第四十五話:反撃の狼煙(三)
このお話には残酷な表現が含まれます。苦手な方はご注意下さい。
四方八方、ありとあらゆる方向から強い粘性を持った蜘蛛の糸が吐きかけられる。太郎丸は身を屈め、地を蹴って影のように走り、それらの糸を紙一重で避けて身を翻す。
一瞬でも気を緩めればそこに待つのは死の一文字。脳裏に浮かび上がる自らの姿……蜘蛛の糸に絡め取られ、大顎に噛み砕かれる無残な死体。その映像を掻き消し、ただひたすら戦闘に集中する。
視界が埋もれる程の糸をかわし、時折りやってくる大顎を弾いて防ぎ、隙を見て堅甲の隙間へと漸撃を叩き込む。太郎丸にとって幸運だったのは、三体の大蜘蛛がそれぞれ自分勝手に攻撃を繰り出してくる事。もし連携が取れていたなら、五分ともたなかっただろう。
「せいッ!!」
裂帛の気迫でもって刃を走らせ、前に出ていた大蜘蛛の脚を一本、斬り飛ばす。
元が昆虫であり、なおかつ悪魔憑きとなった大蜘蛛であっても、やはり痛みはあるのだろうか? 脚を失った大蜘蛛は大きく仰け反り、金属を擦り合わせるような不快な咆哮を上げてのた打ち回る。
これで最初に斬った分も含めれば、切り落とした脚は合計四本。一体に集中して攻撃を加えた為、三体の大蜘蛛の内一体は機動力が半減した事になる。
だが、もう次は無い。
ちらりと見た愛刀は刃こぼれを起こし、所々が痛々しく朽ちていた。蜘蛛の体液に何か金属を腐食させるような毒が含まれていたのだろう。
「ここまでか。後は持久戦……!」
切り落とした脚を盾代わりに使って糸を避け、背の高い草の間を縫うようにして走る。
さあ追って来い。体力の続く内に、娘たちが隠れる家から少しでも遠ざけてくれる――。
だが太郎丸は、自分の考えが酷く甘いものであった事をすぐに知る事となる。
「な……ッ!!」
突如、脚を取られての転倒。移動する事に気を取られ、全く気付かなかった。草原に生い茂る草の中、その至る所に細い蜘蛛の糸が張り巡らされていたのだ。
脚に粘り付く何本もの糸。細くしなやかでありながら鋼のような強度を持つその糸は、ぐいぐいと太郎丸の脚を締め付け、脛当てを砕き、肉へと食い込んで来る。
「ぐぁっ……! この程度!!」
副武装の小太刀を抜き、無理矢理糸を切り落とす。その際に多少の肉も抉れたが、気になどしていられない。それよりも時が惜しかった。
だが、立ち上がり再度走り出そうとした太郎丸の眼前に、地鳴りを伴って大蜘蛛が降り立つ。脚を大きく広げ、勝ち誇るように大顎を打ち鳴らす邪悪な姿――進路を塞がれてしまった。
「くっ……!」
あきらめてたまるか!
