は凶刃が兄へ到達する寸前、思い切り振りかぶったフライパンの角を、ガイランの顔面へ力の限り叩き込んだ!
「おぅっ……!」
虎の獣人が思わず仰け反る。その隙にスダチは兄を助け起こし、安全圏へと逃げ出そうとしたのだが……。
「中々ヤルではないカ、小娘」
「わっ……放せっ!……はなしなさいよっ!」
立ち直ったガイランにあっさりと捕まってしまう。
頭を掴んでひょいと持ち上げられるスダチ。フライパンも取り上げられ、手足をバタつかせる以外、抵抗らしい抵抗さえ出来なくなってしまう。
「糞ネコが……スダチを、放しやがれ……!」
「小僧、オ前の妹カ? 雨で気配ガ読み辛いとはイエ、この俺に一撃を入れルとは、中々見所がアル。鍛えれバ良イ冒険者になるだろウ」
言いながら、投げ捨てていた幻魔の爪を拾い上げるガイラン。スダチを掴むのとは逆の手にだけ装着し、人差指の爪一本だけを長く伸ばす。
「そんナ実りあル若者の前途を断ち切ル……コレ程、楽しイ事は無イ」
「スダチに何するつもりだ! 妙な事しやがったらタダじゃ……あぐっ!」
土を掴み、必死に起き上がろうとするヤマトを蹴倒し、ガイランがこの上なく楽しげな表情を見せる。伸ばした爪をスダチの頬に走らせ、薄く皮一枚だけを斬って赤い直線を刻む。
「サテ、どうシテくれよう? 柔らかナ背骨を断ち切リ、二度と動かヌ身体とシテくれようカ? ソレとも子宮を切り裂キ、子を授かれヌ身にシテくれようカ?」
言いながら、スダチの身体を爪先で弄る。服をすり抜け、直接肌に触れる金属の冷たさにスダチは青ざめ、歯はカタカタと音を立てる。
「決めタぞ。マズは『肺』からだ……心配スルな、小娘。肺は二つアルのだ。一つ失ったトテ、死にはしなイ」
これ見よがしに爪を擦り合わせ、たっぷりと恐怖を煽ってからスダチの薄い胸へと爪を突きつける。
「ただ、気管に血が流レ込んで呼吸が出来ず、死ぬホド苦しイがな」
「っ……! ひぃ……た、助けて……!!」
ガイランが手を動かすと、何の抵抗も無く胸へと滑り込んでゆく幻魔の爪。スダチも両手で必死に押し戻そうとしているが、子供と大人、人間と悪魔。微かな抵抗など焼け石に水であるようだ。すぐにスダチがビクリと震えて身体を硬直させ、ガイランの笑みが強まる。
「コレか、オ前の肺は……苦しイぞ、自らの血で溺れルのは」
爪へ、徐々に力が込められて行く。
もう一刻の猶予も無い。
ノエルは人々に……そして神に祈る。お願いだから助けて、と。自分などどうなっても良いから、御慈悲を……と。
だが地を這う天使の声に人々は、そして神は耳を貸そうとしない。
「あ、あ……い、ぃ……! けふっ!」
「スダチッ!!」
苦しげに咳き込んだ少女の幼い口元から、鮮やかな血が溢れる。それは湧き水のようにして流れ落ち、小さなエプロンドレスを真っ赤に染めた。
ノエルの心を焦りが満たし、そこへ絶望が忍び寄る。
もう誰も……人々も、神さえも力を貸してくれはしない。自分が天使失格だから、スダチを見殺しにしろと……身の程を知れという事なのだろうか?
だが、そんな事出来るはずが無い。大事な人を……困っている人を見捨てて、何が天使だというのか。
そうだ、その通りだ。いくら私が気に入らないからって、子供のピンチに手を差し伸べる事も出来ない了見の狭い神様なんて知った事か! 頼った私がバカだった!
信仰が……信じる気持ちが天使の力になるのなら!
「私がっ! 自分を……信じて……っ!! う、うぅぅぅ……あぁぁっ!!」
ノエルの身体から、仄かな光が立ち上り始める。
それは今までのように透明感のある、清らかで純白の、信仰が生み出す聖なる光では無い。彼女の発した光は、強い生命力と暖かさを感じさせる、優しい橙色の光。
その光の源は、ノエルの身体そのものだ。流れる血や、身体の端々。それらを無理矢理光子へと還元し、捉え、左手に集める!
「自分の身体なんだからっ……好きに操れなきゃ、嘘でしょ……! こ、こンのぉ……っ!」
集まる光。だが同時に、耐え難い痛みがノエルの全身を襲う。これまでに受けた傷の全てから血が吸いだされ、治りかけていた爪は剥れて光となった。だが、まだ足りない。
強力な敵である悪魔を倒す為には、天使一人の力では……たかだか一つの命では、到底足りないのだろう。けれど、なんとかするしかない。ヤマトがそうであったように、周囲に嫌われ何の支援も受けられなくたって、知恵と勇気と根性と気合と……自分の中にある物全てを総動員して、目の前にある壁を打ち倒すしか無い!
「て……っ!」
左手に集まった、片手で少し余る程度の小さな光。借り物ではない、正真正銘、ノエルが命を削って自身から生み出したチカラ。それを一点に収束させ、鋭い槍の形へと整え、震える身体で投擲体勢を取るノエル。
悪魔の全身を焼き尽くす事が無理ならば、一点集中だ。ガイランの心臓目掛けて叩き込み、撃ち滅ぼすのみ!
そして神は……必死に足掻く、か弱い子羊を見捨ててはいなかった。
突如、辺りに轟く爆音。真紅に染まる空――!
「な、ナンだ!?」
少し離れた丘の向こう、現在地からは死角になる場所で、巨大な火柱が上がった。熱風によって雨は吹き飛ばされ、草木が波打ち、地面が揺れる。それは太郎丸とアデリーネが大蜘蛛を滅ぼした浄化の炎だ。
ガイランがそちらへ気を取られる。
チャンスは今しか無い!
「て……天使なめるなあぁぁーーーっ!!」
断末魔の如く叫び、投擲!
ノエルの手を離れた光の槍は、炎に気を取られるガイランの心臓目掛け、輝く尾を引いて光速で迫る。だが悪魔の力を得て強化された獣人の反射神経は、光の速度でさえも目に捉え、反応して見せた。
「ぐぉっ……!」
スダチを投げ捨て、幻魔の爪の装甲で防御すべく両腕を交差させて光の槍を受け止めるガイラン。重厚に重なり合う装甲ではあったが、ノエルの光が貫通力に勝っていた。堅甲が粉々に砕け、弾け飛ぶ!
「ぬあぁぁッ!?」
ノエルが命を削り生み出した一撃は伝説の手甲を粉砕し、獣人の逞しい両腕をも焼き貫き、分厚い胸板へと突き刺さる!……だが心の臓には、あと一歩届かない!
しかし――。
「人間、なめんなあぁぁぁぁ---ッ!!」
立ち上がり、タイミングを合わせて飛び込んだヤマトが、ガイランの胸に突き刺さる槍へと右の拳を叩き込んだ!
ガツンと杭打たれたように押し込まれる光の槍。その切っ先が、悪魔の心臓を捉え――。
光が、闇を貫いた。