第四十八話:きみがいるから(二)
このお話には残酷なシーンが含まれます。苦手な方は十分にご注意下さい。
久しぶりに……本当に久しぶりに見る事ができた彼の顔。聞く事のできた愛しい声。
右目の奥から溢れ出す熱い物が、枯れたと思っていた涙だと気付いた時、ノエルは再度、彼の名を呼んでいた。
「ヤマトっ!」
その呼びかけに少年は軽く頬を歪ませ、いたずらっぽい笑顔で応える。
「よぉ、久しぶり」
そんな彼の頬には、以前は無かった深い傷跡が刻まれている。霞んだ目でよくよく見れば、その傷以外にもたくさん……まだ治っていない物も多いようだ。
ガイランがヤマトを襲い重傷を負わせたと言っていたが、どうやら嘘ではなかったらしい。
自分のせいで彼に危害が及んだと、心を痛めるノエル……だがそれは、ヤマトの方も同じであったようだ。ノエルの惨状を見て、哀しげな表情を見せる。
「あ……わ、わたし……」
あれほど会いたいと思っていたのに、ヤマトを前にした今。ノエルは、急に不安になってしまった。嫌われるかもしれない――深く冷たい沼に飲み込まれたかのように、胸が苦しくなり、息が詰まる。
彼がこの場にやってきたという事は、多少なりともノエルがどうして傷を負っているかを知っているのだろう。そして村で何をされたのかという事も。
悪魔たちに穢された自分。顔も身体も、全部滅茶苦茶にされてしまった。せっかく来てくれたのに、久しぶりに会うというのに……綺麗な自分を見せたかった。それなのにこんな姿で……これ以上ヤマトにガッカリされたくない。
優しい彼であるから尚更だ。こんな汚い天使は嫌だと思っても、きっと無理をして笑ってくれる。
「ったく、久々に見たと思ったら……お前、酷ぇ有様じゃねぇか。どこのどいつだ、ンな事しやがったのは! 全員見つけ出してボコボコに……!」
「や、ヤマ……ト……」
また彼がどこかへ行ってしまったらどうしよう? 今度こそはと追いかけたくても、今の自分には飛ぶための翼も、まともに歩ける脚も無い。あの時のように捨てられてしまったら、もう本当にお終いだ。
喜びの涙が、悲しみの涙へと移り変わろうとした時だ。
「あ? なに泣いてんだよお前。しょうがねぇ奴だな……おい、もう泣くな。泣いたってしょうがねぇだろ? 元気出せよ」
どこかで聞いた台詞――。
(大丈夫だよ、ケガが治ったら飛べる)
「大丈夫だよ、そんな怪我くらい。治るって!」
声が重なって聞こえる。それはずっと前、懐かしい木の下で初めて会った時に聞いた言葉。
絶望の淵にある女の子を慰め、勇気付けようと、まだ小さな男の子が少ない語彙の中で一生懸命考え伝えた、心からのメッセージ。
(もし飛べなくても、飛べるようになるまで俺がずっと面倒見てやる。だから――)
「もし治んなくても、お前さえ良けりゃ……俺がずっと面倒見てやる」
声と共に暖かな物が胸の奥へと伝わり、浸透して行く。暖かで、優しい……まるで陽だまりに居るかのような感覚。そうだ、この感じに魅入られてかつての私は――ノエルは、ヤマトの手を取ったのだ。
「だから――心配すんな!」
「うんっ!」
そして、今もまた!
涙を振り払うかのように、大きく頷くノエル。
もうウダウダと悩むのは止めた。どう思われていようと、神様とか天使とか関係なく、自分で選んだこの人なのだ。あの時に感じた光を、握った手から伝わる温もりを。
大好きなヤマトを信じて、今は、前へ――!