身を翻し、残る道を探す。しかし至る所に蜘蛛の糸が張り巡らされ、糸の無い場所は大蜘蛛が塞いでいる。
「万事休す、か」
これ以上は逃げられそうにない。こうなれば……。
小太刀を構える太郎丸。刺し違える覚悟であれば一体くらい、どうにか出来るかもしれない。その間に願わくば娘たちよ、一歩でも遠くへ逃げてくれ――そう祈りを込めて、刃を振るう。
だが現実は厳しい。主武装に比べて短く、攻撃力にも劣る小太刀は大蜘蛛の硬い外殻に弾かれて歯が立たず、一体を倒すどころか傷を負わせる事さえ難しい。しかも太郎丸が脚に受けた傷は思いの外深く、人狼の機動力を大きく鈍らせる。
「ぐぁ……ッ!」
やがて利き腕に絡まる糸。易々と手甲を砕いて肉に食い込み、ミシミシと締め上げて筋肉を千切って行く。血液が搾り出されるようにして腕から流れ落ち、すぐさま感覚が無くなった。取り落とした小太刀を拾おうと、必死に伸ばした逆腕にも糸が巻き付き、更には脚、そして首にも……。
最早これまで――。首に食い込む糸によって喋る事さえ出来ず、薄れ行く意識の中でそう思う。
戦いの中で死ねるのは本望だが、最後がこのザマとは些か心残りだ。幼いスダチと傷ついたノエル、そしてアデリーネは逃げ切れるだろうか? 気掛かりでならない。
そしてヤマト……まだまだ未熟で覚束ない男の行く末を、隣に立ち、この目で是非とも見ていたかったが……致し方あるまい。
目が霞み、雨音が遠ざかって行く。そんな中――。
「……丸様!」
声が聞こえる……自分を呼ぶ声だ。
「太郎丸様、しっかりなさって下さい! 諦めるには、まだ早すぎます!」
今度ははっきりと聞こえた。間近で我が名を呼ぶ女……アデリーネの声。心なしか、その肌の温もりすら感じられる気がする。
そして温もりは次第に熱く、激しく、炎のような熱でもって身体を炙り――。
「熱ぅッ!?」
「お早いお目覚め、感謝致します」
朦朧とする意識をどうにか振り払い、目を開く太郎丸。その眼前には、ずぶ濡れのアデリーネが居た。肌に張り付く髪を避けながら、倒れた彼を庇うようにして立つ彼女の手には、明々と燃え盛る松明。
「この蜘蛛の糸、随分と強靭ですが細さ故か熱に弱いようです。少々乱暴かとは思いましたが、太郎丸様に絡まっていた糸も、燃やして取り払いました」
言われて自分の両手を見れば、蜘蛛の糸はボロボロになって解け、代わりに体毛が焼け縮れて嫌なニオイを出している。さっき感じた熱はコレだったようだ。
だが、そんな事より……。
「アデリーネ殿、何故逃げぬ! 後の二人は!? お主が付いておらねば、怪我人と子供ではとても……!」
敵を前にして言う事では無いと思ったが、思わず口に出た。せっかく敵を引き付け時間を稼いだというのに、ノコノコ出てこられては意味が無い。これでは命を捨てる覚悟で挑んだ自分が馬鹿のようでは無いか。
「申し訳ございません。私のせいで、太郎丸様の頑張りをふいにしてしまったようですね……」
ジリジリと後退しつつ、こちらをちらりと振り返ったアデリーネ。絶望的な状況の中、松明の炎に照らされる彼女は……なんと、微かに笑っていた。
「ですが、先にこれをやったのは太郎丸様なのですよ? 人がせっかく身体を張ったというのに『遅れてすまん』などと言って。あの時は流石に腹が立ちましたわ」
「む……!」
悪魔の村で、時間稼ぎにアデリーネが残った時の事を引き合いに出されてしまった。アレとコレとは話が別だ! と言いたかった太郎丸だが、客観的に見れば非常に酷似した状況だと思える。
「それに以前、皆様方は私にこう言われました。次の機会などと言わず、今やりたい事をやれ、と」
それは確かエルフの隠里での事だったろう。狂ったシルフを放置しての一時撤退を薦めるアデリーネに、確かそんな事を言ったような――。
「いや、それを言ったのは某ではない。ヤマトだぞ?」
「私にとっては同じ事です」
さらりと返すアデリーネへ、ふん、と鼻を鳴らして応じる。この状況で、よくもまぁ言ってくれたものだ。
両脚を踏ん張り、歯を食いしばって、のそりと立ち上がった太郎丸。身体は重いが……萎えかけていた気力は完全に戻っていた。
「すまなかった、アデリーネ殿」
「……? 何がでしょう、太郎丸様」
守るなどと、おこがましい事を考えていた事を詫びる。
そうだった。彼女は強い……自分よりもずっと強く逞しい。共に並び立ち戦うに相応しい、頼れる仲間だ。
「いや、某の独り言だ。お気にめさるな」
拾い上げた小太刀を構え、アデリーネと背中合わせに立って、にじり寄る大蜘蛛へ睨みを利かせる太郎丸。
「さて……それではアデリーネ殿、反撃と洒落込むか!」
負ける気がしない。
いま太郎丸は、生まれて初めて誰かに背中を預けていた。