「ま、色々と言いたい事はあるけどよ。細けぇ話は後にしようぜ。あの黒ネコを、とっちめた後でな!」
その言葉を待っていたかのように、少し離れた草むらの中からのっそりと起き上がる影。ヤマトの助走付き飛び蹴りによって吹っ飛び、倒れていたガイランだ。その真っ赤な目に宿るのは、深い怒りの色。
「小僧……味な真似を。俺に身体中を砕かれた痛み……喉元を過ぎ、忘れたようだな」
「あぁん? 何のこと言ってやがる。テメェなんぞにボコられた覚えは…………え? なんだよノエル」
言いかけたヤマトに、傍らのノエルがそっと囁く。
「あぁ。あん時の包帯男、お前だったのか。どーでも良い三下の脇役なんざ、イチイチ覚えて無いもんでな」
「この……ッ! 調子に乗りおって!! 今度は加減せんぞ!」
怒りの雄叫びを上げ、腰を落とすガイラン。そして勢い良く飛び上がり、一気に間合いを詰め…………詰めようとしたのだろう。
だが彼の身体は宙を舞う事無く、ジャンプした直後に大地へと引き戻されて、飛ぼうとした勢いのままに生い茂る草の上へと叩きつけられた。
「なっ……!? なんだコレは!」
脚に違和感を感じ、ガイランは慌てて自らの下肢を確認する。するとそこには彼の両脚に絡み付く太い蔦……いや、蔦を装った頑丈なロープだ。背の高い草に紛れてわからなかったが、倒れこんだ草むらに脚を拘束する罠が仕掛けてあったのだと、今頃になって気付く。
「なんの! こんな物、容易に……『縄』ッ!」
幻魔の爪に縄だけが切れるよう設定し、ザクザクと大胆に拘束を解いて行くガイラン。身体を切ってしまわぬよう気を使わなくて良い分、その作業は早い。
しかしヤマトが待っていたのは、まさにこのタイミングだった。
「今だっ!!」
声を張り上げるヤマト。何をするつもりかと周囲に警戒するガイラン……と、その横っ面目掛けて、何かが投げ付けられた。それが顔に命中する直前、咄嗟に手で払い除ける。
「……?」
払い除けたそれは、何かの詰まった紙袋のようだ。手にぶつかった衝撃で、ぱんっ、と音を立てて簡単に粉々となり、その中身が付近に舞い落ちる。薄い紙袋に入った『何か』。中身は黒い粉末状の物だが、毒では無いようだ。まぁ仮に毒だったとしても、悪魔憑きには何の効果も無いのだが。
それよりもガイランは、一体誰が『何か』を投げたのかが気になり、その投擲元へと視線を移す。
「……ヒッ!」
見られている事に気付き、さっと姿を隠す何者か。随分小柄なようだ……ちらりと赤毛が見えた。人間の子供だろうか? さっき天使と一緒にいたガキとは違っていたようだが……?
まあどちらにせよ、この幻魔の爪で切り刻んでやるのみだ。また天使と同じく筋肉だけを切り裂いて動きを奪い、村の悪魔どもにくれてやろう。暇を持て余した連中には良い玩具となるだろう。
だがとりあえずは、目の前に居る生意気な小僧からだ。
「覚悟しろ、小僧。げほっ!『きん、に……』げほ、けふっ!」
筋肉、と言おうとしたのだが、唐突に出た咳に邪魔をされた。妙に喉がいがらっぽい……急にどうした事か。それになんだろう、このニオイは?
そう考えてニオイの元を辿ると、先程投げ付けられた紙袋が目に止まる。
破れて地面に落ち、雨に濡れる紙袋。中に残っている真っ黒な粉末が雨に解け、琥珀色の液体を滴らせている。そこから漂う濃厚で香ばしく、微かに柑橘類を思わせる、芳醇な香り。
「これ、は……けふっ、げふっ!!」
「どうだ、包帯ネコ野郎。良いニオイして来ただろ?」
ニヤリと笑って短剣を抜くヤマト。
琥珀色の村で療養中、村人が言っていた。コピ・ルアクを獣人が飲むと咳とクシャミが止まらなくなる事例が多発しているという。そういえばかつてコピ・ルアクの採集中、太郎丸の咳が止まらなくなった事があったが……。
「わははっ! そいつは通称ウOコーヒー! テメェにゃ勿体無い代物だぜ!!」
「この……ゲホッ! 『きん、に……』……ゲホゲホッ!!」
今が好機!
濡れた地面を踏みしめ、走り出すヤマト。再生された形見の短剣を左手で構え、柄に右手を添えて、ロープに絡まったまま咳き込むガイランに突進する。
「コイツぁ……ノエルの分だッ!!」
狙い澄まし、走った勢いそのままに、全力でもって短剣をガイランの左目へと突き立てる!
「ガァああぁぁぁぁッ!?」
深く突き刺さる鋼の刃。悪魔となり信じられない程に強化されていた肉体ではあったが、ヤマト渾身の一撃を防ぐだけの防御力を、ガイランの目は持ち合わせていなかった。
「ついでに……ウチの妹の分っ!」
「グギャアァァァッ!!」
刺さった刃を捻り、これでもかと眼窩を抉るヤマト。彼を切り刻もうと爪を振るうガイランだったが、『縄』と指定されたままの爪は、空しくヤマトの肉体を通り過ぎるだけだ。
「もう一丁! 追加で……っ! ノエルの分だ!!」
刺さったままの刃。その柄を思い切り蹴って、さらに深く悪魔の頭蓋へと突き刺す。
「ガアァァァァァ…………!」
頭を押さえて身を捩り、狂ったように絶叫するガイラン。その声は、まさに悪魔の叫びを思わせる。
刺さった剣は目を抜け、脳にまで達しているはず。普通の生き物であれば致命傷となり得る傷だ。しかし相手は悪魔に魅入られ魂を売り渡した、普通でない生物。この程度で倒れたりはしない。
「こ……コゾウ……! ユル、さ……ん!!」
ゆらりと頭を振り、目に刺さった剣を無造作に引き抜くガイラン。傷口からは赤紫色の何かが湯気のように燻る。
両脚を拘束するロープを力任せに引き千切ると、幻魔の爪を外して投げ捨て、指先に生える自前の爪をベロリと舐める虎の獣人。野生の獣が持つ猛々しい威圧感が、これまでの何倍にも膨れ上がる。
「やべっ……ノエル、離れてろよ!」
「う、うん」
距離を取って身構えるヤマト。
その時、ノエルは気付いていた。ヤマトの表情に、焦りの色が浮かんでいる事を。